「影法師 1」
劉備×曹操


 追い駆ければ逃げ、逃げれば追い駆けられ。
 のらりくらりと、付き纏う。
 鬱陶しいはずのそれを、いつしか自分の一部と思えてくる。
 時に主を食らうほど大きく、時に存在を忘れるほど小さく。
 しかし必ず傍にいる。

 幼い頃に追い駆けた、それはまるで影法師。

「劉備、お主はまるで……」


   「影法師」


 劉備には幾度か抱かれた。
 一度目は戦を前にして荒れた血を宥めるため。
 二度目はほんの些細な賭け事の報償として。
 その後も、何度か抱かれたが、全ては戯れの延長線上でしかなかった。
 特別な意味など持たない、ただの戯事。

 そう、全ては戯れであったのだ。
 だから……。



「その袁術の討伐、私に行かせてはいただけませんか」
 いつものように、執務室に劉備を呼んでの雑話の中、ふと漏らした袁術の討伐軍選出の話だ。当たり障りの無い相槌だけを打っていたはずの劉備が、そんなことを言い出した。
「ほお、なぜだ」
「ご承知の通り、私と袁術は浅からぬ因縁があります。その忌まわしい縁を自ら断ち切りたい。そう思うのはおかしいでしょうか」
「なるほど」
 もっともだ、と思う反面、謙虚で温順であることがまさにその徳、とされている男が言い出すには、幾分不似合いではあった。
 しかし、常に笑みしか表情がないのか、と疑うこの男も、昔は都からの巡視官の粗略で我欲に満ちた態度に腹を立て、その身に拳を振るった、とも聞く。もちろん、その時にせっかく戴いた県令の地位は叩き返したという。
 そういう苛烈さを秘めていることも知っていたし、温良だけでここまで生き残れるはずもないことも、重々承知していた。
 それでも、やはり目の前の笑みが刷かれた口元を見ていると、信じがたさは湧いてくる。
「お許しいただけませんか」
「そのようなこと、ここだけで決められるはずがなかろう」
 性急な返答を求める劉備に、曹操は苦笑いした。
 いくら曹操が全権を握っていようとも、独断で決められることでもない。最終的に決を下すのが曹操であっても、周りの意見は取り入れなくてはならない。
 何より、一部味方はいるものの、劉備は曹操の近臣たちに疎まれている。ここで曹操が頷けば、必ずやその者たちからさらに反感を買うだろう。
 呂布の討伐が成功して一息ついたものの、未だ群雄割拠のときは続いている。内部の結束が揺らいでいては、掴んだときが再び逃げるのは早い。
 しかしそういった現状を憂える考えとは別に、気持ちもまた暗く澱みを湛えたことに、曹操は気付く。
 許都に招いてから、片時も傍から離さなかった男だ。それが、僅かの間とはいえ、曹操のかたわらから離れていく。
(寂しい、のか。儂は)
 ふと気付いたその澱みの源に、女々しい、と眉を寄せる。
 幾度か、とはいえ肌を重ねたことで妙な情が移りでもしたのだろうか。
 劉備を傍に置いたのは、底が知れない器を測るためと、そこに付随する好奇心からだけだった。
「曹操殿の一存で動かぬものなどあるのですか?」
 自分の考えに没頭し黙り込んだ曹操に何を思ったのか、劉備が挑発的とも取れることを口にした。
「言うようになったな、劉備よ。良かろう。そこまで言うのなら、袁術はお主に任せる。豪語したその口と心根、嘘がないか証明して見せろ」
 決して挑発に乗ったわけではなく、ただ劉備が離れることに寂しさを感じた己を疎ましく思ったからだ。
(少し距離を置くことも大事かもしれん)
「ありがとうございます」
 曹操のあからさまな激励、というよりはまさに挑発と言っていい言葉に、さして重圧を感じたようには思えない笑みを浮かべたまま、劉備は拱手する。
「では、弟たちに知らせて参ります。最近は体が鈍る、とうるさいもので。きっと曹操殿の期待に応えるような働きをしてくれますよ」
 立ち上がった劉備は、退室を申し出る。
「そのように急がなくとも良いのではないか?」
「いえ、行軍の仕度もありますゆえ」
 背を向けようとした劉備は、何を思ったのか曹操へ歩み寄ってきた。
「……?」
 椅子に腰掛ける曹操を見下ろす形で、劉備はにこり、と笑った。
「戦のことなどを考えたせいでしょうか。血が滾ってきました。今宵、よろしければ曹操殿、いつかのように血を慰めてはもらえませんか。それに、しばらく会えなくなることですし」
 ぞくっと、なぜか官能にも似た感覚が曹操の首筋を撫で上げた。

 そう、これは戯れなのだ。
 だから……曹操は首を縦に振った。

「構わん。いつも飲み交わす部屋で待っておる。人払いもさせておく」
「ありがとうございます」
 軽い衣擦れの音がして、劉備が身を屈める。
「では今宵を楽しみにしています」
 耳元で低く囁く劉備の声と、すっと首筋を撫でた指の感触に、今度は間違いなく官能の痺れが首筋を侵す。
 また軽い衣擦れの音と共に、劉備は退室していった。

 ただの、
「戯れだ……」
 纏わりつく期待感を振り落とすかのように、曹操は小さく口にした。



 窓辺に椅子を寄せ、曹操は杯を傾けながら夜空を見上げていた。
「邪魔な雲よのう」
 今宵は円も美しい満月であるはずだが、生憎の曇り空だ。満月の煌々とした明かりは地上まで届かず、庭先を薄ぼんやりとさせていた。
 訪れるであろう劉備を待ちながら、曹操は一人で酒を飲んでいる。
(不思議な男だ)
 手持ち無沙汰であるので、考えることは自然と待ち人のことに及んだ。
 笑みを浮かべ、従順であるような振る舞いとは裏腹に、決して曹操を恐れているわけではなさそうな、そんな気配が端々に窺える。
 いや、恐れてはいるのかもしれない。ただ、それを隠す面を持っているし、またあえて覗かせる術も知っている。
 のらりくらり、と。
 押しては手ごたえ無く、引いても手ごたえ無く。押し込んだなら押し込んだ形に。引いたなら引いた形に自在に姿を変えてしまう。
 掴み所がない。確かにそこにいるはずなのに、どうしても捕まえることが出来ない。
 ただ、その掴み所のない男にも執着しているものはあるらしく、市井に出かけた折は、ひどく楽しそうにしていたのを良く覚えている。
 いつもは笑みで隠されている瞳の奥が煌いているのを、曹操は目を細めて眺めていた。
 そんな落差がひどく曹操の気持ちを掴むのかもしれない。
(馬鹿馬鹿しい)
 不意に我に返り、曹操は杯の底に残っていた酒を呷った。
(これではまるで、夜這いに来る情人を待つ女のようだ)
 意味合いが半分ほどでも合っているだけに、ますます苛立った。
 満月を隠している雲と、待たされていることと、何よりその事実に、曹操は空になった杯に酒を注ぎながら、滅多に口にしない字を憎々しく呼んだ。
「玄徳め……っ」
 しかし、返事があるはずのないそれに、答える者がいた。
「嬉しいですね、字で呼んでもらえるなど」
 その声に驚き、曹操は酒をこぼして手を濡らしてしまう。
 声は窓の下から聞こえてきて、ぬっと手が窓枠にかかった。ひょいっと、随分と身軽な調子で声の主は姿を現した。
「お主、どうしてそのような」
 ようやく驚きから立ち直り、するり、と窓から室内に滑り込んできた劉備へ問い掛けた。
「ええ、夜這いなら夜這いらしく、外から来てみようかと思い付きまして」
 どこか無邪気にも思える笑みが、曹操の手を濡らす酒を見止めて瞬時に曇った。
「申し訳ございません。また粗相をしてしまったようですね」
 そっと劉備は曹操の手を取り、酒に濡れた指を口に含んだ。
「……っ」
 生暖かい柔らかな感触が指を丁寧に舐めしゃぶる。咄嗟に引こうとするが、近くなった劉備の目が、どうかそのままで、と訴えてきた。
 決して不快ではないその感触だが、眉間が狭くなる。
 丁寧に一本一本を咥えて舐めていく行為を眺めながら、曹操はぼんやりと考える。
 そもそも、中指というものは淫指であると思う。
 女を悦ばすときもそうであるし、そも指の真ん中にある、という時点で、男のそれを象徴してもいる。
 ひどく淫猥な指だ。
 そう曹操が思っているとは知らないはずだが、劉備は目の前で熱心に中指を舐めている。
 劉備に初めて抱かれた夜も、こうして酒をこぼし、劉備が口で吸ったところから始まった。
 そうすれば、体は釣られた魚のように、繋がった糸に引きずられ、その先の行為を克明に思い出す。
 ぞくっと首筋を疼きが走る。
「劉備。いつまでそのようにしている。今宵の目的を忘れたのか」
 焦れて切り出した。
「いえ、そのようなことはありません」
「なら早くしろ」
「御意に」
 もしも今夜、雲が月を隠していなかったのなら、地上を爛々と照らしていたのなら、果たして曹操は見ただろうか。
 いや、それでもきっと見えはしなかっただろう。
 持ち上げた曹操自身の掌で、深く口角を上げた劉備の笑いは隠れていたのだから。

「……ふっ、ぅ……ん」
 劉備の舌に口腔を探られながら、曹操は時折出来る隙間で息をつく。
(しつこい……)
 元々、劉備の抱き方は執拗であった。曹操の体を昂ぶらせるだけ昂ぶらせ、そうしてからようやく抱く。まるで曹操の体に執着し、離したくない、とでもいうかのようだ。
 快楽には弱い、と自覚もある曹操にとっては、劉備の抱き方はいささか苦しめられる。しかしそれも後に訪れる快楽をより強くするため、と思うと、またそれは別の意味合いを持つのだが。
 それでも、今夜の劉備はおかしかった。
 寝所へ招き、牀へやんわりと押し倒され、圧し掛かられ、口付けられた。
 それだけだ。
 それから先へはまだ進んでいない。
「りゅ……びっ」
 吸われて絡められ、いい加減舌も痺れてきた。息も苦しく、文句を付けようと声を上げるが、それもままならない有様だ。
 舌先に歯が立てられ、ひくっと体が跳ねる。
 交じり合った唾液を咽が上下して飲み落とせば、くらり、と酒にも似た酔いが曹操を惑わす。
 だがそれでも、苦しいものは苦しい。
 突き飛ばすように、劉備の肩を押しやり、ようやく二人の唇は離れた。
「曹操殿?」
 突き放され、小首を傾げた劉備を、きっ、と睨んだ。
「いい加減にしろ。……しつこい!」
 ああ、と劉備は愁眉を開いた。
「申し訳ございません」
 謝るわりに、あまり詫びれた様がない。
「今宵でしばらく曹操殿と別れることになる、と思い、つい」
 くすり、と笑った劉備は、そっと曹操の頬を撫でた。
「焦らされるのはお嫌いですか」
 簡単に胸裏を暴いた男が憎らしく、睨み付けた目にさらに険を含める。
「そうですか」
 しかしそれは肯定と同じだ。劉備は曹操の視線に恐れた様子もなかったが、では、と曹操の腰帯に手をかけた。
 元から寝衣しか身に付けていなかった曹操は、簡単に肌を露わにする。下帯をも取り去られ、劉備の前に全てを晒した。
 室内は頼りない月の明かりと淡い燭台の灯りだけだ。それでも劉備の目は闇に慣れているだろう。衣を脱がしてもすぐに愛撫に移らず、曹操の肌を眺めている。
(見るな……っ)
 熱を含んだ視線に、曹操は静かに息を吐いて平静を保とうとする。ともすれば早く上下しそうになる胸を抑え込み、目を瞑った。
 劉備の息が胸の頂に掛かった。
 焦れるような期待感に息が乱れそうだった。
 しかし、一向にそこへ愛撫が始まる気配はない。目を見開いて、劉備、とまた声を上げようと口を開いたとき、それを待っていたかのように舌が胸を舐めた。
「……っん、ぁ」
 声は甘さを伴い曹操の口から逃げていく。
 ぴちゃり、と水音が派手に沸き、屹立を促すように舌が頂を持ち上げた。
 尖った舌先は弾力を持ち始めた粒をゆるゆると掻き乱した。首筋の後ろがぞわっと悦の甘い熱に痺れる。
 歯が立てられれば、どくり、と下半身へ血が流れて重くなる。
 強弱を付けながら口吻は、曹操をひたすら昂ぶらせる。体の熱は、下半身へ落ちていく血とともに熱くなる一方だ。
 だが、自分の体温が高くなればなるほど、相手との体温の差が顕著になる。それは衣一枚の隔てなどで誤魔化されはしなかった。
 それがひどくもどかしい。
(お主の血は一向に騒がないのか。ならば何のために儂を抱く)
 悔しさとも違う、焦燥とも違う、自分と相手との間を阻む衣一枚分の厚みがひどく厚いと感じる、その悲しみか。
 それは普段から劉備が曹操へ見せている、「笑み」という幾重にも掛けられた面のように、二人の距離を縮ませることはなかった。
 そんな衣をいつまでも着けている劉備に無性に苛立つ。脱がせようと手を伸ばすが、やんわりと手を掴まれた。
「私は後で結構ですので」
 断った劉備に、憎しみすら湧く。
「いい加減にしろ、と儂は言ったはずだ」
「やはり焦らされるのは性に合いませんか」
「もったいぶる奴は嫌いだ」
「では、私のこともお嫌いですか」
 ぞくっと、今度は違う感覚で首筋が痺れた。どくり、と熱かったはずの血が冷えた気がした。
 口元はいつもと変わらない笑みが刷かれているのに、その双眸だけが違った。
 幾重にも被られた面で、唯一覗けるはずの瞳の部分に、曹操はいつも惹かれた。その覗けるはずの瞳は、てんに光が満ちているときですら見通せない圧倒的な深さがあった。
 その、覗けない劉備の中に、曹操は興味を持ったのだ。だからこそ傍に置き続けた。しかしそれは、無知である子供の好奇心と同じ意味を持つ。
 無邪気な子供の好奇心は、ある時それが触れてはならないものだと知る。
 まるで底が見えない井戸を熱心に覗き込むあまり、誤って落ちてしまったように、その深さに怯えて泣くのだ。
 恐怖心は簡単に好奇心を凌駕する。それを知ったときは全て遅すぎる。
「お嫌いですか」
 静かな口調がなおもその深さを象徴するようで、月ですら暴けなかった劉備の双眸の奥が光っていた。
「曹操殿?」
 耳元に寄せられた劉備の唇から、自分を呼ぶ囁きが漏れる。
 畏怖を抱いた瞳が視界から消えたこともあり、曹操は瞬時に自分を取り戻した。
「嫌いな男に抱かれるような真似をするか」
「それは良かった」
 再び視線を合わせたとき、光は消えており、初めて劉備に興味を持った朗笑だけがそこにあった。
「焦らしたせいで、ご気分を損なわせてしまったのですね」
 半分はあっているが、半分はあっていない。しかし否定はせずに曹操は劉備の愛撫を待つ。
 唇は再び胸へと寄せられ、舌がぞろり、と這い回った。一向に触られないもう片方の胸が、誘われるようにきゅぅっと硬さを増したのが分かる。
 劉備の微かな呼気が笑いだったような気がして、曹操は羞恥心に唇を噛み締める。そうさせているのは誰なのか、そしてどうしてなのか、全てを知っているくせに、劉備は曹操を焦らし続ける。
 粒へ歯がきつく立てられ、痛みが走ったところで、触れられずにいた胸へ指が絡んだ。
「はっ……く」
 咄嗟に、あれほど脱がそうと躍起になっていた衣へしがみ付いた。背中の布地に指を絡め、噛み締めていた唇に力を込めて、その悦に耐える。
「力が入りすぎですよ」
 宥めるように劉備の指が胸の粒を撫で上げ、舌は尖りを掠めていく。
「おぬ、しこそ。儂の前で中々衣を脱がぬのは、心を許していない証ではないのか」
 息を乱されながら、曹操は訴える。
 衣一枚が、その厚さが憎い、と曹操は睨んだ。
「そのようなことを気にしていたのですか? 曹操殿でしたら、このようなものに惑わされることはない、と思っていたのですが」
「挑発、か?」
 指先が強く胸を摘んだ。びくっと背筋が揺れる。
「いえ、曹操殿でしたら私の心魂を見抜くことなど容易いだろう、とそう思ったまでです。衣を一枚纏っただけでは決して貴方から隠せはしない。それだけの具眼をお持ちでしょう」
「買い被りすぎだ」
 思わず目を逸らす。
 それが出来ないから劉備に惹かれるのだ。
「おや、謙遜は私の専売特許である、と思っていたのですが」
 揶揄からかう声が腹立たしい。
「お主は、何のためにここまで来た」
 遠征を控えて、猛る血を慰めるために来たのなら、早くその目的を遂げればいいのだ。
 しかし、劉備の答えはすぐに返らなかった。



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