「栖ニ腎ヲ殘ス 1」
  夏侯惇×曹操


 不機嫌を全身で表している男が歩いている。機嫌が悪い理由はおおよそ見当がつくだけに、仕方がないな、と苦笑する。
「惇兄」
 声をかけると「何だ?」とただでさえ強面なのに凄んできて、態度のよくないことこの上ない。下っ端の兵など、腰が引けて逃げ出すだろう。
 軍事の長としては、実に悪い見本のようだ。もっとも、物心ついたときから一緒にいた夏侯淵にとっては、見慣れた顔だ。
 平然としたまま尋ねた。
「殿に用があるんだけど、知らないか?」
「俺に訊くな」
 夏侯惇は吐き捨てる。顔を歪めて機嫌の悪さが全身から噴き出した。殿――曹操の居所を尋ねただけで険が含まれたので、夏侯淵は悟ってしまう。
「劉備とね」
「曹司空殿は、左将軍殿と市中へ繰り出されておられる」
 厭味もこれまた溢れんばかりに垂れ流しつつ、夏侯惇は答えたが、いつもの調子になり、吼えた。
「どうにかならんのか、あれは!」
「俺に言われても」
 肩を竦めた。
 ここ最近の夏侯惇はずっとこの調子だった。
 普段の夏侯惇は、戦となれば確かに荒々しい一面も見せ、猛将軍とも呼ばれるほどの苛烈さを見せるものの、怒鳴ったり人に当たったりなど、理不尽なことはしない男だ。
 ただ、こうして従兄である曹操が絡むと、どうにも冷静さを失うらしい。
「お前は腹が立たんのか。あんなどこの馬の骨とも知らん男に夢中の孟徳を見て!」
「そりゃあ、少しはそう思うけど。でも殿の趣味みたいなもんだろう?」
 二人の主であり従兄である曹孟徳は、一種の悪癖ともいえる、病的なまでの人材収集癖があった。
 これぞ、と思い曹操の琴線に触れたら最後、地の果てまで追いかける勢いで人物を求める。たとえそれが、昨日自分の寝首を掻こうとした人間であろうとも構わない。
「それに劉備はまだ様子窺いって感じじゃあね?」
「駄目だ、あれは。下手な娼婦より性質が悪い。貢がせるだけ貢がせておいて、書き置きもなく逃げられるのが目に見える。見ただろう、あの人畜無害そうな顔! だが、ただの人畜無害な男が、狂犬にとどめをさせるわけがない」
 狂犬とは呂布のことであるが、先の戦で人中の人、と言われ続けた呂布を捕縛した曹操は、処刑をためらった。そこを断行すべし、と申し立てたのが、夏侯惇に下手な娼婦呼ばわりされた、劉玄徳であった。
「ああいう、良く分からない行動をする奴は今まで孟徳の周りにいなかった。だから、もう興味津々だ。珍しいお菓子とか西方の品を見ているときと同じ目をして大耳を見てやがって、子供みたいだ」
 よく観察している、と夏侯淵などは純粋に感心してしまう。
「だけど、軍師たちはそうでもないみたいだぜ?」
 劉備は英雄の器であり、もしも男に害をなそうとすれば人心を失うであろう、と程cなどは口にしている。
「俺はあいつらと違って、上手く言葉には出来ん。ただ、孟徳の熱の入れようと劉備という男。二人が並んでいる姿に、落ち着かなくなる」
「やきもち、じゃなくて?」
 半ばからかうような気分で口にしたが、
「淵!」
 途端に睨み付けられて、夏侯惇に一喝される。
「冗談だって」
 夏侯惇と曹操が主従や従兄弟同士という関係以上に濃密である、ということを知っている夏侯淵の軽口だったが、夏侯惇の激怒ぶりからするに、あながち外れてもいないだろう。
「でも、惇兄は本当に殿のことよく分かってるな。俺は殿の命令を忠実に守ることぐらいしか出来ないけどさ、惇兄は言葉に出来なくてもなんでも、ちゃんと身体の真ん中、腹の底で分かってる。無意識で理解している惇兄が、時々羨ましくなるけどな」
「そうか?」
 唐突な夏侯淵の告白に戸惑う夏侯惇に、「そっ」と頷く。
「だからさ、俺は安心してんだ。最後の最後、殿が帰ってくる場所は惇兄のところだからさ」
 にかっと笑って見せると「そ、そうか?」と頭を掻いて照れはじめる。そういう妙に(うぶ)なところが、夏侯淵は微笑ましい。
「ま、俺も殿と惇兄が一緒じゃねえと落ち着かないっつうの? 弓と矢みたいなもんでさ。一緒にいて始めてしっくりするっつうか。俺は殿のために頑張ることしか出来ないから、惇兄、殿を支えるのは任せるな」
「当たり前だ」
 (てら)いなく口にした従兄に、夏侯淵は笑う。
 この従兄が傍にいるかぎり、曹操はきっと大丈夫だろう、と思った。


 ******


 懐かしい夢を見た。
 記憶の反芻ともいえる夢で、目覚めた夏侯惇はなぜあのころの夢を、思い出すように見たのだろうか、と思った。
 冬の厳しさは身を切るようで、寝具に包まっていても外気は隙間から忍び込んできた。
 寒さから守るように腕に囲っていた男に目をやり、暖まっている寝具内の空気を逃さないように寝台から下りた。ひやり、とした感触が足の裏を刺す。這い上がる寒気に顔を僅かにしかめ、炭に火をもらいに室外へ足を向けた。
「おはよお、夏侯惇」
 すぐさま、気配に気付いた許チョに声をかけられた。ああ、と挨拶を交わして足元に置かれていた火鉢から炭を分けてもらう。
「もう大丈夫だが、どうする?」
「ん〜、もう少し待ってるだよ。曹操さまの顔を見てから帰るぞ」
 そうか、と微笑む。一晩中の立ち番で疲れているだろうに、純粋に従兄を慕ってくれているこの男は、変わらない無垢な笑顔をしている。
 部屋に戻り寝台を覗き込むと、疲れたような顔で眠っている従兄がいる。
 瞼は腫れており、元々眦は朱色であるが、いまは痛々しいほどに赤く染まっていた。頬が濡れていて、そっと指先で拭ってから腫れている瞼を撫でた。
 また、眠っている間に泣いたらしい従兄を慰める術を持たない自分に腹が立つ。
「孟徳をこんなに泣かせてやがって。向こうでお前に会ったら、一言、文句つけてやるからな、淵」
 呟く。
 夏侯淵が死んだ。
 益州を我が物とした劉備からの防衛線でもあり、張魯を従わせて布いた漢中の地に、夏侯淵と張コウが駐留していた。
 しかし昨年、ついに天涯の要塞ともいえる漢中を狙い、劉備率いる軍勢が戦を仕掛けてきたのだ。攻防は熾烈を極め、以前より曹操が案じていた夏侯淵の悪い癖が出た。
 一軍を率いる将としては相応しくない、見境なく敵陣へと飛び込んでいく直情型の性格が、彼を戦死させた。
 夏侯淵の陣没を受けた曹操の嘆きは尋常ではなかった。
 食事も咽を通さないほどに泣き、消沈ぶりは誰も声をかけられないほど痛ましい。普段、咲き誇る梅のように凛とした曹操なだけに、沈んだときは真冬の枯れ木ほどの荒涼さが漂うのだ。
 もちろん、同時に夏侯淵を討った劉備たちに対して怒りを燃やした。
 曹操自身が現地で指揮を執る、と言い出したのは当然の成り行きだ。しかし、それには曹操の傷心が肉体も精神も蝕みすぎていた。
『そんな状態のお前を戦地へ送り出せるか』
 夏侯惇が反対したのも当然の成り行きだった。
『ならば、お主が一時でもいい。わしから悲しみを忘れさせてみろ』
 散々に口論した挙句だった。
 曹操の言い出した言葉に、一つ残っている目を鋭く尖らせた。
『本気か』
 黙って睨み返す曹操の眼差しはギラギラと光っていた。
 夏侯惇とて、辛かった。夏侯淵は、曹操と同じように物心がついた頃からずっと傍にいた従弟だ。泣き叫びたいのは同じだ。ただ、まるで夏侯惇の分まで嘆く曹操を慰めるので精一杯で、悼む暇もない。
 曹操と意見をぶつけ合うときは立場上、あまり聞かれると不味いこともあるので、部屋を守っているのはいつも許チョだ。ある程度の無茶をして、不審な物音が立ったとしても、彼特有の勘が働かない限りは室内に踏み込んでこない。
 噛み付くように曹操の唇を奪って、寝台に縫い止めた。
 相当無茶な交わり方をしたのは、夏侯惇の全身に付いた掻き傷からも察せるが、疲労している曹操の顔付きからも伝わる。
 結局、許チョには一晩中立ち番をしてもらうことになってしまった。
『もっと……もっとだ、げんじょ……っ』
 泣き叫ぶ声が耳の奥で木霊している。
 後悔しそうになる心を奮い立たせて、夏侯惇は曹操の寝顔をしばらく眺める。
『……っび……ゅうび……っ』
 抱いている最中に時折、呪詛のように曹操が搾り出すように叫んでいた言葉を思い出した。
 そうか、と夏侯惇は合点する。
 なぜ夏侯淵の夢を、劉備が許都にいたころのことを夢に見たのか分かった。
 劉備か。
 夏侯淵を殺した相手を憎々しげに叫ぶのと同時に、あの男と戦いたい、という強い願いを感じた。
 あれから何十年経とうというのか。
 許都を袁術討伐、という名目で出立した劉備が、徐州奪取という裏切りで曹操と袂を分かったのち、幾度も干戈を交えた。そのたびに、完膚なきまでに叩きのめしたはずだが、劉備はしぶとくも生き延びて、ついには確固たる地盤を手に入れるまでに成長した。
 昔から劉備を知る者たちは、まさか、という思いと、ついに、やはり、という思いが交差して、劉備のいる西の空を眺めたものだ。
 お前は、劉備と決着をつけに行きたいのか。
 夏侯淵の仇と、長年の宿敵――いつの間にか宿敵といえるほどに成長した男のために、曹操は戦地に赴こうとしている。
 止められぬ。
「淵……」
 すまんな、と謝った。お前がせっかく慰めてくれたの、俺は役に立たない。孟徳を止める術を知らぬ。
「……妙才(夏侯淵)がどうかしたか」
 撫でていた掌の下で、掠れた声が聞こえた。
「起きたか」
 手をどけると、曹操の瞼は持ち上がり、夏侯惇をじっと見上げた。
 悲しみに曇っていた双眼が、いまは少しだが元の美しい紺碧に染まっている。気だるそうに幾度か瞼を閉じたり開いたりしていたが、水を、と命じた声はいつも通りだった。
 すかさず枕元に用意しておいた水差しから飲ませようとするが、思い付いて口に含む。そのまま口移しで曹操の唇を割って流し込んだ。
「――っ」
 初めこそ驚いたようだったが、すぐに大人しくなり、曹操はされるがままに水を飲み干した。幾度か繰り返して水を分け与え終わると、離れた唇を惜しむように、曹操はため息を吐いた。
「洒落たことをするの」
 まだ声は掠れたままだ。一晩中喘いでいたのだから、咽が枯れたのだろう。
「起き上がれんだろう?」
 真面目に返すと、ふん、と鼻を鳴らされた。本当に無茶をした、と忌々しそうに寝乱れた髪を掻きあげて、曹操は寝台に乗り上げている夏侯惇の脚を軽く殴った。
「二、三日わしは休む。そう皆に伝えろ。こうだるくては執務など出来んわ」
「それがいい」
「休暇を取ったら、わしは漢中へ向かうぞ」
「ああ」
「止めないのか」
「やめた」
 潮時だ、と悟ったからだ。
 昔から、曹操がこうしたい、と願ったことに逆らえた試しはない。だから夏侯惇は曹操に従うままに来た。それでもあえて反対するときは、曹操の身を本気で案じているときだ。
 引き止めることは出来なくとも、曹操に提示することは出来る。
 お前を待っている奴がいる。お前に何かあったときに困る奴がいる。悲しむ奴がいる。お前が傷付くことを何よりも許せない、と思っている奴がいる。
 だから、無事に戻って来い、と反対することで暗示させる。
 それしか出来ない自分がもどかしいが、夏侯惇の反対で揺らぐほどの男であったなら、ここまで歩んではこられなかっただろう。
 誇らしいような、悔しいような、いつも複雑な心持ちになる。
 そうか、と拍子抜けしたような顔をする従兄だったが、そういえば、と訊いてきた。
「先ほど、妙才の名を呟いていたが、どうした?」
「ん? いや、ちょっと夢枕に立ったものだから、ついな」
「夢枕か……。あやつの死を嘆いてばかりいるわしのことを案じておるのだろうか」
「分かっているなら、ゆっくり休め」
「で、何を告げたのだ?」
「昔の記憶を甦らせてくれただけだ」
「何だ、それは」
 眉をひそめる曹操の頭を軽く撫でてから、夏侯惇は寝台から下りた。
「もう少し寝ていろ。お前が居ない間の準備もせねばならんから、俺は忙しい」
「その頭を撫でるのはやめろ、と……って、元譲、答えになっておらんぞ!」
 不服そうな曹操を置いて、夏侯惇は部屋を出る。外にいた許チョに、食事を用意してやってくれ、と言い残し、歩き出す。
 冬の澄んだ朝の空気に、ため息混じりの白い息を溶かした。



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