「瞳に映る色を教えて 2」
  夏侯惇×曹操


 軍議が終わり、曹操は許チョを従えて、残っていた公務を片付けるために執務室へ向かっていた。
「殿」
 後ろからの呼び掛けに、曹操は足を止めた。
「夏侯惇か、どうした」
 振り返れば、夏侯惇が足早に近付いて来るところだった。先陣が決まり、夏侯惇はこれから軍の編成に忙殺される。ただでさえ、他の軍にも目を掛けなくてはならないのだ。その忙しさは他の将軍とは一線を画している。
「先ほどの軍議のことで少々」
 その口調に、どうも説教くさいものを覚え、顔をしかめる。だが、駄々を捏ねて忙しい夏侯惇の身をさらに追い詰めるのもさすがに気が引けたので、先を促した。
「あのような真似、お控えください」
 許チョが傍にいるせいと、誰が通りかかるか分からない回廊であるため、夏侯惇の口調は臣下のそれだ。
「あのような真似?」
 珍しく夏侯惇の言いたいことが汲めず、曹操は首を傾げた。
「劉備を立てるような真似です。皆、あの男を好ましくは思っておりません。それをあのように扱えば、悪感情は広がる一方です」
 ああ、と曹操はようやく思い当たり、得心する。
「そのようなことか。しかし、あやつらも人が悪いではないか。劉備を試すようなことをしたのだ。それに対して、劉備はしかと応えた。あれはかなり愉快だったぞ」
 あのときの可笑しさが込み上げてきて、にやっと曹操は唇を歪める。
「殿、ですからそれをお止めいただきたいのです。貴方の人好きは今に始まったことではありませぬが、大事とする人間を見誤らないでほしいのです」
 淡々と、口調こそ変わらないが、夏侯惇の目付きが僅かに鋭くなる。
 軍議中はあれほど表情が動かなかったのは、臣下としての遠慮のせいだったらしい。
「大事、といわれても、わしにとっては誰もが大事であるしな。優劣など付けられん」
 曹操の正直な気持ちであった。
 軍師たち、従兄弟たち、または底の知れない、今は拠り所のない男。その才を愛して止まないし、誰もが一番であるのだ。
 それを正直に口にする。もちろん、それに対しての反論があろうことは承知の上だ。
『得体の知れぬ男よりも、己の臣下を大事にしてやれ』だの、『しかし、臣下や劉備を試しているところは、実に人が悪い』だの、口調は違えどもそのような意味合いが返ってくるだろう、と思った。
 だが、見上げる先で、夏侯惇の険しかった双眸が色を失ったように見えた。
「そうでしたな。殿の人を愛する心は誰にも止められるものではありません。愚かな戒めを口にしました。申し訳ありません」
 もう少し、食い下がると思っていただけに、曹操は拍子抜けした。それ以前に、色の失われた夏侯惇の瞳がすっと胸を冷たくさせた。
「夏侯惇?」
「私は先陣の準備がありますゆえ。殿も公務が残っておいででしょう。許チョ、今度こそ殿を頼むぞ」
「分かっただぁ」
 夏侯惇が許チョへ声を掛け、のん気な声がそれに答えた。
「おい、惇。話は……」
「必ずや、殿に勝利をもたらします」
 曹操の言葉を遮り、夏侯惇は拱手をしてその場を立ち去ってしまう。
「何なのだ、あやつは」
 自分から話し掛けておいて、一方的に切り上げて去ってしまった夏侯惇に、曹操は肩を竦めて呆れる。
「将軍、何だか傷付いていただな」
 ぼそり、と許チョが呟いたので、曹操は驚いて許チョを見やった。許?ははっとして、慌てて謝った。
「あ、あ……曹操様、すまないだ。おいら、余計なことを言っただぁ。典韋には、親衛隊は黙って曹操様を守ればいいんだって言われていたのに……」
 しょんぼりしている許チョを、曹操は苦笑いで慰める。
「気にするな。お主はそのままがよい」
 そうだかなぁ、と許チョは小首を傾げたが、曹操が歩き出したので、慌てて後を追いかけてきた。
(傷付けたのか、わしは?)
 曹操は夏侯惇の色を失った双眸を幾度も思い出し、冷たくなった胸をそっと撫でた。



 夏侯惇率いる第一陣が出立する日、曹操は謁見の間にて、夏侯惇と見えた。互いに多忙だったため、あの不自然な別れ方以来だった。
「行ってまいります、殿」
「ああ、お主のことだ。勝利の報が届くこと、疑っておらぬ」
「もったいないお言葉でございます」
 他の臣下も見守っている中でのやり取りだ。深い話は出来なかったが、夏侯惇の様子はいつもと変わらなかったので、曹操は安心した。
 出立して間も無くも、交戦が始まって策通り、つつがなく敵を誘い出している、との報告が届いており、曹操も公務に専念できた。
 しかし、戦況をもたらす使者が、慌てた様子で執務室を訪れたとき、曹操は椅子から立ち上がっていた。
「夏侯惇がっ?」
 使者の報告に、立ち上がったばかりの椅子に崩れるように座り込んだ。
「殿!」
 屯田の報告に来ていた荀ケが、その体を支えた。
 全身の血が凍えそうだった。頭が働かず、小刻みに震える体を自分の腕で抱き締めるのがやっとだった。
 そんな尋常でない衝撃を受けている主に代わり、荀ケが矢継ぎ早に使者へ質問をする。
「命に別状は?」
「はっ、なにぶん夏侯将軍のことですから、そのまま戦い続け。一通りがすんだ後に倒れまして、今は軍医の手当ての下、絶対安静の身となっております。恐らくは命に別状はないようですが、目のほうは……」
 段々と報告しづらくなるのだろう。使者の声は消え入るように細くなった。
「片目に矢を受けて戦い続けるとは、あの方も無茶をなさる」
 荀ケと使者とのやり取りを遠くに聞きながら、曹操は歯の根が合わなくなりそうな奥歯をきつく噛み締めた。
(目が……? 目が何だというのだ。夏侯惇の目が失われた、と?)
 乱世の続く今、五体満足でない者など珍しくもないが、曹操の受けた衝撃は大きかった。
 足元から這い上がるような寒気があった。自分の体を包んでいた何かが剥がれ落ちてしまったような、そんな急激な寒さが曹操を襲っていた。
「戦の支度をしろ」
 使者から詳しい話を聞いていた荀ケは、曹操の言葉に振り返った。
「殿?」
「戦の支度だ。わしが直接呂布を叩く。夏侯惇が倒れた今、わししかおるまい」
「しかし、殿、大丈夫ですか?」
 気遣うような荀ケを、曹操はきつく睨み付けた。びくっと、荀ケの体が震えた。
「聞こえなかったのか、荀ケよ。わしが支度をせよ、と言ったのだぞ」
「はっ、ただいま!」
 強張った顔のまま、荀ケは使者を促して部屋を飛び出していった。
 この悪寒を取り除くには、戦に出るしかなかった。血の滾(たぎ)る、戦場(いくさば)が曹操を奮い立たせる。
 恐怖を取り除いてくれる。
 何が怖いのか、自身でも分からなかった。ただ、それらに追い立てられるように、曹操は戦の準備へと取り掛かったのだった。



 呂布は思っていた以上に手強かった。劉備の言うとおり、張遼と高順の抵抗も激しく、特に遊軍として戦場を縦横に掻き回した張遼の活躍は曹軍にとっては大きな痛手となった。しかし最後には呂布は下ヒ城へ篭城した。
「水攻め、でしょうな」
 郭嘉は事も無げに呟いた。劉備の顔が曇ったが、曹操はすぐさま同意を示した。
 水攻めは兵士だけでない。そこに住む民や土地も苦しめる。しばらくは穀物の育たぬ死の土地になってしまう。
 それを憂えて、劉備は顔を曇らせたのだろうし、曹操も少し前なら他の方法も模索しただろう。
 しかし今は、呂布を討つ、という思いに駆られている。決断に迷いはなかった。
 目の前の戦に没頭せねば、何かに追いつかれ、飲み込まれ、自分を見失いそうな気がするのだ。
 恐ろしいまでの焦燥感があった。
 早く決着をつけなくてはならない。
 そんな思いが曹操に決断を促した。
 水攻めは効を成し、呂布は内(みかた)からの手引きもあり、敗れた。
 処断には迷った。
 暴れ馬である呂布ではあったが、曹操には手綱を握れる自信があった。呂布の圧倒的な武力を手にすれば、自分の目指す世に少しでも早く近付ける。
(早く、早く天を統べなくてはならぬのだ)
 酷く、焦っていた。
 今まで、機を見計らい、果断してきた事柄も多々あるが、それよりも曹操の基盤を固めさせたものは、機会(とき)を得るのに決して焦らなかったことだ。
 耐えること。
 焦らずに秋(とき)を待って初めて天を掴めるのだ。
 だが、今は出来ない。そんな自分にどうしようも出来ない焦燥を察していたものの、曹操は逸る心を抑えられないでいた。
「曹操殿、お止めください。呂布のしてきたこと、忘れたわけではないでしょう。この男は裸馬です。手綱を握ることなど出来ませんよ」
 そんな曹操を見透かすように、劉備が言った。
 はっとして曹操は劉備を見つめた。
 穏やかなる眼差しの中に、ここまで劉備を生き残らせた強かで鋭い光を見つけ、曹操に冷静さを取り戻させた。
 ――そして、呂布は処刑された。
 許都に帰還する道すがら、曹操は劉備に隣を歩ませた。お互い、長い間何も話さなかった。
「お主は、どのようにして耐えている」
 ようやく曹操は許都が遠目に見える頃、口を開いた。言葉の意味が果たして通じるのか定かではなかったが、そう尋ねるしかなかった。
「難しい質問ですね」
 劉備は小首を傾げた。また、困ったような笑みを浮かべている。
「聞かせてほしい」
 縋るような、情けない声だと思った。しかし劉備の困惑の笑みが、ほどけるように柔らかくなった。
「初めて、私は貴方に親近感を覚えた気がします」
 貴方は何もかもが完璧すぎますから、と呟くように言って、劉備は遠くを見つめた。
 その横顔をじっと見つめて、先の言葉を待つ。
「私は、私一人で耐えているわけではありませんので」
 謎掛けのような質問に、同じように謎掛けのような答えが返る。
「これ以上は答えて差し上げられません。むしろ、貴方には気付かないでいてもらいたい。そうすれば……」
 後に続く言葉は、きっと劉備の口からはこぼれないだろう。なぜなら、劉備の横顔は天を望む自分と同じ顔をしていたからだ。
(この男は、危険だ。しかし、だからだろうか。強く惹かれるのは)
 そして劉備の答えを繰り返す。
(一人で耐えているわけではない)
 この、胸を焦がすものに耐えてこられたのは、機を計ることを焦らなかったのは、一人ではなかったからか。
(それならば、わしとて大勢の才ある者に囲まれておる。劉備と何が違う)
 劉備と同じ空を見上げて、しかしそこに映っている色はきっと同じではないのだろう、と。
 なぜかそう思えた。



 許都は大変な賑わいを見せていた。
 呂布の討伐に成功したことは早馬で知らされていて、祝賀の催しが早くも開かれ、到着した本陣は宴の中心へと祭り上げられた。
 元より、賑やかな事柄は好む性質だ。曹操は焦燥感を忘れるように、祝宴に興じた。
 一通り騒ぎ、火照った体を冷ますために、曹操は許チョの目を盗んで一人宴を離れた。
 フラフラと、おぼつかない足取りで庭を歩く。月は雲に隠れ、辺りは暗い。宴のための篝火もここまでは届かないらしく、夜目が利き始めてもぼんやりとしか掴めなかった。
(雲が厚いの。また雪でも降るか……)
 ぼんやりとそんなことを考えながら、それでも慣れた庭だ。足は自然といつもの裏庭へと向かっていた。
 思案するときや、軍議の前などに考えをまとめたいとき、いつも庭の隅にある大きな岩に登り、空を見上げた。
 その岩の上に、今夜は人がいた。
 曹操は今までのほろ酔い気分も忘れ、不快になる。
(わしの特等席を奪っている不届きな輩は誰だ)
 ここからだと後姿であり、夜目もあまり利かないせいもあり、誰だかは分からない。
 癪に障るので、そっと近付いて岩の上から引きずり落としてやろう、と曹操は気配を殺して近寄る。
 近寄ると、人影は男であること。そして怪我でもしているのか、包帯が頭を覆っていた。
(どこかで……)
 近付いたせいで、後姿に見覚えを感じた曹操は、気配を殺すことを忘れてしまった。
 その途端、人影は思わぬ素早さで振り返り、曹操に飛び掛ってきた。
「――っ」
 驚いたのは曹操で、まさかいきなり襲われるとは思っていなく、咄嗟に抵抗も忘れてしまった。だが、相手はそうではなかったようで、険しい声で詰問し、曹操を押さえ付ける腕に力が籠もった。
「誰だっ? 人の背後に気配も無しに立つなぞ、よほどやましいことがある輩か!」
 威圧のある声に、曹操は目を見開いた。
「惇?」
「殿っ?」
 驚いたのは、今度は向こうも同じようで、大声で曹操を呼んだ。
「どうして殿がこのようなところに……まさか、またお前、一人で!」
 曹操が一人でいることが分かったらしく、口調が従兄弟同士のそれへと変わるが、怒鳴り声はさらに迫力を増した。
「孟徳、お前、俺が言ったこと、理解していないのかっ? 一人でこの時分でこのようなところへ来るなど、危険だろうが!」
 地面に押さえ付けられているせいで、いつものように耳を塞ぐことも出来ず、まともに大声を浴びて、曹操は耳が痛くなる。
「えぇい、そう喚くな! 聞こえている! それよりも早くどけ!」
 思わず怒鳴り返して、圧し掛かっている夏侯惇の重さに文句を付ける。
 その言葉に、ようやく夏侯惇は今の状況を省みたらしく、慌てた様子で曹操を解放し、助け起こした。
「すまん、てっきり賊か何かかと……」
 立ち上がった曹操は服の乱れや汚れを簡単に直した後、ちらり、と夏侯惇の顔に視線を走らせた。
 月明かりが十分でない視界では、どんな表情をしているかは判然としないが、頭と顔の左半分を覆っている白い包帯だけが浮き上がっていた。
 ぞくっと、また足元から得体の知れない寒気が這い上がった。火照った体など一気に冷めていく。
 震え出しそうな体を押さえ込もうと、両腕で自分を抱き締めるが、それだけでは足りず、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「孟徳……?」
 従兄の異変にすぐに気が付いたらしい夏侯惇は、声の張りを落として尋ねてくる。
「どこか、痛めさせてしまったか?」
 それは酷く不安そうな声で、普段の威圧感ある声も低めの声もどこにも見つけられなかった。それがさらに曹操の寒気を煽り、震えを大きくさせる。
「違う……、惇、お前は……」
 自分でも何を言いたいのか分からないまま、間近にある夏侯惇の顔へ指を伸ばす。
 巻かれた包帯の上から、あったはずの左目へ触れた。
「……あ、ああ。お前はこれを見るのは初めてだったな。大袈裟なのだ。もう外しても大丈夫なんだが、医者がうるさくてな」
 見られるのが嫌で、宴にも参列しなかったのだが、と言って苦笑いしたのが何となく伝わるが、曹操はそれすら目に入らなかった。
 夏侯惇とは入れ違いになるように討伐戦へ赴いた。曹操が前線にいる間、夏侯惇は許都で療養に努めていたはずだ。だからこうして出歩けるようになったのだろう。
 しかし、片目を失った夏侯惇の姿と、闇に浮かび上がる白い布を見つけた途端、急に足元がおぼつかなくなった。
 これだけの闇夜でも、迷いようもなく歩けた自分なのに、急に踏みしめていた地面がなくなってしまったような、そんな心地さえした。
 曹操が触れた夏侯惇の顔は、長い間外にいたせいなのか、酷く冷たかった。それは生きている人間とは思えぬほどで、ぞっと曹操の背筋を凍らせた。
「惇、お前は生きているのか? ここにいるのか?」
 馬鹿な問い掛けだと思わなかった。それほどに必死だった。
「孟徳? どうした」
 そんな曹操の様子にただならぬものを感じたのか、夏侯惇も馬鹿げた問いを笑い飛ばすこともせず、戸惑った声音で聞き返した。
「答えろ、夏侯惇!」
 簡素な平服を着ている夏侯惇の襟を掴み、叫んだ。
「お前、何をそんなに怯えている。そのような姿、お前らしくない」
 頭を振って、曹操の体を引き剥がそうとする夏侯惇だが、曹操の体が小刻みに震えていることに気付いたのか、逆に引き寄せた。
 押し付けられた夏侯惇の腕の中は、やはり冷たいままで、曹操の寒気を取り除くには足りなかった。
「俺はここにいる。生きているし、お前を支えることも出来ている。これでは満足できないか」
「出来ぬ! お主の体はまるで死人のようじゃ。生きているなどとどうして信じられる!」
 屁理屈をこねる幼子のように、曹操は言い募る。
「お前……酔っているのか?」
 さすがに夏侯惇の声に呆れが滲んだが、埒が明かない、と思ったのか、曹操の体を抱きかかえた。
「――! 惇?」
 驚いてもがくが、
「このような寒いところで話していても仕方がなかろう。雪も降ってきたしな。大人しくしていろ」
 言われて、互いの体に白いものが付いていることに気付く。
「大人しくしていないと、答えはやらんぞ」
 さらにそんなことを言われ、曹操は見えにくい夏侯惇の顔を見上げた。
 白い息を吐きながら不機嫌そうに顔をしかめている従弟に、曹操は力を抜いた。少なくとも、その顔だけはいつもの彼であったので、安心できたのだ。



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