「瞳に映る色を教えて 3」
  夏侯惇×曹操


 運ばれたのは夏侯惇の執務室だった。
 庭から一番近かったせいと、入ったときに分かったが、暖が入れられていた。
「仕事をしていたのか?」
 卓上に広げられた竹簡を見て、曹操は尋ねた。
「お前がいないと雑務がたまる。それに、今の俺はこれぐらいしか役に立たんからな。祝宴にも顔を出せる義理もない」
 自嘲気味な色をそこに感じ取り、曹操ははっとして夏侯惇を見やる。
 長椅子に下ろされて、座らされた。夏侯惇はその前に跪き、顔を覗き込んでくる。
「少しは落ち着いたか」
 運ばれる間、夏侯惇の体を間近に感じて、徐々にあの妙な寒気が取り除かれた。さらに明かりが灯った部屋に入れば、はっきりと夏侯惇の姿を目にすることができ、足元がおぼつかないような、不安感も消えていった。
 そうなれば、先ほどまでの自分の醜態を思い出し、気まずくなってくる。
「……」
 黙ってしまう曹操だが、夏侯惇にも落ち着きを取り戻したのが分かったらしい。やれやれ、といわんばかりにため息がこぼれた。
「酒もほどほどにしておけ」
 説教じみた口調に、曹操の反発心が刺激される。
「酒のせいではない」
「なら、なんのせいだと?」
 即座に切り返されて、言葉に詰まる。
 自分でも理由の付けられぬ思いだった。
 ここ最近の自分はおかしい。
 その自覚だけはある。
 情緒不安定、といえばいいのか。
 突然に得体の知れない不安感に襲われたり、焦燥感に苛まされたり、落ち着かない。
 元々、喜怒哀楽の激しいほうだ、という自覚はあるが、ここ最近の自分は、自分でも持て余すほどふり幅が大きいのだ。
 黙り込んだ曹操に、夏侯惇はまた一つ大きなため息を吐いた。
「それと、お前ここ最近、ろくに物を食っておらんだろう。軽かったぞ。戦に夢中になるのも良いが、自分の体調ぐらい管理せんと……」
 いつものお小言が始まり、曹操の苛立ちを刺激した。
 やはりおかしい。
 普段なら夏侯惇の小言など簡単にあしらって、笑い飛ばすというのに。
「うるさい。そもそもわしが直接指揮を執ることになったのは、お主が前線から退いたからだろうが。全く不甲斐ない」
 思ってもいないことを口にしてしまうほどに。
「……そうだな、その通りだ」
 急速に、夏侯惇の片目となってしまった瞳から色が失われた。

『将軍、何だか傷付いていただな』

 許チョの言葉が蘇り、ぎくり、と曹操は体を強張らせた。

『それに、今の俺はこれぐらいしか役に立たんからな。祝宴にも顔を出せる義理もない』

 先ほどの、自嘲気味の夏侯惇の言葉で、どうして気付かなかったのか。
 前線を退かなくてはならなかった自分を誰よりも悔いているのは、夏侯惇自身なのだ。
 夏侯惇は普段、どれだけ冷静に振舞っていても、武人として熱情を持っている男だ、それを曹操自身が一番知っているはずだった。
 知っているはずの自分が踏みにじったのだ。
「俺は、お前の天を掴む様を見届ける、と約束した。しかしそれも叶わぬかもしれんな。このような片目では、お前の足手まといだ」
 何を馬鹿な。そのような弱気な言葉、お主らしくないではないか。
 笑い飛ばそうと口を開くのに、唇を震わすだけで音(ことば)にはならない。
 まるで、外で深々と降る雪に吸い込まれるようだった。
 包帯を巻かれた見慣れぬ顔と、らしくない言葉に、相対している人間は本当に昔馴染みの従弟なのだろうか、と感じてしまう。
 落ち着いたはずの心が掻き乱される。
「約束を違えるのか?」
「お前が大事とする人間は大勢いる。俺がいなくとも困りはしないだろう? それに餓鬼の約束だ。破っても問題はあるまい?」
 子供の約束事。
 確かにそうだ。
 十の童とした約束など、しかも本人はその意味を分かりもしていなかっただろうに。
 それでも……。
 あの頃の自分は、地位や親の財力、己の能力など、確かなものはたくさんあり、それを目当てに集まる人間ばかりがいた。
 しかし、天を掴む。
 その唯一漠然とした思いにだけは、誰も見向きもしなかった。
 だが、それならそれで構わない、とも思っていた。見向きもしないなら、向かせてみせる、とまで思っていた。
 それでも、夏侯惇に認められたあの時、嬉しかった。
 初めて認めたのが、七つも離れた幼い従弟であることなど構わなかった。
 夏侯惇に認められたことで、ようやく曹操の中ではっきりと形を成したのだ。
 それを破るというのだ。
 焦燥感が耐えられないほど胸を焦がす。不安感が曹操を飲み込み、息を詰まらせる。
(耐えられぬ。一人でなど、耐えられるはずがない!)
 本当は、昔から焦っていた。生き急ぐように、夢中で駆けてきた。
 誰も追い付けなどせぬ、と思い孤独の中で駆けてきた。何を求めて必死に走っているのか忘れてしまうほどに、ただ駆けていた。
 駆けた先にある、まだ見たことのない色を目指して、一人で駆けてきた。
 そこに、いつの間にか隣で走ってくれる者たちが増えてきた。
 一人、また一人、と。
 いつしか孤独を忘れ、大勢の者たちに囲まれて駆けることを楽しい、と感じるようになった。
 目指す色を迷っていたときに、こっちだ、と手を引いてくれた男の手すら忘れ、初めて共に駆け始めてくれた男の存在すら忘れて。
 その男は自分の手を離して、違う色を追い駆けようとしている。
(耐えられぬ。お主がいなければ、耐えられぬ!)
 狂おしい。
 これほどに、自分は夏侯惇を必要としていたのだ。
 大勢の、他の才ある人々を愛しても、それでも夏侯惇がいなければ色褪せる。
 天を支える背が潰れてしまう。
 この想いを口にしなくはならない。何としても夏侯惇を引き止めなくてはならない。
 だが、いつもはあれほどに饒舌に動く舌が、ぴくりともしない。雪の寒さに凍えたように、動こうとしてくれないのだ。
「なぜ、そのような顔をする、孟徳」
 言葉を発せないでいるうちに、夏侯惇は困惑した表情で曹操を見つめていた。
「お前らしくない。そのような顔で俺を見るな」
 惇、と声にならない声で唇を震わせた。
「孟徳……っ」
 辛そうに、夏侯惇が名を呼ぶ。
 約束が成立した証に交わした、呼ぶことを許した字に、胸が苦しくなる。
「……元譲」
 初めて、その字を口にした。
 夏侯惇に字が付いた日、夏侯惇は誇らしげに、これからは字で呼んでくれ、と報告しに来た。
 しかし、その得意げな顔に悪戯心が湧き出た。
『お主は夏侯惇で十分だ』
『何でだ!』
 不満顔の三白眼が可笑しくて、曹操は笑いが止まらなかった。
 本当は照れ臭く、眩しかったのだ。
 ぐんぐんと成長していく従弟の姿と、ずっと呼んでいた「夏侯惇」という響きに慣れすぎて。
 初めて口にしたそれに、夏侯惇も驚いたようで、次の瞬間には頬が薄っすらと色を含んだ。
「お前、こんな時に……卑怯だぞ」
 何が卑怯なのか分からなかったし、問いただすことも出来なかった。
 なぜなら、そう夏侯惇が言い終わるや否や、曹操の唇を己のそれで塞いだからだ。
「――っ?」
 暖まりきれていない唇は冷たく、ゆえに感触を露わにして、曹操の唇と重なる。
 口付けられている、と分かった後でも、嫌悪感は湧かなかった。すぐに離れたそれに寂しさすら覚えて、名を呼んだ。
「元譲……?」
 伸び上がった姿勢を元に戻して、蹲るように曹操の前にいる夏侯惇は、名を呼ぶと目を伏せてしまった。
「呼ぶな」
 押し殺した声が、たった今まで曹操の唇にあった唇からこぼれる。
「そのような姿で、そのような顔で呼んでくれるな」
「呼んで欲しくなかったのか?」
 字を報告しに来て、しばらくはうるさいぐらいに「字で呼べ」と言っていた。よほど曹操に呼んでもらえることを期待していたのだろう。
 だからこそからかう意味も込めて、曹操も頑なに呼ばなかった。呼ばない内に、今さら呼べなくなった。
 夏侯惇も、ある日を境に何も言わなくなったのでなおさらだった。
「そうではない。そうではないが……」
 これは夏侯惇を引き留めるのに使えると感じた。俯いた夏侯惇は、先ほどまでの決意を揺らがせている。
「元譲、行くな」
 強くは命じられなかった。
 命令などでこの男を縛りはしたくなかった。命ではない、この男の意思で己の傍にいることを選んでくれないと意味がない。
 それでも、曹操は命じるしかなかった。
「行かないでくれ、元譲っ」
「孟徳!」
 今までの、どの大音声よりも、曹操の心を揺さぶった。大きくも、うるさくもない。ただ、辛そうな声だった。
「やめろ、と言っている。俺にこれ以上惨めな姿を晒させないでくれ」
「惨めだと、何をもって惨めだと言う。お主の隻眼をか? まだ片目が残っているではないか。残った目でわしが天を掴む様を見ろ。片腕が?げ、剣を握れなくなったらもう片腕で握れ。片足を失ったなら、残った片足で這ってでも付いて来い」
 話すうちに、長椅子から立ち上がり、激してくる。
「生きて、わしの傍にいろ! 許さぬ。わしの下から去ることも、わしより先に死ぬことも、断じて許さぬ!!」
 今なら良く分かる。
 夏侯惇の負傷報告を受けたとき、夏侯惇の包帯を見たとき、夏侯惇が自分の前より去ると言い出したとき、どうして途方に暮れるほどの怯えを感じたのか。
 失うことが恐かった。
 夏侯惇を失うことが恐かった。
 引かれていた手が離れ、取り残されることが恐かった。
「無茶な命令を下す。寿命など、天が決めること。それをお前の命と俺の意思で変えられるはずがなかろう」
 曹操のなりふり構わない命令に、大抵の無茶と思われる命をこなしてきた夏侯惇ですら飽きれたようだ。しかしすぐに立ち上がり、激して震えている手をそっと握り返して、大事そうに胸に押し当てた。
「しかし、俺にとっては天の意思よりも曹孟徳、お前の命が優先される。前言を撤回するというのは男らしくないだろうが、構わんか」
「当たり前だ!」
 そうか、と小さく夏侯惇は笑い、笑った顔が妙に優しげで男臭く、曹操は見知らぬ男を見てしまった気になり、どきり、とする。握られた掌を持ち上げられて、掌に唇が押し付けられた。
「だが、証が欲しい。その言葉に、命令に偽りがないのか。そして、俺に惨めな姿をさせる代償として、証が欲しい」
 唇に押し付けられた掌の、指の隙間から夏侯惇の片目が覗く。
 ぞくり、と鋭い悦が曹操の体を走った。
 男の目ははっきりと意思を持ち、欲を湛えて曹操を射抜き、反応するように、曹操自身も官能を覚えた。
「……構わない。だが、一方的過ぎるな。お前からも俺の命に背かない証をくれ。だが、知っているだろう。俺は物に縛られるのは嫌いだ」
 気付けば、昔の口調に戻っていた。それは精一杯の虚勢のせいかもしれない。そうでもしないと、夏侯惇の情炎に引きずられそうだった。
「ああ、そうだったな。……ならば俺からも言葉をやろう。一生涯、口にしないと誓いを立てていた」
 低い声が耳孔を揺さぶる。
「……好きだ、孟徳」
 心臓が確実に跳ね上がった。今さら、従兄弟としてか、主従としてか、などとからかう隙もない。明確に夏侯惇の片目は曹操を情の対象として捉えている。目の前の男は、もう自分の下から睨み付けてきた幼子でも、甲高い声で生意気なことを喚く従弟でもない。
 曹操が我知らずと頼りにし、そして男なしでは歩むことも出来ぬ、と自覚させられた、大きな存在だ。
「俺は、言葉よりも確かなものを得たい。いいか」
 ああ、と頷いた声は掠れていた。
「お前の身体が欲しい。俺が慕ってやまない、曹孟徳という魂が入った器が欲しい。それを証としてくれないか」
 握られた手ごと、胸に引き寄せられ、口付けられた。
 先ほどのすぐに離れた、触れるだけの口付けと違う。明らかな「そういう」意思を含んだ口付けだった。



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