「梅の雨が降りしきる 2」
劉備×曹操


 目的地もない遠駆けは、こじんまりした池の畔にある梅の木の下で終わりを告げた。
「まだ、咲いておるのだな」
 あちらへ行ってみよう、こちらがいいか、という曹操の言葉に、そもそも赤兎に乗ってみたかっただけの関羽は、希望通りに手綱を捌いた。
 だから、手綱を引いたのもまた、希望であった。
「梅が咲いておる」
 目が良いことには自信があった関羽より早く、風情を愛する曹操はその梅に気付いたようだ。指し示されて、関羽は馬首を巡らした。
 軽快な足取りで赤兎は二人を池の畔、梅の木の下まで運び、足を止めた。
 馬上から、そっと曹操は梅の花弁へと指を伸ばした。
「もう散り始めている時期なのに、こやつは何を勘違いしておるのだろうな」
 真っ赤な花弁だった。鮮烈なまでの赤に、曹操の白い指が綺麗に映える。
 それに目を奪われながら、ぽつり、と呟いた曹操の口調に違和感を覚えた。
「梅は、お嫌いなのですか?」
 ぴくっと、曹操の肩が震えた。なぜか驚いた顔で関羽を見やった。まるで関羽がいることを忘れていた、とでも言うような驚き方だった。
「いや、美しいものを儂が嫌うはずがなかろう」
 しかしそれはすぐに消えて、艶やかな笑みが容貌を彩った。
「なぜそう思った」
 逆に聞き返されて、関羽は答えに窮した。
「そう、聞こえたのです」
 どこか、悲しそうに、憎らしげなものであるかのように。美しいものを愛でる曹操にしてはおかしい、と思うほどに。
「しかし、お好きであるなら、一本手折りましょうか」
 曹操が撫でた花弁が付いた枝を一ふり折り、手土産にしようかと関羽は手を伸ばす。曹操の上から覆い被さるようにして、指の先、枝の中ほどを掴んで力を込めた。
「駄目だ!」
 珍しく、関羽に対してはついぞ聞いたことがないような、厳しい声が曹操から発せられ、腕を払われた。
 拍子に枝が揺れ、撓ったそれはあっと思う間もなく曹操の顔を突いた。
「――っ」
 顔を掌で覆い、曹操が顔を伏せた。
「曹公!」
 さっと馬から飛び降りて、前に回り込んで傷付いたであろう顔を窺う。
「お顔を……。手をどかしてくだされ」
 あの美しい顔に傷が付いたのか、と思うと、関羽の胸はドクドクと激しく脈動した。
「いや、たぶん大丈夫だ」
 言いながら、曹操はそろそろと手を顔から退ける。しかしやはり痛みはあるのだろう。その目は瞼で塞がれていた。
 馬上の曹操は、関羽にとっては見上げる形になる。露わになった顔を丹念に眺めると、頬に薄っすらと一筋の赤い線を見つけた。白い指に赤い花弁が映えたように、その線も肌の白さを印象付けるように際立った。
 傷の具合を確かめるため、指で跡をなぞると、驚いたように曹操の目が開いた。
「……っぁ、痛みましたか」
 驚いたのは関羽も同じで、思わぬ肌の柔らかさと滑らかさ。何より今までにないくらいに近くで交わった瞳が、夜の闇を思わせるほど深く、戦場で怯んだこともない自分が怖じけた。
「恐らく、切れてもいませんし、大事無いとは思いますが。申し訳ございませぬ。拙者が余計な気を回したがために」
 急いで手を下ろし、視線も逸らした。深い瞳に吸い込まれそうだった。
「いや、お主のせいではない。思わず手が出たのがいけなかった」
 逸らしたはずなのに、曹操の漆黒の瞳が消えない。
「気に病むな。そのように気落ちしている姿など、軍神らしくない」
「はっ……」
 続けて曹操の慰められれば、立ち直らないわけにはいかない。恐る恐る視線を上げれば、にこやかな笑顔がそこにあった。
 どくん、と確かにその瞬間、関羽の心臓は飛び跳ねた。
 なぜかひどく慌てふためいた気分になり、申し訳ございませぬ、ともう一度口にした。
 そんな関羽を見て、何を思ったのか、曹操は馬上から梅の木を仰ぎ見た。
「これは、このままでいいのだ。手折らず、ここに生えさせておけば」
 まるで言い聞かせるように、曹操は覇気溢れる普段の声音と違う、遠くを望むような調子だった。
「曹公?」
 訝しみ、曹操を呼ぶが、空を見上げたままの男はあの深い双眸を向けてはくれなかった。なぜか歯痒くて、もう一度呼ぼうと口を開いたとき、曹操の後ろ髪に花びらが一枚くっついているのを見つけた。
 先ほど、勢いよく枝を払った拍子だろう。
 一瞬ばかり、関羽は躊躇った。曹操に触れることが怖かった。しかし花びらは自分では見えにくい場所だ。どの道、関羽が取ったほうが早そうだった。
「曹公、花びらが付いておりますの、取ります」
 それでも一応は断って、手を伸ばして髪の中に埋まっている花びらを摘み上げた。
「……っ」
 その状態で、関羽は固まってしまった。関羽が髪に触れた途端、思わぬほど曹操が驚き、艶めいた息を吐いたからだ。
 曹操の髪に手を伸ばした、妙な格好で動きを止めた関羽へ、男が視線をぶつけた。
「……」
 小さく唇が戦慄いて、何かを呟いたが、低すぎる声は聞き取れない。聞き返そうとしたが出来なかった。
 不意に曹操の顔が降り、関羽に口付けたからだ。
「ぅん……っ?」
 目を見開いた。呻いてすぐに離れようとしたが、曹操の両手が顔を挟んで叶わない。いや、関羽と曹操の力の差なら、いとも容易いことだろうが、なぜか動けなかった。
 唇は、先ほど触れた頬よりも柔らかく、暖かかった。
 驚くことはまだ続いた。そのまま、舌が侵入してきたのだ。
(何を……)
 考えているのか。
 突然の口付けに混乱中の関羽は、曹操の真意を探る余裕はなかった。ただでさえ、関羽には曹操の思考は読みづらい。劉備のように長く傍にいるわけでもなければ、今まで積極的に理解しよう、と思ったこともないのだから、当然だ。
 舌は容易く口腔を犯してきた。
 薄い、女の舌をどこか思わせるような舌が、関羽の肉厚の舌に絡み付いた。
 やわやわと表面をくすぐられた後、口外へ漏れるような音を立てて舐めてきた。
「ふ……ぅ……っ」
 息継ぎの呼吸が艶かしい。角度が変わって、より深いものになる。
「っ……ぁ、ふ……」
 口腔を小ぶりな舌が隈なく這い回り切るころ、曹操のとも関羽のともつかない唾液は、体勢のせいで関羽の顎を伝い、自慢の髯に吸われるありさまとなった。
 気付けば、驚きで見開いた目は閉じられ、曹操の舌の動きに煽られるように、関羽からも舌を絡めていた。半端に伸びていた腕を曹操の背中と後頭部を支え、もう片方の腕は馬から落ちないように、腰へ回した。
 僅かに離れた唇から、曹操が舌を伸ばして関羽を求める。
 応えて、関羽も舌を伸ばして絡めた。
 そうして幾刻(いくとき)口付けていただろう。
 始まったときと同じで、不意に終わりを告げた。
「帰ろう……」
 曹操が呟いて、関羽の下唇を軽く啄ばんで、濡れた髯をそっと撫でて終わった。関羽も黙って頷いて、赤兎の背に跨った。
 帰りは互いに終始無言であった。



 曹操が関羽を凝視するように見つめて来たのは、それからだった。
 それまでは、純粋に才能を焦がれる、ある意味で子供のような眼だった眼差しが、遠駆けの後から、艶を含んで見つめて来るようになった。
 いや、ここ最近ではあからさまにそれを口に出してきた。
 すなわち、

『儂を抱きたいと思わぬか』と。

 我が耳を疑うとはこのことだ。
 一度は男なりの冗談かと思い盛大に笑ってみせたが、大いに曹操が機嫌を損ねてしまい、本気なのだと知れた。
 しかし関羽は、贈られた財宝や女たちと同じように、断り続けた。
 それは出来ない、と。
 操を立てている女でもいるのか、と迫られ、劉備に会うまでは世の欲から身を遠ざけるのか、と詰られもした。
 では逆に、どうして突然そのようなことを言い出したのか。あの梅の下での口付けは何だったのか。
 関羽とて訊きたいことはあった。しかし口にするにはためらわれ、無理です、の一点張りで撥ね付けてきたのだが、どうやらそろそろ限界のようだった。
 今日も、曹操に誘われて秘蔵である書庫へ招かれて読書に勤しんでいたところ、さらに奥へ行ってみないか、と言われた。
「この先の、まあ別館になるが、そちらにはさらに秘蔵中の秘蔵の書が置かれているのだ。普段は専門の管理者がいて、儂ぐらいしか入らせてくれぬのだが、今日は不在でな。今なら読み放題だが、どうする?」
「しかし、拙者はここにある書物だけでも充分に満足しております。これ以上の贅沢など」
 表面上は断ったものの、内心では好奇心が抑えられないでいた。
「そうなのか? しかしもったいないと思うぞ。中の書物の一端は……」
 そう言って曹操は幾つかの書名を挙げてみせた。
 その中には、関羽が話に聞いて、一生のうちに読んでみたい、と思っていた春秋時代の書物もあった。
 思わず、ごくり、と知的好奇心から咽を鳴らす。
「行くか?」
 二つ返事となったのは、その場は仕方がない、と思ったのだ。
 案内された別館は、宮殿でもかなり奥まった場所にあり、この書庫に用事がない限りは誰も足を向けないだろう、というところに、ひっそりと建っていた。
 戸が開けられれば、書簡特有の香りと、埃っぽさが鼻を撫でた。書簡が痛まないようにするためか、極端に窓が小さく少ない。薄暗い室内であったが、戸を開放してしまえば気にならない。
「お主が読みたい、と思ったものはこれだろう」
 書簡の配置も熟知しているのか、曹操は壁の書棚の中ほどから取り出して、関羽に渡した。
 紐を解けば、まさに夢にまで見た文字、そして文が並んでいる。
「そっちの明るいところへ行くといい。生憎とここは火気厳禁だ。回廊の下で読むとしよう」
 曹操も読みたいものでもあったのか、ひょいっと書簡を抜き取り、関羽を廊下へ誘った。
 そうして二人はしばらくの間、文字の川を漂い始めた。
 夢中で関羽は字面を追っていたが、不意に体の半分に暖かい感触を覚えて、眠りから覚めるようにそちらを向いた。
「曹公?」
 曹操が関羽に凭れるように、眠っていた。
 あの黒々とした深い双眼が瞼に隠れると、曹操らしさを失う、というか。容貌が整っているせいか、実際よりも若く見える曹操は、あどけなさすら漂わせていた。
「お疲れか?」
 小さく声を掛けても、起きる様子はない。
(なんと無用心なことか)
 降将とはいえ、関羽は曹操へ絶対の服従を誓ってなどいないし、曹操自身も充分に承知しているはずだ。
 それでも、曹操はこうして油断できないはずの相手へ体を預けて、安心しきった顔をして眠っている。
 そんな寝顔を眺めていると、思い出される。

 あの日のことが……。



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