「秋空、蜻蛉 1」 劉備×曹操 |
人差し指をゆっくりと廻す。 円を描き、ゆっくりと、ゆっくりと。 呼吸を合わせて、相手の動きを観察する。 鋭(えい)、とばかりに反対側の手を伸ばす。 捕まえた。 掌中にある小さきそれは、じたばたともがく。 自由を奪われてもがき、空に焦がれて虚しく悶える。 それに気付かない己は、手に入れたことをただ喜び、小さきそれを強く握る。 羽がもげた。 空を飛ぶための、それがそれとしてあるために必要な羽が、己の指先に残っている。 慌てて手を広げると、待ち望んでいたように空へ駆けようとし、地に落ちた。 地の上で、もがき、もがき……動かなくなった。 違うのだ。 己はただ、空を心地良さげに飛んでいる、あの姿に憧れただけ。 滑るように飛んでいる、あの姿を間近で眺めていたかっただけ。 それだけだったのだ。 沓の先で残った羽がはたり、と地面を力なく叩き、息絶えた。 景色が歪んでいくのは、己が泣いているせいだと、気付いたのはしばらく後だった。 ******* 夏が終わろうとしていた。 許都より出立し、この荊州に足を踏み入れたときより、秋の気配がしていたが、やはり南へ下ったせいだろうか。初めのうちはまだ残夏(ざんか)が漂っていたが、今はもう、秋がそこまで迫っていた。 軍舎の中で許都から送られてきた書簡に目を通していた曹操は、賈クが幕を開けたせいで漂った秋風に顔を上げた。 「どうした」 拱手した賈クを見やって、曹操は問う。 「劉備が動き出しました」 「……」 無言で、賈クの常に憂いを宿した双眸を眺め、先を促した。 「防衛線であった樊城を捨て、襄陽へ。襄陽で決起せよ、と声高に叫んでいるとのことです」 ふむ、と小さく唸って、読みかけだった書簡へ目を落とす。 もちろん、落としただけで内容を頭に入れているわけではなく、賈クの言葉を反芻して劉備の狙いを探っている。 「主戦派はどの程度であろうな」 「長いこと平和に甘んじてきた連中ですから。さほど多くはないでしょうが、少なくもない、といったところです」 「無視は出来ぬ、というわけか」 ゆるり、と賈クは頷いた。 曹操が中原北部の平定をすませ、ようやく南へと目を向けられるようになったのはここ近年のことだ。 水上戦になるであろうことも想定し、軍船での訓練も重ね南征へと至ったのはさらに最近のことだ。 曹操、荊州へ侵攻。 長い間、大きな戦禍に晒されることのなかった荊州は、この報にどれだけの恐慌に陥ったか、想像に難くない。 果たして、州牧である劉表がどう出るか、注意深く窺いながらの進軍となるだろう、と曹操も予想していたが、それは杞憂となった。 劉景升、没す。 劉表の中核近くまで間者を潜り込ませていた曹操は、その知らせを聞くなり、天の意思というものを感じずにはいられなかった。 兵を動かした途端の好機。 恐らく後継は後妻の子、惰弱な劉jであろう。となれば、降伏の使者が訪ねてくるのも時間の問題だった。 参謀として連れてきている賈クと荀攸も、同意見であった。そしてほどなく、劉jよりの使者、と名乗る男が陣幕へと訪れた。 目を通すまでもない。懐から出された文には曹操への帰属が記されているはずだ。一瞥して、使者の男へ尋ねる。 「劉備はどうした」 「……左将軍殿には何も」 訊きたいことはそれだけだった。帰属を認めることをしたためた書簡を差し出して、用のない使者を放逐した。 「劉備の動き、探らせておるか」 同席させていた賈クと荀攸へ目を向ける。 「はい」 「抜かりなく」 弁舌滑らか、とは決していいがたい、少々変り種の二人の軍師は、言葉少なに答えたが、曹操にとっては十分だ。 幕舎を出た二人を追うように、曹操も外へ出る。 秋の涼やかな風が身を撫でていく。目の前を、つっと何かが横切る。釣られて目で追えば、赤とした蜻蛉(とんぼ)である。 まるで曹操に見られたことを意識したように、蜻蛉は宙で一度止まり、長い体の尾をピンと張り、静止している。四枚の翅(はね)が恐ろしい速さで空を切り、身を浮かせているのだが、その様が捉えられないのでまるでふわ、とそこに漂っているかのようだ。 それは世の理を軽々と飛び越えているように映る。 思わず、指を立てていた。 つ、つっと滑るように、蜻蛉は宙を切り曹操の指先に止まり、翅を下ろした。 ふっと、思わず笑みをこぼす。 「しばし休むか?」 話しかける。 途端、指を離れて、茜の空へと飛んでいってしまう。 よく見れば、同じ姿の仲間が空をすいすいと滑っていた。 「夏が終わるな」 寒くなる前に決着を付けたいものだ、と呟いた。 「果たして集まるものか?」 「どういうつもりで劉備が挙兵を行い、使うつもりなのか今時点では判断はつきかねます。しかし劉備の徳は聞こえてきておりますゆえ、劉j派は動くことはないでしょうが、劉g派――劉表の近臣であったものは付きます」 のっぺりとした賈クの声が問いに答える。 「樊城を捨て、襄陽まで来ているのだったな。襄陽で守城(しゅじょう)することは、劉j側との軋轢を考えればあるまい。だとすればどこで抵抗を考えるか。北上はありえぬのだから南、か」 読みかけていた書簡や積んでいた未決済の書簡を床に下ろし、荊州の地図を卓上に広げる。 ゆらり、と賈クが歩み寄り、曹操とともに地図を覗き込む。 瞬きをせず、賈クはじっと地図を眺め、細く骨ばった指で襄陽を突き、真っ直ぐに南へとなぞり下ろした。指の先は長坂、当陽といった地を通り、ぴたり、と一つの地名の上で動きを止めた。 ちらり、と瞬きをしなかった目が上げられて、曹操を見つめて瞼はゆっくりと下り、また上がった。 「わしも、そう思う」 賈クの指先で示された地名は『江陵』だった。 元から豊かな物資で溢れる荊州であるが、江陵は物流の合流場所といってもよく、江陵を手に入れれば、たとえ後ろ盾を失くした軍であろうとも、独立すら図れるだろう。 荊州要の地である。 「問題は時(とき)だな」 すでに劉備は江陵へ向けて出立しているだろう。果たして間に合うか。曹操らは荊州に侵攻しているとはいえ、未だ襄陽と距離がある。劉備たちのほうが大軍ではない分、足は速い。 追いつけるかどうか、怪しいところだ。 「丞相、よろしいでしょうか」 と、幕の向こうから荀攸の声がした。 促せば幕が開き、入ってきた荀攸は才気の満ちた眼差しを卓上の地図、曹操、賈クへと走らせて、小さく頷いた。 「襄陽の者より報が入りました。どうやら劉備を慕う民たちが、劉備の呼びかけに呼応して従うようです。その数、万とも十万とも伝えられております」 相変わらずだな、と思わず小さく口角が持ち上がる。 なぜか知らぬが、あの男は人に慕われる。何も持たぬ男であるのに、心酔する者はあとを絶たず、曹操が熱烈に傍へ、と願った軍神も男の下へと帰っていってしまった。 逞しい背が視界から消えていくのを見送った切なさを思い出し、曹操は持ち上げた口角を下げる。 ふと陥ってしまった哀愁を振り払い、曹操は荀攸へ訊く。 「従う者たちのありようはどうだ」 「女子供、老人まで様々で、さらには家財まで担いでいる者もいるようです」 決まった。 荀攸へ命じる。 「留守を任せる」 「畏まりました」 それだけで通ずる心地良さに、曹操は今度こそはっきりと口角を持ち上げる。賈クに目を走らせれば、憂いを孕んだ双眸が今は鋭い。 「従ってもよろしいでしょうか」 「もちろんだ。ただし、遅れれば置いていく」 「承知しております」 「夏侯惇と張遼をここへ」 幕の外にいる従者へ声を張り上げる。 陣営内がにわかに色めきたってきた。 地中を龍が駆けずり回っているとすれば、このような地鳴りになるのであろうか。 鳥は甲高く泣き叫び、梢から空へ飛び立ち、小動物は地鳴りから少しでも遠くへと木の根をすり抜け駆け去っていく。 鳥が人間のような感情を持ちえるのならば、地鳴りの正体を見てまたしても金切り声をあげたかもしれない。黒々とした長い体躯は、龍を思わせ、地鳴りという咆哮を上げながら南へと向かっている。 そして、地面を逃げ惑っている小動物がもしも恐れずに黒い龍を地面から見上げたのなら、実は龍は個ではなく小さな個の塊であることに驚くであろう。にも関わらず、身体は個であることを示すかのように、崩れることはない。 馬蹄を響かせ走り、勢いは龍のごとし。 龍の頭で、駿足を駆るために簡素な軍袍に身を包んで手綱を握っているのは、馬術では曹操軍一、と名高い張遼である。 己の役割は先へ先へ、一寸でも早く大牛と成り果てた集団の尾を掴むことだと承知している、迷いのない手綱捌きである。配下たちが付いてきているかなど、気にしている様子もなく、ただ眼光を遥か先へと伸ばしている。 元より、己が指揮する軍に脱落者などあるはずもない、と信じているからこそである。証拠に、張遼の後をぴたり、と従うのは誰もが彼にとっては見知った顔である。 そして龍の胴体、中ほどにはこちらも驚くほど軽装な曹操の姿がある。栗毛の馬を操る手には迷いがなく、達者である。隣には胸当てだけであるが鎧を着込んだ夏侯惇が同じように手綱を握っている。 龍の尾には賈クの姿だ。武人ではない彼にはこの行軍の速さは苦であろうが、何とか付いてきている。同時にしんがりであるので強行軍の全体を見渡す役目も担っていた。 「劉備は何を考えているのだろうな! 民を引き連れての行軍など、こうして追いついてくれ、と言っているようなものだろう!」 激しく揺れる馬上だが、慣れている夏侯惇は舌を噛むこともなく、隣で駆ける曹操へ大声で話しかける。 大声を出さないと聞こえない、というだけなので、曹操も声を張り上げて答える。 「そのようなこと、劉備を捕らえてから訊けばいい! 今は追いつくことだけを考える!」 「そうかもしれんが、俺はあいつが民を盾に上手く逃げようとしているとしか思えん!」 「お主の目には、あやつがそんな小さな器に見えておるのか!」 「知らん! 俺はあいつのことが良く分からんし、分かりたいとも思っていないのでな!」 少し前に、夏侯惇は博望坡で劉備に苦杯を舐めさせられている。さらに曹操の客将として劉備が許都へ身を置いていたころより、劉備の存在を快く思っていなかった。 それが語気にも現れていて、大声というよりは怒鳴っていた。 夏侯惇の横顔に目を走らせれば、前方を睨み付ける三白眼があるだけだ。あまり機嫌は良さそうではない。 苦笑して曹操も前方へ視線を戻す。 良く分からないか。 それは曹操自身にも言える。 出会ったときからそうだった。 良く分からない男だった。 垢抜けない泥臭さを身に纏っているくせに、ふとした拍子に見せる言動は驚くほど鮮烈で人の根底を揺さぶってくる。何をしているでもないくせに、恐らく街中で歩いているところを見かけたら、ふっと目で追っているだろう。 気が付くと、男はいつも輪の中心に居る。 いや、それとも周りがそうさせるのだろうか。 曹操が男を気にかけて傍に置くようにしたのと同じように。 男はそれでもやはり男のままで、自由気ままに振舞っていた。 しかし天というのは常に過酷で、大器の片鱗を見せているはずの男に、決して時運というものを与えなかった。不遇であり続ける男に、曹操は己の目指している景色をともに見られるのはお主だ、と告げたこともある。 『もし、この乱世を治世に導く英雄がいるとするならば、それはわしかお主であろう。お主にはわしの目指す景色が見えているはずだ』 春雷が鳴り響く中で交わした会話だった。雷が苦手だ、と言って顔をしかめた男は、しばらく遠くの空へ目を飛ばしたあと、曹操へ言った。 『違いますよ、曹操殿。あなたとわたしが見る景色は決して同じではいられません』 『なぜだ』 『だってそうでしょう。あなたとわたしは違う人間なのです。今、雷を恐ろしいと身を竦めている私もいれば、あなたは春雷轟くのを風情がある、と思われているかもしれない。そのぐらい、人は違うのですから』 『それでも、わしとお主ならば』 『面白い方だ。あなたは色の異なる才能を好んでいらっしゃるのでしょう? なのに、どうしてわたしには同じ色に染まらせようとなさるのですか。あなたはあなた。わたしはわたしではありませんか?』 小さく笑った劉備の顔と、虚を衝かれて押し黙ってしまったあのときの自分を脳裏に甦らせて、思い出し笑いをする。 異色を愛しているはずの自分らしくないことを、どうしてか劉備には求めてしまう。 裏切ると分かりきっている劉備を、許都から離れることを認めたのは、劉備が天に描く色を見てみたい、と思い直したからだ。 あれから約八年経った。 劉備は変わらず天を掴めず、地を這う野鼠のように荊州で生き延びていた。その間に曹操は覇を争っていた袁紹を降し、北方の脅威も取り除き、着々と天を己の色へと塗りかえていた。 ようやく南へと筆先を伸ばした。 八年の間、劉備の動静は探らせ続けた。 州牧である劉表や外戚である蔡一族よりも、一介の客将である男の動きに注視していた。 やはり、曹操に抵抗を示したのは一介の客将であった。 お主と再び見(まみ)えたい。 地に伏した龍であり続けているのか。それとも、地を駆けずるだけの鼠と成り果てたのか。 牛歩となった劉備軍の尻尾は、もうすぐそこに見えてきていた。 龍の頭角がにょきり、と伸びたのが感じられた。 捉えたか。 途端、伝令が前方より駆けてきて、曹操に併走する。 「劉備軍しんがりを、張将軍が捕捉しました。第一撃を加えているところです。しかし、最後尾は劉備に従っている難民ばかりのようで、護衛兵らしきものが少数居るだけの模様」 伝令の報告に曹操とともに耳を傾けていた夏侯惇が、ちっと憎々しげに舌打ちをした。 やはり夏侯惇の予想した通り、自分が逃げるための盾、時間稼ぎのために無力な民を連れ回しているのだろうか。 「張遼に伝えろ。思う存分に民の中を駆け回り、混乱を招け、とな」 はっ、と伝令は返答し、馬の腹を蹴って曹操を追い越していった。 「崩れぬところが、中核、か」 切れ切れに聞こえた夏侯惇の呟きに、曹操は手綱を握り直した。 統率の取れていない民は泥濘と同じ。水を注ぎ込めば容易く崩れ、中に含まれている硬い核、玉(ぎょく)が姿を現すだろう。そこに劉備は居る。 突出しているであろう張遼の軍はさしたる抵抗も受けていないようで、泥を掘り返すように奥深くへと進攻している。 それは後ろに続く曹操にも手に取るように伝わってくる。 が、不意に掘り返していた鍬が大岩にでもぶつかったかのように、つんのめるように動きが鈍くなった。 大物が出て来たに違いない。 それも劉備の抱える才覚のうちでも一、二を争うものだ。 関羽は、夏口へ向かった、との情報を得ていた。となれば……。 「張飛か」 目を眇める。 関羽と同等の武を誇る男にして、まるで対極にいる男。静と動を併せ持つ関羽や隣にいる夏侯惇と違い、荒々しい動しか持たぬ男である。その動は乱世の鬼神と恐れられた呂布と同格とも言われている。 「俺も行く」 どうやら夏侯惇も、軍の動きが鈍ったのは張飛あたりが出て来たせい、と察したらしい。 「張遼でも不足はないだろうが、指揮まで気が回らぬだろう」 「頼む」 短く交わして、夏侯惇を促した。にぃっと笑った夏侯惇は、すでに平時に軍を統括している将軍の顔ではなく、一個の武人の顔になっている。はぁっと手綱を振って馬を逸らせ、先へと駆けていった。 変わらぬ従弟の姿に小さく笑い、すぐに曹操は表情を険しくした。 逃すかもしれぬ。 そういう予感があった。 逃れる劉備軍を幾度か追ったことのある曹操だから感じえることだ。さらに、今回の手ごたえはいつもよりやや異質だ。 博望坡のときも同じだ。夏侯惇より報告を受け、劉備らしからぬ色を覚えた。 諸葛孔明、という男がいる、と無理矢理に劉備から引き剥がし、こちらへと組み込んだ徐庶という男が言っていたことを思い出す。 己の身体を空へと舞い上がらせる術を知らなかった龍へ、諸葛亮という男は飛び方を教えたのかもしれない。いや、むしろ男自身が龍であり、劉備は男を導く雲であったか。 なんにせよ、劉備の追走は一筋縄ではいきそうになかった。 |
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