「栖ニ腎ヲ殘ス 3」
  夏侯惇×曹操


 道端に卓子を出し、周りを男たちが囲んでいる即席の賭博場に、劉備はいた。
 身なりはそこら辺のごろつきと変わらない薄汚い格好で、自宅に招かれたときの着飾った、曲がりなりにも品を覚える格好とは似ても似つかなかった。曹丕がすぐに劉備だと気付いたのは、耳が大きかった、それだけだった。
 劉備は曹丕に気付き、少しだけばつの悪そうな顔をした後に、ちょいちょいっと手招きをした。戸惑いながらも近寄ったのは、曹丕もまた、好奇心旺盛な子供の心をまだ持っていたからだ。
 曹丕を膝の上に乗せて、博打を続ける男は、父親に見せていた温良そうな笑顔とは違い、野卑た冗談にも大口を開けて笑うような、明るい笑顔だった。
 これが、本来の男の姿なのだろう、と子供ながらにも曹丕は理解しつつ、笑い方が父に似ている、と思った。
 戦や政を離れた父は、こういう笑い方を良くしている。
 劉備は、あまり賭け事は上手くないらしく、散々に負けていた。勝負の内容は札に書かれた種類を規則に沿って集め、集まった絵柄に準じて札の強さが変わるらしい。
 曹丕はじっと遊戯の行方を眺め、規則を把握すると、負けが込んでいる劉備に告げた。
『この札とこの札を変えて、次の番を待ってみてください』
 子供らしからぬ口調と内容に、劉備は戸惑うことなく、それどころか疑問も挟まずに曹丕の言うとおりに札を交換した。
 それからは連戦連勝。劉備の一人勝ちになった簡易賭博場はお開きになった。
『曹丕殿のおかげで助かりました』
『私もいい暇つぶしになりました、左将軍殿』
『はは、今はその呼び方は皮肉に聞こえますよ。それにしても、曹丕殿は賭博の才能がおありのようだ。血筋ですか』
 血筋とは不可思議なことを言う、と思い劉備を仰ぎ見た。
『貴方の父君も天下を賭けていつも大勝負を繰り広げている。今のところは、負けもありますが儲けておられる。途中、いくら負けようとも、最後に儲けていれば、勝ちですからね』
 今日の私のように。
『貴方は、父のような勝負をしていないのですか。随分とこういったことが好きそうです』
『ええ、大好きですよ。でも、ご覧の通り滅法賭け事は弱くて』
『しかし、今日は私の力を借りて、勝った』
 そうですね、と劉備は笑った。
『貴方に力はなくとも、賭け事の上手い誰かを味方につける才能はおありなのではありませんか』
 子供である曹丕を疑いもせずに懐に招き、信じて自分の金をためらいもなく差し出した。並みの度量では出来ないことだ。
『そうかもしれませんねえ。何せこんな私にも、付いてきてくれる人間はいる』
 夕焼けで赤い道の先へ、目を細めて見やった劉備に釣られて視線を延ばすと、大男が二人、こちらに向かって手を振っていた。
 曹丕も遠くから見たことがあるだけだが、一度見れば忘れられない風貌をしている、劉備の義弟である関羽と張飛だ。
『屋敷までお送りしましょうか』
 訊かれて首を横に振った。少しだけ、政に関する勉学に飽きて、教師の目を盗んで遊びに出ただけだ。戻れば大騒ぎになっているだろうから、そこへ男を連れて行けばなおさら大事になる。
 それに、まだ帰りたくなかった。
 裏の事情は知らないだろうが、劉備は大人しく引き下がった。
 じゃあ、ここで。今日は楽しかった、と言う劉備に、私もだ、と口の中で呟いた。
 膝の上に抱き上げられたのも、見知らぬ遊びを教えてもらったことも、曹丕にとっては随分と昔の記憶だ。周りの人間は、曹丕の大人びた態度のせいで礼を伴う一線を引いた接し方をしてくる。
 曹丕を子供扱いして接してくる父や夏侯惇などは、最近は忙しいらしく、顔を見せていない。
 父のようだ、と思ったことは、きっと口にしてはいけないのだろう。
『そうそう、曹丕殿。今日のことは内緒でお願いします。司空殿の息子を賭博に混ぜた、などということがばれたら大変ですから』
『分かりました』
 頷いた曹丕の頭を劉備は撫でていった。大きな、大人の男の手で、踵を返した男の袖を咄嗟に掴んで、語りかけていた。
『私は、賭け事というのを初めてしました。面白い、とも思いましたが、進んでやろうとは思いません。それよりは、確実に儲けられる方法を学んで、そちらを選ぶ』
 振り返った劉備は、面白そうな顔になる。
『……そう思った私は、父に似ていないだろうか』
 袖を掴んだまま俯く。
『私は先ほど、負けても負けても、最後に儲けていれば勝ちだ、と言いました。でも、それには続きがあります』
 しゃがみ込み、曹丕と同じ目線になった劉備の顔は、逆光になりよく見えない。
『負けて負けて、負けつくしても、最後の最後、その勝負が面白かった、と思っていれば、それが最大の勝利だと、私は思っています。だから私は、下手の横好き、と言われ続けていても賭け事をやめられない。賭け事を面白い、と思えて、なおかつ勝てる才能を持っている曹丕殿を、私は羨ましいと思いますし、それでも違う道を選べる多才さに感心しています』
 にこり、と口許が弧を描いたのだけ見えた。
『ただ、私は決して貴方になりたい、とは思わない。貴方は違いますか?』
 父に似ているか、似ていないか。父のような才能を持っているのか。気になるのは当たり前だが、曹丕は父になりたい、と思ったことは不思議だが一度としてない。
 父――曹操とは、曹丕にとって目標であり、憧れや自己投影する存在ではなかったからだ。
 首を横へ、振った。
『なら、それで良いのではないですか?』
 立ち上がった男を見上げて、頷いた。
 不思議と、屋敷へ帰ろう、という気になっていた。

「負けても、勝負が面白かったら勝ちとは、負け続けている男らしい言葉だ」
 空になった曹丕の盃に酒を注ぎながら、夏侯惇は言う。
「私は劉備が負けた、と聞くたびに思い出しています。今回の勝負も、あの男は楽しんだのだろうか。だとすれば、勝っているのはあの男なのだな、と」
「孟徳も、負け戦のたびに大きくなっていった。天下を掴む人間ってやつは、負けすら味方にできる、と常々思っている。だとすれば、負け続けてきた劉備は、今は……」
「父を食らうほどなのかもしれません」
 自分の盃にも酒を流し込んでいた手が止まる。
「本気で言っているのか?」
「少なくとも、初めて会ったときの劉備は真実、影の薄い男でした。父も構ってはいたが、何となく気になる、という程度だったはずです。それが、幾たびにも渡る戦で、徐々に父の中で存在が大きくなっていった」
 曹丕も同じことを思っていたのか、と驚く。
「今はもう、私たちが承知の通りでしょう。無理な遠征をいつまで続ける気か分かりませんが、常の父ならばもうあっさりと見切りをつけて戻ってくるころです」
 西の空へと曹丕は視線を飛ばす。
「父は、劉備に楔を打たれたかのように、西に留まっている。気を付けたほうがいいでしょう。あれは、良くも悪くも父に付いて回る影です。影のうちはまだいい。下手をすれば、父を影に仕立て上げて、自分が光に成りかねない。厄介なことに、影というものは、光が強ければ強いほど濃くなる」
「……」
 もしも、と曹丕は続ける。
「もしも父が戻ってこなかったら、貴方が連れ戻してきてください。それが貴方の役目です」
 私にはきっと出来ませんから、と少し自嘲気味な笑みを浮かべた甥っこの頭を、夏侯惇は思い切り撫でてやる。
「頭を撫でるのはやめてください。もう子供ではないのですから」
 不服そうに言う口調は曹操そっくりで、夏侯惇はにやり、と笑う。
「分かっているさ」
「それは、私を子供ではないということに対してですか。それとも貴方の役目についてですか」
「どちらもだ」
 今度こそ、自分の盃に酒を注ごうとして、酒瓶を取り上げられる。注ぎます、と示されて、盃を差し出す。
「ところで、叔父貴は平気なのですか?」
「何がだ」
「父を劉備に盗られて」
 危うく、盃を取り落とすところだった。先ほど、頭を撫でて子供扱いしたことへの意趣返しだろうか。唇の端を持ち上げて、曹丕は意地悪げな顔付きをしている。
「昔は嫉妬していた、と先ほどおっしゃっていた。今はどうなのですか?」
「……慣れた」
「そうですか」
 ふぅん、とつまらなさそうに鼻を鳴らした曹丕に、夏侯惇は肩を竦めて見せた。
 夏の気配が、濃厚だった。



 ******



 おかえり、と舌まで乗った言葉を飲み込んだ。
 長い遠征から戻った曹操を出迎えた夏侯惇は、疲れきった面差しに苦い思いが込み上げた。
 ようやく、曹操が軍を引き上げてきたのは五月、許都へ着いたのはそれよりさらに後、夏も盛りを過ぎたころだった。
 帰ってきた曹操が真っ先に命じたことは、楊脩を獄中へ繋ぎ、処刑せよ、というものだった。
 許都で留守をしていた者たちは驚き、口々に諌めた。当然だろう。楊脩は品行ある楊家の人間、清廉さは官吏の中でも抜きん出ている。
 褒める言葉は幾らでも飛び交い、(けな)す言葉は一つとして出てこない、そんな男の処刑を、曹操は断行する、と言い放つ。
「諫言は聞き飽きた。向こうでも散々に止められて、せめて帰還してから処断を、というので連れて帰ったが、わしの決意は変わらん。明日、処刑だ」
 折れそうにない曹操の口振りに、臣下たちは口を噤む。一度、こうして冷徹になった曹操の決意を変えられたためしはなかったからだ。
「あの、罪名は」
 恐る恐る、一人の官吏が尋ねた。
「重大な軍令違反だ」
 夏侯惇は、そっとため息をついた。



 監獄は、暑い季節でもひやり、として涼しかった。夜となれば顕著で、薄布一枚の楊脩は寒いぐらいだろうが、夏侯惇が訪れてもいつもと変わらない様子で挨拶をした。
 軍令違反。
 漢中に赴いていた他の人間から詳しく事情を聴くと、やはり相当苦戦していたらしい。なおかつ、行軍は長期に渡り、故郷を長く離れた兵たちは脱走を始めていたほどのようだ。
 その中にあり、曹操はある日、鳥の(あばら)を突付きながら呟いたらしい。
『……鶏肋(けいろく)、か』
 傍で聞いていた楊脩が、撤退命令だ、と解釈し号令を発した。それが、軍令違反となった。
 鶏肋――すなわち、捨てるには惜しいだけのものを備えているが、骨だけになった肋で腹が膨れるはずもない。
 漢中はそれだけのことだ、という意味に捉えることが出来る。
 恐らく曹操自身も見切りを付けたかったのだろう。だからこそ迷いを口にした。楊脩は曹操の逡巡を踏まえた上で、陣払いを強行した。誰かが動かねば、曹操の迷いを断ち切れない、と考えたのだろう。
 ただ、完全に断ち切れなかったために、曹操の怒りを買い、処罰されることになってしまった。
「すまない」
「謝られることはありません。こうなることは悟っておりました。そして、貴方も」
 やはり頼みごとをしたときに、夏侯惇の後ろめたさは読まれていたのだ。曹操の劉備への執着を生半可な言葉で絶とうとすれば、激しい怒りを買うであろうことは、承知していた。もしかしたら、楊脩ほどの男ならば怒りを買わずに絶てるかもしれない、と思ってもいたが、薄々とこの状況を予想していた。
 煌々と射す陽光は闇を退けることが出来るように、楊脩の眼差しは胸裏を見透かすことが出来るのだろうか。
「……逃がすことはできる」
 罪悪感もあり、脱獄の手引きを示唆する。
「必要ありません」
 男は首を横へ振る。
「私は少々、王の内情に深入りしすぎた。曹侯(曹植)にしても、王自身にしても。いずれはこうなることは分かっていました。だからあえて将軍の提案に反対はしなかった。どの道、軍を撤退するように諫言していたでしょう」
 牢の中の男は、いつもと変わらず淡々と話している。刑期が迫っている人間とは思えなかった。
「分かっていて承諾してくれたのか」
 楊脩は黙って微笑んだ。
 楊主簿、と名を呼ぶと、弧を描いていた口許が開いた。
「貴方と、貴方に誠の忠義を捧げられている王が羨ましかったのです。人の心を察せる、というのも厄介なものです。この人は、と思った相手の底の浅さや醜さが、私には見えてしまう。すると、どうしても心から相手に忠誠を誓えない」
「汚い部分を持たぬ人などいないだろう」
「ええ、その通りです。清流だけの人などいません。必ず澱を、濁流を含んでいる。清濁を飲むことが出来なくては宮仕えなどやれません。だから、私はきっと官吏には向いていなかったのでしょう」
「あんたほどの男がか」
「人の評価と適所というものは食い違うものです。私にはそもそも加減が分かっていなかった。だからこそ、王に疎まれた。曹侯に対しても悪いことをした、と後悔しております。私は途中から、曹太子(曹丕)に王の気持ちが傾いていることを知りながら、諦めさせなかった。それは忠義とは違う。ただ、太子よりも曹侯が、朝廷の存命を図れるだろう、と思ったからこそ、続けていただけに過ぎませんから」
「……難しいことは俺には分からんが、個人よりも国を思えるあんたの方が、官吏としてはまともだと思うがな」
「だから、言ったでしょう。私の想いと周りの評価が決して噛み合うとは限らない。私は貴方のような生き方をしてみたかった。ただ一人のために一生を捧げる、そういう生き方を望んでいたのです」
「なるほど。確かに、他人の評価と自分の気持ちは噛み合わんな」
 俺はそんな男じゃない。
 ただ惚れて、惚れぬいた男のために汚いことに手を染めることも厭わない、つまらん男だ。
「さあ、もういいでしょう。私は役目を果たした。貴方にとってはそれで十分。将軍がいつまでも罪人と話していてはいけません」
 身を正した楊脩に促されて、夏侯惇は立ち去ろうとする。しかし、ああ、と何かを思い出したらしい楊脩に引き止められた。
「まだ、貴方の役目は残っていますから、お忘れなく。あの方は未だに(せい)(ざる状の鳥の巣)に(じん)()しておられる」
「――?」
「王に問い掛けてみなさい。もっとも、将軍は理屈でなく分かっておられる。余計なお世話だと思いますが」
 微笑を浮かべたままの楊脩は、では、と拱手してみせた。名門に生まれついた男らしい、丁寧な拱手であった。



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