「瞳に映る色を教えて 1」
  夏侯惇×曹操


 第一印象は最悪だった。
 元から悪い噂しか聞いていなかったし、年上で何でも出来る。その上、町の子供たちからの人気も高い従兄、というのは、年頃の少年にとっては憧れか反発心を抱くかのどちらかでしかない。
 そして夏侯惇は、その後者であった。
「ふ〜ん、お前が惇か」
 開口一番に、顎を撫でながらにやり、と笑われて、夏侯惇はむっとした。
 まるで馬鹿にするかのような物言いで、上から見下ろされているような(事実、その頃の二人は年齢差のせいで、夏侯惇のほうが低かった)、そんな言い方だったのだ。
「俺は曹孟徳だ」
 従兄の、頭を撫でようとした手を払いのけて、自分はスタスタとその場を離れようとした。
 しかし、一つ下の従弟、夏侯淵は、妙に目を輝かせて八つ上の従兄を見上げていて、動こうとしない。
「淵!」
 苛立って、夏侯惇が呼べば、困ったように自分と従兄を見比べる。
「別に構わぬぞ。行くが良い」
 促されて、夏侯淵はこっくりと頷いて、ようやく夏侯惇の下へやってきた。
 それがまた夏侯惇の神経を逆撫でして、悪感情を抱かせる。まるで自分は大人だから、少し生意気な従弟を寛容な心で見守っているのだぞ、ということを見せ付けられたような気がした。
 事実、後から振り返れば生意気なのは確かで、全くその通りなのだが、そんなことが十の子供に分かるはずもなかった。ただムシャクシャする気持ちを持て余して、従兄に噛み付いた。
「お前、知っているか。阿瞞の瞞は人を騙す欺瞞から来ているんだ。お前はこの間、曹嵩様を騙しただろう。親まで騙して、悪い奴だ」
 阿瞞とは従兄の幼名である。吉利、という立派な幼名があるが、夏侯惇はあえて阿瞞、という名を持ち出した。
 事実、従兄は曹嵩――従兄の父親に、従兄の奔放ぶりを忠言してくる煩型の叔父を、父親諸共騙したことがあるのだ。
 従兄は叔父の前で、病に苦しむふりをしてみせて、慌てて曹嵩を呼びに行かせた。しかし、それは従兄の演技で、父親が現れたらけろっとした様子を見せて、叔父を嘘吐き呼ばわりした。そして、叔父はこの通り嘘吐きだから、今後彼の言うことは信じないように、と言いくるめてしまったのだ。
 そんな話は、大人たちには内緒であったが、町の子供たちの中では有名で、従兄はますます持て囃されるようになったのだ。
 大人を堂々と騙す度胸やふてぶてしさ、さらに様々な悪戯や侠客との交わりなど、この従兄には噂が絶えない。
 そんな彼は十七の歳になっても、親の豊かな財力を当てにしているのか、特に何をするでもなく、毎日をふらふらと過ごしている。
 それがまた夏侯惇の癇に障るのだ。
 夏侯惇や夏侯淵の家は、曹嵩が夏侯の家から宦官へと養子に入ったことで盛り立っている。そのことを、夏侯惇は物心がついた頃より、幾度も幾度も聞かされていた。
 そのような立派なことをした人の息子は、さぞ凄いのだろう、と思っていたら、これがとんでもない悪餓鬼で、憧れは深い失望を招き、大きな怒りと反発心を生んだ。
 初めて紹介された今日も、その反発心は収まるどころかますます激しくなり、隣で夏侯淵が心配そうに見守る中、従兄へと食って掛かったのだ。
「ほお、幼いのに難しいことを知っているな」
 しかし、怒らせるようなことを言ったはずなのに、従兄は面白そうに笑って、自分と同じ目線までしゃがみ込み、頭をぽんぽん、と叩いてきた。
 その手をまた振り払い、夏侯惇はきっと睨んだ。
「おお、怖い怖い。何がそんなに気に喰わないのか知らないが、悪い目ではないな」
 年上である余裕を見せたいのか、従兄は一向に怒る気配はない。
 ますます夏侯惇は怒りに駆られ、どうにかしてこの従兄の大人ぶる面を外してやりたい、と考えた。
 悪童で、すでに大人の仲間入りのような顔をしている従兄を、何とかぎゃふんと言わせてやりたかった。
 それは子供じみた反抗心であり、対抗心であったのだが、夏侯惇は必死だった。
「阿瞞の瞞は、平凡という意味もあるぞ。お前がどれだけ凄い奴だか知らないが、そんな名を持つ奴など大したことはない」
「生憎だったな。俺は吉利などという縁起の良い名より、この阿瞞という名のほうが気に入っている。それに、今は孟徳、という字があるしな」
 字がある、というのは、成人として認められている、ということだ。
 夏侯惇や曹操という名は、『夏侯(曹)』が姓で、『惇(操)』が名である。名は忌み名であり、親しい者しか呼べないものだ。代わりに、一人前と認められるとき、『字』と呼ばれるものが付けられる。
 すなわち、字がないものは幼名で呼ばれ、未だに社会に認められていない、ということなのだ。事実、夏侯惇や夏侯淵にはまだ字はない。
 もっとも、字とて、年下の者や親しくない者は呼ぶことも出来ないものだ。
 そんなことを得意げに言う従兄が、もう本当に憎らしくて、夏侯惇は喚くように言った。
「そんな字を持つ奴が、毎日毎日遊んでいていいのか! おじさんのこと、曹嵩様に言いつけるぞ!」
 不意に、それまで笑顔だった従兄の顔が、一変した。
「ほお、告げ口とは男らしくないな。お前のその目に相応しくない。それに、俺がただ遊んでいるように見えるとは、やはりお前もそこら辺の人間と変わらんな」
 低い声が底冷えするように冷たい。
 反射的に後退ろうとして、後ろに夏侯淵がいることを思い出し、何とか踏みとどまる。夏侯淵は従兄の様変わりに怯えたようで、夏侯惇の袖をぎゅっと掴んでいた。
 しかし怖いのは夏侯惇も同じで、夏侯淵が居なければもうとっくに逃げ出しているところだ。
「あ、遊んでないんだとしたら、何をしているんだ!」
 声が震えてはいたが、そう言い返せたのは、子供ゆえの無謀さとも言えた。
「それをお前に教えて何になる」
 低い声のまま、従兄は聞き返す。
 意味を持って返した言葉ではない。聞かれても返答に窮すのだが、夏侯惇の口は勝手に動いていた。
「いいから教えろ!」
「お前、本当に生意気だな。まあ、特別に教えてやってもいい。お前に理解できるのなら、だがな」
 鼻で笑って、従兄はその形の良い唇を夏侯惇の耳へ近付けた。
 こんなときだというのに、近寄ってくる従兄の体から焚き込められたらしい、香の華やかな香りが漂ってきて、少年の目覚めきっていない何かをざわつかせた。
「天を掴もうと思っている。今はその準備だ」
 囁かれたその意味が、夏侯惇には分からなかった。
(天を掴む? 何を言っているんだ、こいつ)
 よほど訝しげな顔になったのだろう。険しかった従兄の顔が、破顔した。
「あっはっは、やはり意味が分からぬか。まあ、十の餓鬼にムキになった俺も俺だがな」
 先ほどまで剣呑であったはずの従兄は、今度は可笑しそうに笑っている。
 その感情の激しさに、夏侯惇はぼーっとしてしまうが、自分が馬鹿にされたことに気付き、咄嗟に叫んでいた。
「なら、なら俺は、お前のそれが本当に成せるのか、見届けてやる!」
 悔しかったのだ。
 従兄に蚊帳の外にされることが、我慢ならなかった。
「あっはっはっは……、お、お前、本当に生意気だ。俺がこのことを言って、本気でそう言ってきたのはお前が初めてだ」
 本当に可笑しいらしく、従兄は蹲ってひとしきり笑っていた。夏侯惇が膨れっ面になり、いい加減さっさと立ち去ってしまおうか、と思い始めた頃、ようやく従兄は顔を上げた。
 笑いすぎて涙が出たらしく、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、夏侯惇を覗き込んできた。
 その、微かに潤みを伴った眼差しに、夏侯惇は息を呑んだ。
 真剣な眼差しだったのだ。
「その言葉、偽りはないか?」
 尋ねた言葉も真摯に溢れていた。
 夏侯惇は思わず唾を飲み込んだ。
 もしかして、自分はとんでもないことを言ってしまったのではないか。そう思ったが、幼い心に芽生えた自尊心は、首を横に振ることをさせなかった。
「当たり前だ。俺はお前の成すことを見届けてやる」
「そうか、分かった。なら、約束だな、夏侯惇よ」
 にやり、と笑った従兄の顔は、また初めの頃の年下の従弟に向けられるような、余裕を持った大人の顔で、もしかして自分は担がれたのか、とも思った。
 だから、夏侯惇は思わず言っていた。
「約束なら、何か証をくれ」
「証だと? つまらぬものを欲しがるな。しかし、生憎と俺は物に縛られるのは嫌いでな。どちらかと言えば、言葉が好きだ」
「じゃ、じゃあ、俺はお前のことを孟徳と呼ぶ。それを許してくれるなら、それを証としてくれ」
 なぜ、そんなことを口走ったのか、後から考えても分からなかった。だが、その途端に嬉しそうに笑った従兄の顔を見て、自分の選択が間違っていなかったことを知った。
「悪くない。いや、それどころか面白い証だ。いいだろう。特別だ、年下の生意気な従弟よ。俺を孟徳と呼ぶがいい」
 そう言って、艶やかに笑った従兄の顔を見上げて、やはり嫌いだ、と強く思った気持ちとは別に、胸の奥が熱くなった意味に、彼が気付くのはだいぶ後になってからだった。


   *****


「孟徳!」
 後ろから自分の字を呼ぶ大音声が聞こえ、曹操は肩を竦めた。
(もう見つけおったか。早いの)
 聞き慣れた声を耳にした時点で、曹操は諦めた。そこへ、大袈裟なぐらいの怒りの籠もった足音が近寄ってきて、背後で止まった。
「良く分かったな、惇」
 振り返り、少しだけ目線を下げて、曹操の座る岩の下でこちらを見上げている男に言った。
 曹操を呼んだ男は、ぎろり、と威圧ある両眼で見上げ、不機嫌そうに言った。
「良くも毎度毎度、大事な軍議の前になるといなくなるものだ」
 低い芯のある声が、岩の上に座っていた曹操がそこから降りるのを待って注がれた。慣れていない者が聞けば、少しばかり怖くなる声も、曹操にとっては馴染み深いものだ。
「昔は、甲高い声で喚いていたものじゃが……。それにわしよりでかくなりおって」
 岩から降りたことで、目線が昔からの視点から、今の少し見上げる視線へと変わる。思わず、ぼそっと曹操は呟く。
「何か言ったか、孟徳?」
 昔馴染みの従弟――夏侯惇の機嫌は一向に良くなる気配はなく、怒気の含まれた声音は低くなる一方だ。
「少し、考えたいことがあって、一人になりたかったのだ。お主たちがいちいち騒ぐから、毎度事が大袈裟になるのだろう」
 鬱陶しさを、眉を眉間に寄せることで表しつつ、曹操は反論する。
「事を大きくしたくないなら、一言断ってから出掛けるんだな。もしくは、お前が許チョの腹を一回りへこませたい、というなら話は別だがな」
 突然、ふらっといなくなった主を、汗を掻き掻き探しているだろう許チョの姿が目に浮かぶ。
「ふむ、なるほど。それは思い付かんかったな。それならやはり、一言断る必要はないのではないか?」
 曹操が親衛隊筆頭、典韋を張繍の裏切りのよって失ったのは、まだ今年の頭のことである。曹操を守るために壮絶な死を遂げた典韋の代わりに、親衛隊に任命されたのが、許チョであった。
 忠義心、武技は典韋と肩を並べてはいるが、いかんせん、敏捷さに欠ける体躯をしているのが、彼の唯一にして最大の弱点であった。実際は敏捷に動けないはずはないのだが(そうでなくては曹操の親衛は勤められない)、見た目、ということだ。
 それを克服できるならばと、曹操は半ば本気で言ったのだが、なぜか夏侯惇の額には青筋が浮かんだ。
 不味い、と長年染み付いた経験が曹操の両手を耳に当てさせた。
『も〜〜とく!!』
 案の定、宮殿の、それもかなり静かな場所であるため、小鳥たちがさえずり戯れていたが、夏侯惇の声でいっせいに飛び去ってしまった。
 そして、曹操は塞いだ手越しでも耳が痛くなった大声に、蹲るように体を縮めた。
「冗談だというのに、お主という奴は……」
 ぐわんぐわんする頭を軽く振りながら、曹操は文句を付ける。
「冗談に聞こえんのだ、お前のそれは」
(半分は本気だったからな)
 という心の声は押し込めて(そうでないと、先ほど以上の怒鳴り声が響くであろうことは、容易く想像がついた)、曹操は肩を竦めた。
「しかし、虎痴もまだまだよの。わしの居所がいざというときに掴めんとは、親衛隊として役目を果たしておらんぞ」
 辛口ではあるがもちろん、曹操は許チョをあだ名である「虎痴」と呼び、大事にしている。
「だから、お前が言うな、お前が!」
 吼える夏侯惇の堪忍袋が再び切れそうな気配がしたので、曹操はくるり、と踵を返した。
「さて、行くか。虎痴には議の間(会議室)に来るよう、伝令でも走らせておいてくれ」
 軽く手を上げて、指示を出す。わざとらしいほどの盛大なため息が背中越しに聞こえたが、当然曹操は無視をした。
 執政殿へ足早に向かえば、すぐ後ろを遅れて夏侯惇が追いかけてくる気配がする。歩みを緩めなくとも、夏侯惇はすぐさま追いついてきた。
「……虎痴には、駆け足で戻るように伝えろよ」
 それを見越してから、曹操は付け加えた。
「あまり許チョを苛めるな。あいつはまだ親衛隊に任命されて日が浅い。お前の自由奔放さに付いていかせるのは酷だぞ」
「なら、お前が面倒を見てやれ。こうして簡単にわしを見つけているのだ。適任だろう。コツでも教えてやれ」
「それはそうだが……」
 急に歯切れの悪くなる夏侯惇に、ちらっと曹操は視線を走らせた。半歩後ろを歩く夏侯惇は、何やら不満そうにしている。
「何か問題でもあるのか?」
「いや、別にないが」
 言葉のわりには、両目は三白眼で、不満を表す幼い頃の癖のままだった。
(変わらんな、生意気なところと、この癖は)
 内心で忍び笑いながら、とぼけて聞いてみる。
「問題がありそうだが?」
「……先に行っている」
 追求を免れたいのか、夏侯惇はそう言って曹操を追い抜かしてしまう。
「やれやれ、主を置いて行ってしまうとは、あやつも臣下としては失格だな」
 呆れて曹操は呟いて、よほど触れられたくなかったのか、と小首を傾げたのだった。

 軍議に集まったのは、荀ケ、郭嘉など軍師筆頭たちと、夏侯惇、夏侯淵、曹仁など曹操がもっとも信頼を寄せる従兄弟たちであり、将軍たち。
 そしてもう一人、ある意味でこの軍議の中心とも言える人物で、軍議が開かれる発端を作った男、劉備が席に付いていた。
「議題については、言うまでもなかろう」
 曹操の開口一番の言葉に、皆の首は縦に振られた。

 ――呂布の討伐である。
 前々から、いつかは討たねばならぬ男であった。それにも関わらず、四方に目を配らねばならない曹操にとっては、なかなかその機会が訪れなかった。
 ところが、呂布を客将として招き入れていた劉備が、呂布の裏切りに遭い、あまつさえその立場を逆転された上に、与えられていた城さえも奪われる、という散々な目にあった。一度は二人の仲を取り持ったこともあった曹操だったが、仲介も虚しく再び二人の関係は険悪になったようだ。
 頼るものが曹操しかいなかった劉備が駆け込んできたときに、曹操は今が「機」である、と感じた。
 己の勘を裏付けるため、荀ケや郭嘉に意見を求めれば、同じ答えが返ってきた。
 すなわち、
『呂布を討つのは今である』と。
 こうして、具体的な出兵の日程を組むための軍議が開かれる運びとなったわけである。
「抑えるべき点は二つだ」
 卓上には、下ヒを中心とした徐州の地図が広げられ、その脇には劉備と、そして曹操自身が集めた情報を元にした、呂布軍の有様が書かれた書簡がある。
 曹操はその書簡の、呂布の文字を指し、軽く叩いた。
「呂布の騎馬軍を自由にさせぬこと」
 呂布自身の武もさることながら、呂布が指揮する騎馬勢の精鋭さは、ここの面々だけでも語りつくせぬほどだ。
 それから曹操は呂布の文字から指を滑らせて、三つの名をとん、とん、とん、と叩く。
「もう一つは呂布に従う者……特に強靭さの目立つ張遼、高順の二人の将と、暴れ馬の手綱を握っている陳宮だ」
 呂布を抑え込めても、この三人がいれば戦況は覆される可能性は高い。
 目を眇め、曹操は広げられた地図をざっと眺め、順繰りと端から、黙して聞いていた人々を見つめた。
 夏侯淵や曹仁は、元よりあまり発言をしない。自分たちの出番は戦場である、と割り切っているため、曹操が決断するのを待っている。
「陳宮に関しては、心配は無用であると考えていいのでは?」
 曹操の伺うような視線を受け真っ先に口を開いたのは郭嘉だった。曹操は小さく顎を引き、先を促した。
 だが、郭嘉は少し肩を竦めた後、そのまま口を閉ざしてしまった。隣に座る荀ケが郭嘉に視線を走らせたが、促そうとはしなかった。
(はて)
 違和感を覚えて、曹操は内心で首を捻った。
 普段の軍議はこうだ。
 そもそも、曹操の頭の中では軍議が開かれる前に、一通りの形が出来上がっている。それを他の人間が引き出し、形作り、明確にした上で、さらに深くさせていく。
 そうして、曹操の考え方を浸透させ、なおかつ他人の色を混ぜることで違った色を生み出させる。
 その様は織物に良く似ていた。
 まず曹操という縦糸が走り、そこに他人という横糸が入って柄を生み出し、織物としての完成を見せる。
 両方なくては成り立たないものだった。
 そして、真っ先に横糸を走らせるのは、曹操に『己に近い存在』と言わしめた郭嘉か、『我が張子房』と言われた荀ケである。
 しかし今日に限っては、郭嘉は一言だけで終わり、荀ケも口を開こうとしない。
「どうした? 誰も意見はないか」
 沈黙が場を占めるので、曹操は小石を投じてみた。湖面に投げ込まれた石が、誰の心に波紋を生み出すのか、注意深く観察する。
 ちらり、と郭嘉と荀ケの視線が劉備に走った。
(そういうことか……)
 内心で苦笑いをした曹操だった。
 二人とも、劉備を意識して発言を控えていたのだ。恐らくは劉備の器量を測るためか、または負の感情からか。
 曹操が劉備を優遇するのをよろしくない、と考えている二人だ。そこで、劉備がどの程度の男なのか、この機会に測ろう、という魂胆だろう。
「劉備殿はどう思われますか」
 波紋は強引に劉備の下まで広げられたようで、荀ケが尋ねた。
 一瞬、なぜ自分に意見を求められたのか理解できなかったようで、劉備が小首を傾げた。
「貴方は、この中で一番呂布の傍に身を置いていた。そうなれば、呂布と陳宮を仲違いさせる方法など思い付くのでありませんか?」
 まるで、出来の悪い子に言い聞かせるように、一言一言を丁寧に語りかける荀ケだったが、やはり劉備は困ったように首を傾げた。
「まだお分かりになりませんか? つまり……」
 荀ケが呆れたように言い募ろうとしたが、それを遮って、劉備が口を開いた。
「いえ、意味は分かるのですが、それは私にする質問ではありませんよ、荀ケ殿」
 荀ケは眉をひそめた。
「それはもう答えが出ているのでしょう? ですから議論する部分ではありません。どうしても聞きたいのでしたら、曹操殿へお尋ねになったらよろしいかと」
 にやっと、曹操は唇を歪めてしまう。
 むっとしたように、荀ケと郭嘉の顔が不機嫌になった。
 事実、その通りだった。
 曹操の頭の中では、陳宮を抑え込むための手段は出来上がっており、そのためにすでに手も打ってある。
 荀ケと郭嘉は早々に気付いていたらしく、郭嘉はそれで先ほどのような発言をしたのだろうが。
 まさか劉備も気付いていたとは、二人にとっては予想外であったらしい。
 もっとも、曹操にとっても劉備の発言はなかなか虚を衝いたものではあった。だが、前々から感じていた、劉備の底の見えぬ部分を垣間見た気がして、楽しくなった。
「どうやらわしは、察しの良い者たちに恵まれているようだな」
 これ以上の無駄な議論を避けるために、曹操は口元を緩めたまま言った。
「陳宮は、陳珪親子が抑える手筈になっている。案ずることはないだろう」
 こくり、と劉備は首を縦に振ったので、どうやら策の内容までも承知だったようだ。
(ますます面白い)
 笑い出したくなる感情を抑えて、曹操は続けた。
「後は張遼、高順、そして呂布自身だ」
「陳宮さえ抑えてしまえば、その二人も脅威ではないでしょう。こういう策はいかがですか」
 先ほどの見苦しいやり取りを返上しようと、頭を切り替えたらしい荀ケが一つの策を掲げた。
 まず、小規模の軍勢で呂布の下へ行き、張遼と高順をおびき出す。ここであっさりと負けて見せて、油断をさせる。
 それを幾度か繰り返し、呂布自身が出向くほどではない、と印象付ける。その頃合いを見計らい、張遼、高順を本陣から遠く引き離すため、上手く撤退を図る。
 そうして呂布が孤立したところを、温存していた軍力で一気に叩く。
「――いかがでしょうか」
「ふむ……」
 荀ケの案に穴がないか。無理はないか、を曹操は頭の中で幾度も編み込んでは解き、考える。
「呂布は慢心の多い男。荀ケ殿の策、成功は容易いかと思われます」
 郭嘉も荀ケを推す。
 いつもなら、ここで大体は決定するのだが、曹操はふと思い付いて劉備を見つめた。
「お主からは何かあるか」
「私、ですか?」
 また、劉備の首が傾げられた。あからさまに困った顔まではしていないが、小さく笑っている顔は戸惑いを誤魔化すためのようにも見える。
「私からは特には……」
「お主の人を見る目はなかなかのものがある。今の策で無理があるようなら、忌憚なく申してよいぞ」
 劉備は今度こそ困ったように眉根を寄せて、一瞬ばかり宙に視線を彷徨わせた。
 荀ケと郭嘉が、不機嫌さを濃厚に表した。どうして劉備を認めるような発言ばかりするのか、理解に苦しむ、といった顔付きだ。
 それは将軍である夏侯淵や曹仁も同じだったようで、互いに目を見交わしていた。
 軍議の始まる直前に、息せき切って入ってきた許チョは、いつもと変わらずに曹操の後ろに立っていたが、それ以外の人間は誰もが戸惑いを隠せずにいた。
(と、そうでもない奴が一人おるな)
 曹操の横に席を置く、夏侯惇の顔が視界の隅に入る。いつもの厳つい顔は変わらず、ただ軍議の成り行きを見守っているようだった。
 二人のときはあれほどぞんざいな口調や態度になる夏侯惇も、他人の目があれば決して曹操の臣下である、という態度を崩さない。
 時にけじめの厳しさを可笑しく思ったり、または寂しく思ったりするのは、やはり曹操の中で夏侯惇は、いつまでたっても、自分の下から強く睨み付けてきた生意気な童であるからなのだろう。
 もちろん、それとは別に、頼るべき臣下であり、従弟である、という思いもあるのだが。
 生意気な従弟は、兄貴肌であるのか、分け隔てない態度が好ましく映るのか、とても人気があった。人望は一軍を預けるだけに収まらず、今では曹操の軍全体を統括するにも及んでいた。
「では、一つだけ言わせていただければ」
 ようやく、劉備は口を開いた。
「張遼と高順、この二人をあまり軽く見られないことです。猛将呂布に従っているだけの男たちではありません。おびき出し、油断させることは容易くないでしょう」
 ほっ、と曹操は息をこぼした。感嘆の息だった。
「ふむ、肝に銘じよう。ためになる意見であった」
 いえ、と劉備は言葉少なに首を横へ振った。
「ならば、先陣の選抜は容易ではないな」
 敵を油断させられるほどの駆け引きができ、慢心に陥ることもなく、敵を侮りもしない芯を持っていないとならないだろう。さらに、敵が陽動に引っ掛かるほどの名のある武将であること。
 必然的に選択の幅は狭まる。
 誰もが視線はある一点に集まった。
 しかし男は決して口を開かなかった。自分には発言権はあっても、決定権がないことを熟知しているし、でしゃばり過ぎることも知らない。
 その男の名を曹操は口にした。
「夏侯惇、行ってくれるか」
「御意」
 曹操の命に、短くも確かな返答で夏侯惇が声を発す。これには誰も反対の声が上がることはなく、後詰の編成も次々と決まっていった。



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