「栖ニ腎ヲ殘ス 2」
  夏侯惇×曹操


 回廊を歩く男の姿を見つけ、夏侯惇は駆け寄った。
楊主簿(ようしゅぼ)
「夏侯将軍」
 振り返った男は拱手した。
 楊脩徳祖(ようしゅうとくそ)――楊家は四世大尉と呼ばれる名門で、楊脩も名の知れた男であった。曹操は早くに彼の才能に目を付け、丞相主簿という任に就けていた。
「どうされましたか?」
 尋ねる声は涼やかで、夏侯惇を見やる双眸は理知を宿して澄んでいる。
 数年前まで曹操は太子を曹丕か曹植、どちらにするか悩んでいた時期があった。結局は、自身が魏王となったときに曹丕を後継者に選んだ。楊脩は曹植に付いていたため、一時期立場を悪くしていたが、彼の機智を惜しむ人々の声もあり、以前と変わることなく職務についている。
「頼みがある」
「将軍の貴方が私にとは、珍しい」
 軽く驚いた面容を上らせた楊脩は先を促した。
 軍を掌握する夏侯惇と、主簿として民政を助ける役目の楊脩とでは、会う機会はもちろん、会話をすることも少ない。
 記憶に残っていることといえば、昔、曹操に珍しい飲み物を献上してきた人間があったときだ。
 飲み物を味わった曹操は、(かめ)の蓋に『合』という文字を書いて、その場にいた人々へ盃を回した。回された人々は意味が分からずに首を捻るばかりだったが、楊脩へ盃が回ると、彼は迷わずに一口、飲み干した。
『皆さまも、せっかく主公が振舞ってくれたのです。一口お飲みなさい』
 告げた楊脩へ、口々に疑問が投げかけられた。すると彼はにこり、と微笑んだ後、説明した。
『『合』という文字は、分解しますと『人』『一』『口』という文字になります。これを文にすれば『(一)人、一口』ということです』
 人心を俊敏に察する才能に長けていることを示した、彼の逸話の一つであるが、他にも幾つも楊脩に関する話は尽きなかった。
「王(曹操)のことでしょうか」
 今も、夏侯惇がしばし口を開くのを迷っている間に、何かを察したらしい。言われて、頷いた。
 話が早い、と思いつつも察しが良すぎるのも少々気持ちが悪いものだ、と勝手なことを考えた。
「王が遠征先で深く悩んでおられたときは、迷わずに苦言してくれないか」
 曇りのない瑠璃を思わせる双眸が夏侯惇を見上げていた。内面を見透かすような眼差しに、肝が据わっているはずの夏侯惇が気後れしそうになる。後ろめたさから来る弱気だと、自分で分かっているだけに平静を保ったまま見つめ返した。
「助言を求められたならそう致しますが、王の気質からは、特に私には相談されるとは思えませんが、私でよろしいのですか?」
「楊主簿にしか頼めん」
 楊脩は、曹操の漢中行きの同行が、数日前に行われた軍議で決まっていた。
「私にしか」
 不思議そうな口調ではなかった。
「あんたしか出来ん」
 押すように、言葉を重ねた。こういうとき、夏侯惇の舌は軍師たちのように回りはしない。ただ想いを込めて同じ言葉で訴えるだけだ。
「分かりました」
 静かに、承諾した男に、夏侯惇は頭を下げた。
「将軍が懸命になられるのは、いつも王のことばかりですね」
 皮肉かとも思ったが、淡々とした声音に棘はなく、むしろ羨望が混ざったような気がして、夏侯惇は男を見下ろした。
「貴方のように真っ直ぐで気持ちの良い方に頼られるのは、喜ばしいことです」
 誇らしそうに笑った楊脩を見送り、夏侯惇は踵を返した。小さく痛んだ胸には気付かないふりをしなくてはならなかった。



 出立の前夜だった。明日は早い、と承知していたが、夜半過ぎに曹操の私室を訪ねた夏侯惇は、一言だけ告げた。
「帰ってこい」
「当たり前だ。それを言いに、わざわざ来たのか」
 呆れた様子の曹操に、夏侯惇は目を伏せた。
「いつもならば『行ってこい』で終わるのに、珍しい言葉を聞いた。それほど、わしが信頼できぬか?」
 からかっているのは分かっていたが、伏せた目を上げて声を張り上げた。
「馬鹿なことを言うな! 俺はお前を信じている」
「ならば、何も言うな。お主にはわしの留守を任せておるのだ。わしがこちらのことが心配になって戻るようなことはするなよ?」
「それこそ、当たり前だ。もう幾度、お前の遠征を見送ったと思っている」
 自ら戦線へ赴くことの多い曹操を、夏侯惇は留守役という名目で何度も送り出している。夏侯惇が軍事の長を任されるようになってからはなおさらだ。曹操という要が都を離れてもしばらくは滞りなく政務が行われるほどには、夏侯惇は武官だけでなく、文官からの信頼も厚かった。
 もちろん、逆も多い。夏侯惇が地方の反乱を抑えに遠征に行くときは、大抵は曹操が都に残った。
 つまりは、曹操と夏侯惇、どちらかが居れば首都としての機能を維持できる、ということだ。ただ、夏侯惇は曹操のように政治力があるわけではない。あまり長期間の遠征をするわけにはいかなかった。
「今回も変わらんぞ」
「……」
 思わないから、こうしてわざわざ言いに来たのだ。それが分からない曹操ではないだろうが、腕を伸ばして夏侯惇の肩を叩いた従兄はいつも通りであったため、夏侯惇は言葉を続けられなくなった。

 次の日、曹操は漢中へ向けて出立していった。



 木簡を抱えて夏侯惇は相国府の奥を訪ねる。扉を叩けば、平淡な語調が常の男にしては珍しく、疲れたような声で入室の許可を告げてきた。
「追加だ」
 すでにそびえる山脈のごとく積み上がっている書簡の山に、抱えていた木簡を置いて、夏侯惇は事務的に言った。
 軽いため息が、山脈の向こうから聞こえた。
「叔父貴、少し加減してくれませんか」
「お前がこれくらいでへこたれる玉か。第一、俺も精一杯だ」
 盛大な舌打ちが放たれる。
「仲達(司馬懿)」
 同じ室内の片隅で、これまた同じように書簡の山に囲まれている男を、舌打ちの主が呼ぶと、冷ややかな声で返事が上がる。
「私も許容量を超えております。貴方様のほうが、まだ余裕がおありでしょう。お願いいたしますぞ、太子」
 わざとらしく強調し、付け加えられた『太子』という言葉に、大いに眉をひそめたであろう男の顔が想像できた。
「詐欺にでもあった気分だ」
 父はまだ戻らんのか、と男――曹丕は憎々しげに呟いた。
 決済が終わったらしい書簡を、下っ端の文官を呼びつけて運び出すだけ運び出させると、山脈が丘ぐらいの高さに削れた。
「なんだ、随分と減らしていたんじゃないか」
「当たり前です。私を誰だと思っているのです」
 父親に似ていない、冴え冴えとした磨がれた刃を思わせる目付きで、曹丕は夏侯惇を見やった。ようやく、お互いの顔が見られるほどに片付いた、ということだ。同じく司馬懿の卓上も片付き始めていた。
「太子が来られないと首都機能が麻痺する、などと脅されてわざわざ駆け付けてみれば、煩雑な執務がかさばっているだけのこと。まったく、父が居ないとすぐこれだ」
「まあそういうな、子桓。助かったぞ」
「叔父貴」
 じろり、と凍り付くような眼差しで睨みつけられるものの、夏侯惇は平然としたものだ。夏侯惇にとって、曹丕とは生まれたときから知っている親戚の子供でしかない。
 少々の可愛げのないところも、逆に反骨精神旺盛でよろしい、と思っている辺り、結構な親バカ――叔父バカかもしれない。
「そもそも、貴方がしっかりと父の留守役をこなせていれば、私を呼び出すような羽目にならなかったでしょう」
「私が手伝うような事態にも、です」
 横から、筆を動かす手を止めずに、しっかり司馬懿が主張してきた。司馬懿は元々夏侯惇について政務をこなしていたが、本来なら彼は自分自身の執務だけ片付けていればよかったはずだった。
「こなしていたぞ。ただ、少々孟徳の不在が長すぎてな、目測を誤った」
「もう夏ですからな」
 袖をまくって司馬懿が呟いた。
 曹操が許都を出立したのが三月のことだ。それから季節は過ぎ去り、汗ばむ陽気になり、薄着の人間もちらほらと見かけるようになった。
「兵糧も尽きかけているのではないのですか?」
「ああ、苦戦していることも、だいぶ前だが文で届いている」
「兵站も伸び切っております。向こうで調達もしているでしょうが、こちらから送るのもそろそろ限界でしょうな」
 敗色が濃いのは、遠く離れた地に居る夏侯惇たちですら伝わってくる。それでも、曹操は未だに帰還しようとはしないらしい。
「夏侯将軍の仇とはいえ、少々王は漢中に固執しすぎではありませんか?」
 司馬懿の言い分に、夏侯惇は逡巡する。
 曹操を漢中に縛り付けているのは、夏侯淵の怨念ではない。
 生きている、あの男のせいだろう。
「お前なら分かるだろう。厄介なのは、死んでいる人間より、生きている人間のほうだ」
 答えたのは曹丕だった。
 分かるのか、と隻眼を軽く見開いた。
 曹丕は曹操に太子の座を与えられてから、本格的に後継者としての役目を果たしている。今まで、決して遊んでいたわけではないが、寸暇を惜しむほど熱心に太子としての執務をこなしている。
 それゆえに、元から父子としての触れ合いが少なかった親子は、ますますその機会を失い、用のない限りは会えないでいる日々だろう。
 なのに、曹丕には父親のことが分かるらしい。
 驚く夏侯惇を見やって、曹丕は軽く鼻を鳴らした。
「父の執着のありどころは、昔から見ています」
 なるほど、と納得するが、司馬懿は一人だけ不可解な顔付きをしている。
「しばらく、こっちへ滞留するのだろう?」
「ええ、何せ叔父貴に直々に呼ばれましたから。それにこんな状態の中央を放っておけば、地方にまで被害が及びそうです」
「なら、今夜は久しぶりに飲むか」
「……ぶどう酒があるならば」
「お前、あんなおかしな味のする酒、よく飲めるな」
 どこがです、旨いではありませんか、と反論する曹丕の口振りは、少しだけ曹操に似ていて、夏侯惇はにやっとする。
「確か、一瓶残っていた。出そう」
 叔父と従甥(じゅうせい)の会話になってきた二人を、司馬懿が咳払いをして諌める。
「ひとまず、ここを片付けてからか」
 そうなります、と曹丕は答えてから、唇の端を歪めた。



 曹丕の許都での私邸を訪ねると、庭先で何やら筆を走らせている姿があった。何をしているのか、と訊けば、詩を作っていました、と答えが返った。
「そういうところは、親子だな」
 自分と曹操があまり似ていないことを承知している曹丕は、夏侯惇の純粋な感想に――事実、夏侯惇には悪意の欠片もない――小さな苦笑を浮かべた。あまり表情の変化しない男である。幼い頃から乏しい面容で、一度だけ夏侯惇は曹操へ本気で『あれは本当にお前の子か』と尋ねたこともあった。
 今思えば、それは曹丕の一面しか見ていなかったために漏れた言葉であり、曹丕という男を多面的に見れば、曹操と親子である証など溢れんばかりに見つけられた。
 もちろん、風情を感じる柔らかな心があり、情調を筆に乗せて言葉に変えることが出来るところもまた、ひとつの証であろう。
 庭で飲もう、という趣向らしく、二つの椅子と卓が夜空の下に置かれている。回廊に設置されている灯りと、晴れた夜空に浮かぶ星と月が庭を照らして、存分に視界は利いた。
 もう少しでまとまります、というので用意された席に座って、手酌で酒盛りを始めることにする。
 肴をつまみながら無愛想な甥を眺める。執務をしているときよりどことなく楽しそうで、筆を滑らせた、と思えば止めてしばらく思案して、また滑らせる、ということを繰り返していた。
 走っていた筆が置かれ、曹丕は満足げな笑みを浮かべた。どうやら会心の出来になったらしい。男の珍しい表情に、間違いなく父親の面影を見つけて、夏侯惇は忍び笑った。
「聴かせてくれるか?」
 言えば、曹丕は迷いを見せた。どうした、と重ねれば、肩を竦めた。
「父から、叔父貴は詩心がないので聴かせ甲斐がない、と聞いているので」
「失礼だな、孟徳の奴め。まあ嘘だとは言わんが、それでもあいつは時々ちゃんと聴かせてくれる」
 ならば、と曹丕は出来たばかりの詩を謳い上げてくれた。
 ほお、と感嘆する。張りのある通る声だった。普段の低い淡々とした声とは別人のようだ。
 思えば、曹丕の詩をまともに聴いたことはない。会えば大抵は剣術に関することだったり、馬術の手解きだったりと武を嗜む者同士の付き合いしかしたことがなかった。
 曹操が持つ、戦や(まつりごと)に関する冷淡な一面を色濃く受け継いだらしい曹丕が作る詩だ。どのようなものか、と思ったが、夏侯惇は聴き終えて素直に感心した。
「優しいな」
 理路整然とした情景を組み込みながら、根底に流れているのは美しい景色を愛しむ心で、言葉の運びや韻の踏み方などの良し悪しは全く分からないものの、夏侯惇は感じたままを口にした。
 途端、なぜか曹丕は目を丸くして、それからたぶん、顔を赤くした。もっとも、赤く見えたのは篝火のせいかもしれない。何せ、そんな甥の顔など初めて見たからだ。
「……父が聴かせたくない、と言ったのは、このせいか」
 独り言のように呟いた曹丕に、首を傾げた。
「貴方は自分で良く分かっておられないのに、物事の核心を容易く突きすぎるのですよ」
「そうなのか?」
「こんな感想をもらえるのなら、父は作るたびに叔父貴に聴かせたくなったでしょう。それを独り占めにしたかったので、私や子建(曹植)に貴方の悪口を言って牽制したのでしょうね」
 そうか、と意外なことを聞いて、夏侯惇は頭を掻く。今さらこの歳にもなって照れることもなくなった、と思っていたが、そうでもないらしい。
 そんな夏侯惇の様子を見て何を思ったのか、曹丕はいつもの無愛想な顔に戻り、向かいの席に腰を下ろした。
「持ってきていただけましたか?」
「ああ、ほら」
 脇に置いておいたぶどう酒を持ち上げ、卓上に乗せると、曹丕の目が輝いた。どうやら果実酒、と呼ばれる中でも一級品に入る類のものだったらしい。
「このような物、どうして叔父貴が」
 夏侯惇が大将軍と呼ばれる地位にいながらも、質素に暮らしていることは周知の沙汰だ。贅沢品である高級酒など保管しているとは考えにくい。
「孟徳が、遠征に出る少し前に置いていった。お前と飲みたいが中々時間が作れないから、機会があれば渡しておいてくれ、とな」
「なるほど」
 嬉しそうに目を細める曹丕は、果たして思わぬ高級酒に喜んでいるのだろうか。それとも父親の心遣いにだろうか。訊くのは野暮な気がしたので、夏侯惇はぶどう酒の口を開けて、甥の盃に注いで好奇心を抑えた。
「叔父貴は、今回の漢中行き、同行を申し出なかったのですか」
 しばらく、会えなかった間の近況報告や昔の思い出話に花を咲かせていたが、曹丕が途切れた会話を埋めるように尋ねてきた。
「なぜだ?」
「父の、劉備への執着は尋常ではありませんから、手綱を握るためにも同行する、と私は思っていたのですが」
 事実、父は引き際を見誤っているようにしか思えない。長すぎる駐留に利益は見出せません。
「何より、貴方自身も父を介して劉備に対して並々ならない思いを抱いておられる。劉備に執着する父を苦々しく思うのと、父をこうまで惹きつけている劉備に……嫉妬している」
 人の心に立ち入ってくる曹丕は珍しい。旨い酒がそうさせているのだろうか。
「昔はな」
 だが口が軽くなっているのは夏侯惇も同じで、普段なら渋面で黙り込むか誤魔化すところを、素直に認めた。また、過ぎてきた時間(とき)がそうさせたのかもしれない。
「昔はお前の言うとおり、孟徳があいつの名を口にしただけで苛立った。劉備、劉備と構っている姿を見ると不機嫌になった。しばらくして、あいつが裏切ったとき、孟徳はなぜか怒らなかった。こうなることを予期していたかのように平然としていた。俺には分からない繋がりが二人にはあるのだろうか、とまた嫉妬した」
 あの男が本当に厄介だ、と知ったのは、むしろその後だった。
「劉備は負けても負けても、孟徳の前に立った。膝はがくがく震えているだろうし、背水の陣もいいところの情けない姿であろうとも、孟徳の前に何度も立ち塞がって生きている男はあいつだけだ」
 曹操は、次第に劉備を本気で注視するようになっていった。
 それまでは曹操の中で劉備は何となく気になる男、というだけだった。いつからか、じわじわと劉備の存在は曹操の中で大きくなり、決して無視は出来ない、宿敵と呼ばれるまでになっていた。
「父が劉備に負けると考えていますか」
「いや、負けるとは思っていない。ただ、不安なだけだ。あいつに執着するあまり、曹孟徳という男が歪み、乗っ取られるかもしれない、などという馬鹿馬鹿しい妙な不安がある」
『最後の最後、殿が帰ってくる場所は惇兄のところだからさ』
 夏侯淵の言葉が夏侯惇を不安から僅かに救ってくれている。
「お前はどう思う」
「分かりかねます。父と劉備、二人の関係など当人同士にしか分かりません」
「あっさりしているな」
 曹丕は夏侯惇と曹操の関係を知っている。明言したことはないし、追及されたこともないので、今のように二人の関係だ、と割り切っているのだろうか。
「ただ、劉備という男、私が直に接したことは劉皇叔、と呼ばれ許都に身を置いていたときぐらいですが……」
 当時、曹丕はまだ十二歳だ。曹操が自宅に劉備を連れてきたことがあった。
「挨拶をした初めの印象は、耳の大きな男だ、というだけでした。印象が薄かったのです。特に、あの父の傍に居たせいでしょうか。父の影のように見えました」
「影か……」
「しかし、影という印象がすぐに拭われることがありました。町を一人で歩いていたときです。劉備を見かけました。目を疑いました。劉備は治安のあまり良くないところで、博打に興じていたのです」



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