「梅の雨が降りしきる 1」 劉備×曹操 |
はらり、と踊るように落ちてきた花弁を、そっと掌で受け止めた。 掌で身を休めた花びらは、傾けた途端にまた、はらり、と地へ向けて舞うように落ちた。 「そんなに、珍しいですか」 じっと眺めていた自分がおかしく思えたのだろう。男が尋ねた。 「いや。見慣れたものだ」 「しかし、興味深げに眺めておられた」 「ああ、それは……こうありたい、と思ったからだ」 男の首が傾げられた。 「散るのなら、鮮やかに。花びらをあっさりと落ち尽くし、潔く。しかしその後に実を付ける。そのように生きたい、とな」 決意を含めた、厳かなる思いだった。しかし聞いていた男には、決意は伝わらなかったらしく、なぜか笑い出した。 「貴方らしくもない。もう死んだ後のことをお考えに?」 「おかしいか」 むっとする。 「まだこれからでしょう。貴方も……私も」 「ほお? 珍しくも自身を誉めそやしたな」 「別に……ただありのままを口にしただけ」 男の言葉にも一理ある。常に先を先を、と思考を巡らすうちに、いつしか遥かに見えないところまで辿り着こうとしていた。 「しかし、貴方の例えには同感です。地面が赤い」 言われて、足元へ視線を落とす。 「これは、貴方や私がそう生きていくには、地を赤く染めなくてはならない。血で大地を汚さねばならない。戦を無しに、この世を生きていくのは不可能だ、と言わんばかりです」 それは悲しいことですね、と赤い花びら越しに空を見上げた男の横顔に、はっとする。 「来年……」 「はい?」 「また、ここへ二人で来ないか」 なぜか、そんな言葉が口をついた。 確かな約束であるか、誰にも分からない。ただ、空を見上げた男の、どこか遠くを見つめる視線を、少しでも近くを、少しでも長く、こちらに向けて欲しかったからかもしれない。 「ええ、お約束します。また来年、この梅が咲く頃に」 男が微笑み、指を伸ばしてきた。また、花弁がはらり、と落ちて髪に引っ掛かったらしい。そっと摘まみ上げられて、男はそれに愛しそうに唇を付けた……。 ***** 己よりも遥かに小さい、目線をかなり下げないと顔が見られない、それほどまでに体格差がある相手に、軍神と恐れられる男が気圧されていた。 いや、正確に言えば、弱り果てさせられている、というべきか。 「儂が抱いてもよい、と言っておるのだ。何を躊躇う」 元々寄り掛かって密着していた体を、ぐいぐいと寄せられる。 「曹公、それはお断り申し上げたはずです」 それでもまだ、軍神――関羽の口調は頑としたものだった。 揺るがない関羽に対して不服をありありと、小作りの体躯一杯に表現しながら、曹公と呼ばれた男――曹操は言葉を返した。 「なぜだ。誰に義理立てをする必要がある」 ぐいっと、さらに体を寄せられて、関羽は回廊から庭先に落ちんばかりに身を離す羽目になる。 (困った、本当に困った……) 関羽は半ば(自分でも情けないとも思うが)泣きそうな気分で、ここへ来て、何度繰り返したかもしれない言葉を心の中で嘆いた。 関羽が、死ぬときは同年同月同日、と誓い合った義兄弟と生死も分からず別れて、早数ヶ月が経とうとしていた。 大陸は董卓という暴政から解き放たれて以来、群雄割拠の状態が続いていた。 その中でも頭ひとつ分抜け出たのが、太平道の信者で黄巾賊である兵を併呑し、さらには献帝をも迎え入れた曹操と、元からの知名度、家柄から有利であった袁紹。 この二人であった。 勢いのある曹操か、それともひしめく群雄の中でも圧倒的な兵力を持つ袁紹か。二人以外の勢力は、自然両名の動向に神経を尖らせることになった。 そんな中で、関羽の義兄である劉備は曹操と敵対する立場にあった。 一度は同盟を結び、呂布という大敵を討った間柄ではあるが、劉備と曹操の同盟は長く続かなかった。 曹操は劉備を何としても我が下へ与そうとし。また劉備は頑として受け付けなかった。 表向きはどう見えるか分からないが、少なくとも劉備を良く知る関羽から見れば、義兄は決して人の下で大人しくしている器ではない。 人の下で働く、という概念が劉備には存在していない。決して動かない。 では劉備が動くとき、というのは、己のため、だ。 例えば目の前で、自分と同じ農民が苦しめられているとすれば、助けなくては、侠の心が静まらない。 恩ある人間が救援を求めている、と知れれば駆け付けなければ目覚めが悪い。 そして何より、一度この世に生まれたからには、誰かの尻(けつ)など見ているなんてつまらない。 どうせなら、頭になって、担がれて、高いところまで上り詰めて遠くを見てみたい。この乱世という大舞台で大暴れしたいのだ。 劉備が無邪気に言い放った言葉は、関羽を心服させるには充分だった。 それが結果的に民を救う道であり、世を平定する道である、と見極めたからこそ、関羽はもう一人の男――張飛を含めた三人で、義兄弟の契りを結んだのだ。 広い意味で、関羽は劉備に惚れ込んでいた。 そんな関羽のように劉備に惹かれる者は多く、その求心力に曹操は目を付けたのだ。 それはもう、あらゆる手を尽くした。 呂布討伐からあと、共に許昌に戻った劉備へ、曹操は執拗とさえ言えるほど己に与するよう、水を向けてきた。 それをことごとく劉備はあしらった。 女を送られれば、溺れるほど愉しみ。 贅を施されれば、過剰なほど喜び。 美食を召せば、遠慮なく舌鼓を打つ。 それから、やはり自分には分不相応だ、と申し立てて、何事もなかったかのように元に戻る。 関羽が劉備に敵わない、と思うのは、そういう場面だ。 全てにおいて、力を抜かない。 だからこそそれらを手放すときに躊躇いがないのだ。悔恨がない。 どんな染色を施しても、劉備の色は決して染まらない。 例え曹操という、鮮烈な色だとしても、無理なのだ。 そうして、劉備はのらりくらり、と曹操の勧誘を受け流し、ある日もっともらしい理由を携えて、許昌を出立し……。 反旗を翻した。 曹操が統治することになった徐州を、奪ったのだ。 しかし当然それは曹操の襲撃を招き入れる結果となる。 寡兵である劉備軍に、破竹の勢いである曹操軍に勝てる要素は一つもなかった。劉備が当てにしていた袁紹も動かず、また逆に動くまい、と思っていた曹操自身が討伐に参戦してきたのが、何よりの誤算だった。 それだけ、曹操は劉備に思うものがあったのだろう。 もちろん、正しく戦略的な行動が大部分を占めていたのは、現実主義者である曹操なので、当然ではある。 四方を敵に囲まれた状態である曹操としては、一刻も早く劉備が奪った土地を取り戻したかった。それには曹操自らが指揮を執ったほうが早かった。 それでも、やはり自ら出陣となった背景には、劉備への執着が見え隠れしていた。 もっとも可愛さ余って憎さ百倍であるのか、それは当人にしか分からないことだ。 そうして、あっさりと瓦解した劉備軍は、劉備を筆頭に散り散りとなり、下?城を守っていた関羽と、劉備の妻たちを残して、生死も分からぬ不明者と成り果てたのだった。 下?城を曹操軍に囲まれ、関羽の頭に真っ先に浮かんだのは、最後まで戦い抜く、というものだった。 もちろん、討ち死ぬことは確実だろう。それでも、少しでも多くの首級をあげて、武人として最後まで誇り高く戦い抜こうとした。 それを止めたのが、張遼だった。 いや、恐らくは曹操の差し金も含まれていたのだろう。 友の背後に曹操の意図がちらついてた。 曹操が関羽の武人としての器を、ここで失くすのは惜しい、と考えたのだろう。 それでも、友の真摯に自分を助けたい、という心に偽りはなく、ここで果てるには義兄弟の契りに反す、という言葉に得心がいった。 『今、劉備殿は生死も分からぬ状態。しかし、それは生きているやも知れぬ、ということでもある。そんな状況で関羽殿だけ先に逝ってしまいなさい。それは紛れもなく誓いに背くことではないか?』 呂布の配下であった頃より、張遼の芯の通った姿に好感を持っていた関羽は、何かにつけて交流を図り、親睦を深めていた。常に純粋な味方、という立場にならないせいか、表沙汰には派手ではないが、二人の仲は親密であった。 その友の紡ぐ言葉が、何よりも心に突き刺さった。 こうして、関羽は曹操へ降ったのだ。 待遇は悪くなかった。 それどころか良すぎるぐらいだ。 元より曹操は才能を持つ者をこよなく愛する。 関羽も随分前から、武人としての才能に目を掛けられ、幾度か自分の下へ来ないか、という誘いは受けていた。 それこそ、劉備が曹操の執拗な誘いを受け流していたその最中さえも。 それでも、その頃は曹操の関心はもっぱら劉備だったらしく、さほど激しいものではなかった。 しかし今はどうだ。 まるで劉備に受け止めてもらえなかった愛情を、代わりに関羽へ注ごうと。劉備の分を含めた二人分の才能への求愛を惜しみなく放っているかのようだった。 許都へ来るに当たって、関羽と劉備の妻たちは必要最低限の兵や侍女しか連れてこなかった。 しかし与えられた屋敷はあまりにも広すぎた。質素倹約が信条である――というよりは、そうせざるを得ない財政だからなのだが――関羽たちにとって落ち着かないものだった。 急いで小ぶりの屋敷へと替えてもらった。 だが、それだけでは終わらない。 ようやく身の丈にあった屋敷に腰を据えれば、今度は次々と運ばれてくる金銀翡翠瑠璃水晶の類に、正直本当に目が眩んだ。 よろよろしながら関羽は夫人たちにそれらを差し出したが、やはり彼女らも恐々と眺めるばかりで嬉しそうではない。 不必要だ、と言って断った。 しかし曹操は受け取らず、仕方なしに関羽たちは宝玉を奥の、誰も入らない部屋に押し込めた。 安堵のため息を吐いたところで、宴への誘いだ。 しかもかなり大規模な宴であるらしく、それを聞いた夫人たちは、そのようなところへ着ていく衣がありません、と嘆いた。それは関羽も同じこと。しかしここまで色々と手間を掛けさせている。 すでに断りづらくなっていた。 (兄者の処世術が今ほど羨ましい、と思ったことはありませんぞ) 思わず空を仰いで弱音を吐く。 結局、宴には関羽一人で参列することになった。 衣は唯一まともであろう、というものを選んで(それだけ、繕いがされていなかった)、せめて髯ぐらいは綺麗に、と身支度を整えた。 そして、すぐに後悔することとなる。 煌びやかな宴で、華やかで色鮮やかな衣が翻る中、己の何とみすぼらしいことか。 (夫人たちは断って正解だった) どうにも、主役であるはずの関羽はひたすら縮こまっているしかなく、硬い顔で酒を飲んでいると、曹操が含んだ笑みを浮かべて話しかけてきた。 「楽しんではおらぬようだな、関羽」 「いえ、その……。ただあまりにも場違いな気がして、戸惑っているだけです」 自分ひとりならいざ知らず。今は劉備の妻たちを守る責務がある。あまり迂闊なことを口にして、曹操の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。 しかし別段曹操は、楽しんでいない関羽に対して、気を悪くして言い出したわけではないらしい。 その証拠に、関羽の言葉に機嫌良さそうに体を揺すって笑った。 華やかな笑い声だと、関羽は思った。 小柄な体に似合わず、声は良く通り、涼やかさと張り、耳に心地よい響きがあった。それらが笑い声をぱっと華やいだものにさせるのだろう。 「戦上手の豪気も、宴には役に立たぬか」 からかう響きがあり、関羽は少々気恥ずかしくなる。 「徐々に慣れるであろう。それまでは、まあ雰囲気だけでも味わうのだな」 そう言いながらも、曹操は関羽の隣から離れることなく、あれこれと話しかけては緊張をほぐそうと気を遣ってくる。 細やかな気配りのおかげか、関羽の気後れも徐々に薄くなる。 如才無い男だ。 苛烈であり、大胆な行動を取るくせに、実は緻密に集められた情報や、練られた策に裏付けされたものなのだ、といつも後で気付かされる。 そういう悪く言えば計算高いところが、曹操をここまで伸し上がらせたのだろうが、敵対する関羽から見れば、素直に感心できなかった。 「時に関羽よ」 そんな男が、不意に真顔になれば、警戒心が強まるのも無理はない。 「儂の臣下になる気はないか」 ずばり、と聞いてきた。 「おかしなことをおっしゃいます。拙者はすでに曹公に降った身。今さら臣も何もあろうはずがありませぬ」 平然と返したつもりだったが、曹操はまた体を揺すって笑った。 「良くも言う。降ったとはいえ、形式上であろう。そのようなこと見抜けぬ儂だと思っているのか」 杯をぐいっと関羽の前に差し出した。中身は空だ。どうやら注げ、という意味らしい。関羽は傍に置いてあった酒瓶から、素直に曹操へ酌をした。 並々と酒を注がれた杯は、しかし関羽の傍から離れず、問うように曹操へ目線を向ける。 「覗いてみろ」 くっと顎で指し示され、疑問に思いながらもその中を覗き込む。 己の顔がゆらゆらと酒の中に映し出されている。 「分かるか。心より敵陣に降ったものが、そのように意志の強い目をしているか。敗北感に打ちひしがれた、野良犬のような目をしていないお主は、まだ希望を捨てていない、臥せた獣のようだ」 洞察力はますます磨きが掛かっているようだ。 内心で舌を巻きながら、関羽は黙って杯の上から身を退けた。 「確かに降将となっても矜持を失わず、挑むような目付きをする奴も時たまいるが」 意味ありげな曹操の視線は、宴の隅で黙々と杯を空けている武人へ投げ掛けられる。 「張遼、ですか」 呟く関羽の声が聞こえるはずもないが、その当人がちらっとこちらを見やった。僅かに何かを形作った口元は、 『ご辛抱なされよ』 と言っているかのように、関羽には思えた。 「まあ、奴のことは置いておくとして、どうなのだ?」 ぐっと身を乗り出してくる曹操の顔を、改めて見下ろす。 二人の体格差は大きく、腰を下ろしている状態であろうとも、関羽は視線をかなり下げなくては、曹操の顔を見ることは出来なかった。 小柄な体躯に合わせる様に、曹操の顔の部位も小作りである。それらは美しく整い、均等に顔を彩っているがために、相当な秀美であった。 関羽の人生は、さほど美しいものに縁があったとは言いがたい。だがために、美しいものに対する免疫力が非常に低いのだ。 どきり、と跳ねた心臓がそれを物語る。 内心、激しくうろたえながらも、口調だけはしかしきっぱりとしたものだった。 「この身体、武としての力、曹公に降ったものであることは間違いありません。しかし、魂だけは兄者……劉玄徳のものです。それは何人たりとも従わせることの出来ぬもの」 劉玄徳、という単語に、曹操の整った眉目が険しくなったのを、関羽は見逃さなかった。 やはり、可愛さ余って憎さ百倍なのだろうか。 「例え、奴が死んでいたとしても、か」 あっさりと、関羽が考えまいとしていた可能性を口にしたのも、現れであろうか。 「兄者の遺骸をこの目にするまでは、決してその生を疑いませぬ」 しかし関羽も迷いなく答えた。にこりともせず、さも当然のように。 それをどう思ったのか、曹操は顔を伏せて、唇を戦慄かせた。 「……?」 何かを呟いたのだろうが、張遼のときとは違って、見当がつかなかった。 曹公、と声を掛けようとしたが、その前に曹操の顔が上がり、ぱっと笑顔になった。 「儂は諦めんぞ? しかしひとまずはお主を我が手元へ招き入れたことを祝おう」 さあ、飲め、と曹操は酒瓶を関羽へ差し出す。酌をするらしかった。関羽は慌てて杯を差し出して、それを受けた。 それからの曹操は、先ほどの会話などなかったかのように、当たり障りのない話題を関羽へ振り、その場を寛いだものとさせた。 関羽を心より従わせることは無理、と感じたか、それとも今は時期でないと悟ったか。 何はともあれ、当面の危機は去ったと、関羽は胸を撫で下ろしたのだった。 だがもちろん、曹操がそう簡単に諦める人間でないことは、関羽は百も承知であった。再び、臣になるように働きかけてくるであろうことは、火を見るよりも明らかだ。 それからも小まめに誘いが入り、断れる立場ではない関羽はただ従うばかりだった。その度に、心より仕える気はないのか、と尋ねられる。しかし関羽の答えも一辺倒であり続けた。 「何度お尋ねされても無駄です。拙者は兄者と契りを結んだのです。お世話になっている恩はいずれ、何らかの形で必ずお返しいたします。その暁には、拙者は曹公の下を去りたい、と考えております」 いずれ、貴方の下を離れます、とそこまで腹の中を見せたのに、曹操は全く意に介した様子もない。 館、金銀の財、豪奢な戦袍や錦袍、または見目麗しい女人たち。関羽が書物を読むと聞けば、秘蔵であろう書庫にまで案内する。帝への謁見、髯嚢(ぜんのう)まで贈られた。 そうまでされて心苦しくならないわけがないが、それでも関羽に譲る気はなかった。 しかしさすがに、呂布の馬であったかの名馬、赤兎を贈られたときには喜びを隠すことは出来なかった。 嬉しそうに赤兎馬へ触れる関羽を見て、曹操も屈託なく笑っている。 「遠駆けに行かぬか」 不意の誘いに、関羽は断れなかった。 「赤兎に乗り、駆けてみたいと思わぬか」 それは甘美な誘いだった。 許都へ来てからの日々は、日がな一日夫人たちの相手をし、与えられた屋敷を清め、そして後はただ書物を読み耽って過ごしていた。もちろん、鍛錬を怠りはしていないが、それも屋敷の庭でのこと。 広い空があり、開けた大地が恋しくなってきていた。 「ただし、儂も乗せるのだ」 頷きかけて、顎を落とした。 「儂も赤兎に乗りたい。こやつ、今まで呂布が死んでから誰一人として乗せようとしなかったのだ。それが、ほれ。お主なら乗せてやっても構わん、という顔をしておる」 事実、赤兎は関羽が額から鼻先へ撫でるのを、気持ち良さそうにしている。かつかつ、と蹄を鳴らして、今にも駆け出しそうだ。 誘惑は強かった。 「承知いたしました。では、まず拙者から」 鞍を付け、関羽は跨る。やはり赤兎は大人しい。体を出来うる限り後ろへ下げ、前に隙間を作ると、そこへ曹操を招き入れた。 必要はないだろう、と思いつつも、やはりつかの間でも仕えている相手だ。手を差し伸べてその体を引っ張り上げると、軽さに驚く。 小柄だ、と分かっていたが、実際に直に感じると、本当に小さいのだ、と思った。骨格や体付きは間違いなく男であるのに、忘れてしまいそうだ。 脇を通って手綱を握れば、どきり、とする。 「これが馬中の馬、と呼ばれた赤兎の背か。やはり一味違うの」 そんな関羽の動揺に気付いた様子もなく、曹操は無邪気に声を弾ませている。 「供のものは?」 何とか平静を取り戻そうと、曹操に訊く。今も遠駆けに付いていこうと準備に走っていった者がいる。 「必要あるのか? 大陸一の名馬と、軍神だ。これに勝る護衛など大陸中探してもあるまいて」 それはそうかもしれないが、と関羽は内心で苦い顔をする。 心から仕えていない男をここまで信用するのも、どうなのだろう、と他人事ながら案じてしまう。 曹操はこういった、妙に無防備なところがある。普段はあれだけ用心深く慎重であるのに、一度懐へ入れてしまうと、とことんまで深く入れてしまう。 忠告すべきなのだろうか。 「早く行こう、関羽」 しかし満面の笑みを浮かべて仰ぎ見られると、なぜか言葉は胸の奥へと仕舞われてしまうのだった。 |
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