「秋空、蜻蛉 2」
劉備×曹操


 幾らほど軍を走らせたか。
 転々と横たわる死体は平素な衣に身を包んでいるところを見れば、平民だろう。劉備軍が壊走していることが目に見え始めていた。
 乗っていた馬は汗だくになり、代わりの空馬に乗り換えようとしたころだ。劉備らしき男が現れた、との報告が、なぜか後方より入った。
 賈クからだった。
「どういうことだ? ……いや、とにかくその男は捕らえろ!」
 前へと駆ける足を緩め、曹操は振り返る。
 罠か。
 劉備に良く似た人間をあちこちに配置して、情報をかく乱させる。ありがちな手ではあるが効果的だ。
 曹操は迷った。
 先へ進むか、それとも後方に出現した劉備の真偽を確かめに行くか。
 前方へ駆けた、頼りになる従弟の顔が思い浮かべられた。
 任せるか、と決めて、馬首を巡らせた。
 曹操の背を無言で守っていた許チョも、急いで手綱を操った。
「近衛と賈ク軍を残し、あとは前方の劉備を追え。指揮の全権は夏侯惇に任せる!」
 伝令を走らせ、曹操は元来た道を疾走する。
 曹操のために軍馬が道を左右に開けていく。近衛に囲まれながらも速度は増していく。
「こちらです!」
 途中、賈クの副官を務めている男が脇の林へと導いてきた。
 まばらに生える木々の隙間を縫うように駆けると、小さな川にぶつかった。ばしゃばしゃと馬たちが水面を蹴る。その先の、崖を背にした小さく開けた場所に、男は単身、白い馬に跨り兵に囲まれていた。
「ああ、まさかあなたご自身が迎えに来られるとは、参りましたね」
 薄く笑った男は、八年ぶりの再会にも関わらず、感慨深げな様子もなく、淡々とそう言った。
「丞相」
 賈クが声をかけてきた。曹操はなぜかひどく不快な気分になるのを覚えつつ、
「劉備だ」
 と呟いた。
「捕らえろ!」
 賈クが即座に声を張り上げて、囲んでいた兵たちが劉備へと飛びかかり、馬から引き摺り下ろした。


「どういうことだ、いったい!」
 幕舎に怒鳴り込んできたのは泥と汗に塗れている夏侯惇だった。幕を跳ね上げるように飛び込んできたものの、幕舎内に賈クが居ることを見とめて、怒気を抑え込んだ。
 夏侯惇へ小さく拱手した賈クは、詳しい事情を説明し始める。険しい顔でそれに相槌を打ちながらも、夏侯惇の隻眼は一時も幕舎の奥にいる男から離れない。
 一通り説明がすみ、夏侯惇は曹操へ改めて拱手した。
「丞相閣下にご報告いたします。我が軍、張将軍以下、被害は多数。詳しい死傷者などは追って書簡にて報告いたします。被害大半は、張飛によるもの。また、単身で我が軍を突っ切っていった一人の武人によるものが大きいかと」
「単身で?」
 奥の男から視線を外し、曹操は聞き返す。
「はっ。一時こちらの奥深くまで切り込み、姿を消したのですが、再び現れて血路を開き、劉備軍へと戻っていくのを目撃している者がおりました」
「我が軍を単身で。そのようなことが出来るのが張飛以外におったのか」
「趙雲、趙子龍でしょうね。あれは雲長や翼徳に並ぶ男ですから」
 奥の男が答えた。
「黙れ、劉備」
 じろり、と夏侯惇が男をねめつける。
「お久しぶりです、夏侯将軍」
 後ろ手に縄で縛られ、動けぬようにされているくせに、普段と変わらぬ様子で受け答えをしている。気の弱い者なら縮み上がる夏侯惇の一瞥にも涼しい顔だ。
「ふざけた事を。貴様を探すために兵を犠牲にした。それがどうしてこうも容易く捕らえられている!」
 夏侯惇の苛立ちは、曹操が劉備を発見したときに不快に感じた思いと同じだ。
「無事に目的を果たしたのですから、良いではありませんか」
「劉備! 貴様は自分の立場を理解していないのか! 貴様のために貴様の臣下たちも犠牲になっているのだぞ。いや、それだけではない。貴様を慕って付いてきた民たちも犠牲になった。それは全て貴様を守るためだったろう。それなのにこうも簡単に敵の手に堕ちるとは、上に立つ者としての器ではない!」
 空気が、夏侯惇の怒号に震えた。
「あなたはお優しい。わたしの臣たちも気にかけて、心を痛めておいでなのですね」
 あくまで穏やかな劉備の物言いに、夏侯惇の顔は怒りで真っ赤に染まった。
「孟徳!! お前、こんな男をどうして生きて捕らえた! その場で切り捨てれば良かったのだ!!」
 憤懣やるかたないせいか、珍しく臣下としての口調を忘れて夏侯惇が訴えた。
「少し、話をしたい、と思ってな。お主の憤りも十分理解しておる。しかし、少し待って欲しい」
 頼む、と夏侯惇へ告げた。
 ぎりっと、奥歯を噛み締める嫌な音が、曹操にも届いた。
「勝手にしろ!」
 言い捨てて、夏侯惇は幕舎を飛び出していった。
 賈クがゆるっと首を傾けて曹操を見つめた。
 よろしいのですか、と瞳が語っている。
 首を横に振って、仕方がない、と呟く。
「丞相、わたしも後で劉備と話をさせてもらってもよろしいか」
 軽く目を見開く。あまり自分の要求をしない男が珍しい、と思った。
 張繍(ちょうしゅう)が曹操の軍門に下ったときより軍師として傍に置くようになったが、賈クはこれまでの歩んできた道がそうさせるのか、物事に対して淡白だ。
 策を提示するときは必要であるから口を開くが、それ以外ではあまり語らず、策が成ったときも褒美を取らす、と言っても要求はない。住む家は未だに質素だ。
 そんな男が、今回、劉備にはいたく興味を示している。劉備を追う、と告げたときも従いたい、と言ってきた。
「構わぬが……」
 どういうつもりだ、と初めて顔を合わせたときより晴れた試しのない憂いで曇った双眸を覗き込む。
 すっと視線は外されて、深く頭が下がり追求をかわされた。
「お人払いは」
「しておけ」
 はい、と返事をし、賈?も夏侯惇に続いて幕内より出て行った。
 残されたのは、曹操と劉備だけだった。
 床に座らされている劉備を、曹操は胡床(こしょう)に腰掛けて見下ろす。
「少し、肥えたか」
 今の今まで薄い笑みを張り付けていた男の顔がしかめられた。
「言うにことかいて、それですか。やめてください、わたしも気にしているのですから」
「そうか」
 ははっ、と思わず笑い出す。頤(おとがい)を解く曹操に釣られてか、劉備も相好を崩す。
「あなたこそ、だいぶ年をとった」
「八年も経てばな」
 ゆっくりと蓄えた鬚を扱く。あの頃にはなかった白いものが、そこには混じっている。
「しかし、相変わらず敏活な指揮を執られている。ああも早く追いつかれるとは思っていませんでした」
「そうか?」
「ええ」
「だからお主が姿を現し、無為な犠牲を増やさぬようにしたのか?」
「そう思いたければどうぞご自由に」
 じっと劉備と瞳を合わせて、言葉の真偽を測ろうとする。劉備の瞳は凪のない湖面のようで、容易く湖底を覗けるはずだが、読み切れない。昔と変わらない双眸をしていた。
「曹操殿こそ、どうしてわたしをあの場で切り捨てなかったのですか。夏侯将軍がお怒りになられるのも無理はない」
「言っただろう。わしはお主と話をしたい、と思ったのだ」
「どのようなことでしょう」
 訊かれて、曹操はしばし迷った。迷ったまま言葉を口にした。
「お主は鼠か、龍か」
「謎かけですか。生憎とわたしは曹操殿ほど教養を身につけておりませんから、それだけでは答えられないのですが」
「では質問を変える。お主はやはりわしと同じ景色を目指しはせぬか。同じ景色を見ることはかなわないか」
「出来ません」
 即答だった。
 分かりきった答えだ。それでも、苦さを覚えた胸の内があり、未だに自分は男を欲していたのか、と気付かされる。
「では、どうしてお主はわしの前に姿を現した」
「あなたがわたしを追いかけ、捕らえたからでしょう」
「違う。お主は本来なら逃げ切れたはずだ。臣下や民を逃がすためにこのような真似をしたのだろう」
「捕まれば、己の命が危ういことなど火を見るより明らかなのに、ですか? どうしてそんな阿呆らしいことをするのですか」
「では、やはりたまたま逃げ切れずに捕まったというのか。そもそも、お主は民を犠牲にして、己の保身を図ったのではないのか」
「彼らはわたしとともにわたしが描く天を見たい、と言った。それだけです」
「だが、お主はわしに追いつかれることを想定していないはずはなかっただろう。連れて行けば巻き込まれることは必然であったはずだ。それを止めなかったのはお主の不徳ではないか」
「そう、でしょうね」
「認めるか。もしも夏侯惇の言うとおり、彼らを犠牲にして逃れようとし、そして失敗したのなら、お主はまことに主として失格であるぞ」
「犠牲にする気は毛頭ありませんでした。ましてや失敗でもないでしょう」
「では何のために現れた」
「さあ? あえて言うなら天の意思でしょうか。それとも的盧――ああ、わたしの乗っていた馬ですが、的盧のせいでしょうか。あの馬はどうやら凶馬らしく」
「ふざけるな!」
 のらりくらり、とかわし続ける男の態度に業を煮やし、声を荒げる。
「困りました。曹操殿はどのような答えなら満足するのですか」
 聞き返されて言葉に詰まる。
 どのような。
 男が素直に膝を折ることを望んでいたのだろうか。
 それとも、臣下や民を犠牲にしたくない、と君子らしい心意気を感じさせて欲しかったのだろうか。
 どれとも違う気がした。
 苛立ちが募る。
 霧が深く心を覆っているように、身内の声が聞こえなくなっていた。
 一睨みして、曹操は幕舎から出て、遠くで控えている許チョへ命じる。
「牢に放り込んでおけ」
 目の前を、群れからはぐれた蜻蛉が一匹、横切っていった。


 劉備と対峙したときの苛立ちが抜けず、またいつ劉備軍が主の居所を嗅ぎ付けて強襲してくるか油断できないため、曹操は冴える目を持てあまして幕舎に設けられた寝所を出た。
 不意にそこで夏侯惇と出くわした。恐らくは夜襲を警戒しての巡回だったのだろう。
「…………」
 どこへ行くとも、このような時刻に出歩くと危険だ、とも口にしなかった。
 ただ、曹操がふいっと背を向けても、静かにその後を追ってきた。許チョは夏侯惇が一緒だ、ということもあってか遠慮して付いては来なかった。
 足の向くままに陣内を歩き回る。
 戦地の只中であるだけに、いつもより見張りも多い。曹操と夏侯惇が連れ立って歩く姿に、急いで拱手してくる。
 陣幕が重なり合う影から少し遠ざかったところで、ようやく夏侯惇が口を開いた。
「これ以上離れるのなら、止めなくてはいかんが?」
「分かっている」
 不機嫌さを隠すつもりもないので、棘のある声で返事をした。
「劉備に何を言われた」
 いつもながらの真正面からの投げかけである。闇夜に微かに見て取れる夏侯惇の隻眼を斜眼する。
「……何も。だから腹が立つのだ」
 劉備の本心であろう言葉を聞けたことなど数えるほどしかない。
「どうするつもりだ」
「……」
 決めていない。
 いや、政略的に考えれば劉備は早急に始末をし、荊州での最大の憂いをなくしたほうが良いに決まっている。そうすれば残りは南、孫呉と、西に広がる益州や涼州のみになる。
「お主は早く切れ、と言うのだろうな」
 傍に立つ男を見上げて言う。当然だ、という答えに対して、どう答えようかと考えつつ、男の口が開くのを待つ。
「いや」
 しかし、予想に反して夏侯惇の答えは否定するものだった。
「お前の考えに従う。切るというなら切る。切りたいが切れぬ、というなら代わりにやろう。もしも、逃がしたい、というなら逃がしてやってもいい」
 目を瞬く。
「お主は、てっきり劉備を嫌っているものと思っていたが」
「嫌い、ではないさ。あいつ――劉備は不思議だな。全然似てはいないが、お前とどこか同じような目をして世の中を見ている。俺には見えていない何かを、お前たちは見ているのか、と思うと少し妬ける。まあそれだけだ。ただ、あれに構うお前が、傷付くんじゃないか、とそれは心配だ」
 曹操のために戦い、失った片方の眼と、残った眼が、曹操を見下ろして真摯な光を宿していた。
 なぜだか無性に気恥ずかしくなり俯く。
「お前のしたいようにしろ。俺はいつもそれに従ってきた。孟徳、お前がどんな道を選ぼうとも、俺はお前についていく。どれだけお前が嫌がろうともな」
 肩を叩かれる。大きな手が、曹操のささくれ立った心をなめらかにしていった。
「ありがとう、元譲」
 告げた言葉に、夏侯惇はにぃっと笑ってみせた。



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