「危険か冒険か【RISK】〜ムチャぶり〜 前編」 曖昧な5つの言葉 より 曹操×劉備 |
胸元まで垂れている自慢の髯を、刃を片手に形を整えるために手入れをしている義弟を眺めながら、劉備は訊いてみた。 「なあ、雲長」 「なんですかな、兄者」 「雲長は、私を抱きたい、と思ったことあるか?」 じょりっと、自慢の美しい髯が切れる小気味良い音が関羽の手元から聞こえた。この世の終わりか、と思う野太い悲鳴が 「……あるのか」 それらを冷静に眺めていた劉備は、ぼそり、と呟く。 「あ……ありませぬ!!」 再び、家の屋根が吹き飛びそうな大音声が響く。赤ら顔がますます赤らみ、怒りなのか羞恥なのか分からないものに染まっている。 「じゃあなんでそんなに動揺してんの」 「兄者が馬鹿げたことを言い出したからでしょう!!」 「馬鹿げていない、私は真剣に訊いたんだ」 「なお問題です!!」 「なぜだ」 「義兄弟で、男同士で、抱くも抱かぬも……」 「あるだろう」 「ありませぬ〜〜!!」 「どういう時に、こう、ムラっとする」 「あること前提で話を進めないでくだされ!」 体力は無尽蔵にあるはずの関羽だが、あまりの劉備のムチャぶりに反論することで、精神、肉体ともにかなり追い詰められているらしい。座したままぜえぜえと肩で息を付いている関羽へにじり寄り、劉備は下から覗き込むようにして言う。 「なあ、雲長?」 「――っ」 目元が赤くなったのを、劉備は見逃さなかった。 これか、と瞬時に悟り、小さく笑みを浮かべる。義弟たちだけに見せる普段の笑顔ではなく、逃げ込む先を見つけるために使う、人の良さそうな、庇護欲をそそる少し儚げな笑みを唇に刷いて、言う。 「雲長……抱いて?」 ぐ、おぉ……、と獣の唸り声のようなものが関羽から聞こえ、ぎゃーー、と生涯、長い付き合いとなる劉備でさえ、金輪際聞いたことはこれ切りであった、という黄色い悲鳴を残し、義弟は劉備の前から走り去っていった。 残されたのは、ただの黒い塊となった関羽の髯だけだ。 「ふむ、なるほど、これか」 しかしなあ、雲長に効いてもあの男に効くかどうか。こればかりはやってみないと分からんな、と思案しつつ、一つ重大な欠点に気付き、眉を曇らせる。 「あの人、私と視線の高さが同じなんだよな。上目遣いとかやれるかな」 部屋の片隅に大事に仕舞ってある一張羅を取り出しつつ、今日、呼ばれている相手の姿形を思い出していた。 そもそも、私に曹操の暗殺を依頼してくること自体、ムチャぶりだと思う。 一張羅と同じ、劉備の持っている持ち物の中で一番高級な いやー、嫌味のような存在だね、この人。だから、董承殿に危険視されて、陛下から排除しよう、なんて言われて物騒な話になっちゃうんだ。しかも、董承殿は私を巻き込むし、えらい迷惑。 でも、実行しないとこっちの身が危ないし、まったく厄介極まりない。こんなことなら許都になんか留まっていないで、とっとと出奔すれば良かった。 すべて後の祭りであるが、劉備は頬杖を付いて曹操の話に相槌を打っていた。 「それで、その悲鳴は本当にあの関羽が上げたのか」 「ええ、そうです。私もあんな悲鳴聞いたの初めてですけどね」 「いったい何があったというのだ」 曹操の所有している梅が綺麗に映える庭の東屋で、二人は食事や酒に舌鼓を打っていた。迎えとして寄越された侍従から、劉備が実験台に、と迫ったせいで悲鳴を上げて逃げていった関羽のことを聞いた曹操は、先ほどからし切りにその理由を訊いてきた。 「曹操殿は、本当に雲長のことがお好きですねえ」 関羽の悲鳴の理由など説明する気のない劉備は、話題の矛先を変えてみる。 「うむ、あれほどの武人は中々出会えるものではない」 「あげませんよ」 「……誰も欲しいとは言っておらん」 目が言っていたよ。この人、時々すごーく分かりやすく顔に思っていること出すんだものなあ。実際、今すごい残念そうな顔をしたし。 「お主にはもう一人、傑物の弟がおるではないか」 「曹操殿にだって、たーくさん、優秀な武将がいるじゃないですか」 片目の怖い顔をした男とか、少し離れたところに立っている、ぼーっとした感じの男とか。 「私には雲長と翼徳しか居ないんですから、取らないで下さい」 「だから、欲しいとは」 「要らないんですか」 「欲しいぞ!」 「ほらやっぱり」 「劉備!」 あー、からかい甲斐のある人だ。くつくつ、と笑うと、頬を微かに染めた曹操が睨んでくる。片手に持っていた酒盃をぐいっと空けて、人が悪い、と文句を付ける。 「私は、雲長たちの武勇とこの口で今まで生きてきたものですから」 「そうやって人を煙に巻こうとして、その実、自分の考えていることを隠そうとしているところも、であろう」 「曹操殿の慧眼は何でもお見通しですね」 「わしの慧眼では、そんなお主が侮れぬ、と言っている。いずれ、袁紹や南の孫策や劉表、西の劉璋などとは比べ物にならないほど、名を馳せるのではないか、と考えている」 「へえ、それは凄いですね。じゃあ、私は貴方と肩を並べられるほどだと?」 頷く曹操を見つめて、これはまた買い被られたものだ、とそっと肩を竦める。そしてさらに言うなら、厄介なことになった。これでは男を油断させて命を奪うなど出来そうにないではないか。対等、と思っている相手に心を許すはずがない。 その時、遠くから春雷が聞こえてきた。 やっぱり、これは天が私にこの人を殺せ、という啓示か。そういうのは、信じないほうだったんだけども。天まで私にムチャぶりらしい。 ぶつぶつ思いながらも、劉備は一芝居を打つために、がたり、と派手に椅子から立ち上がって見せた。 「どうした」 当然、唐突な劉備の行動を訝しそうに見やった曹操へ、怯えた口調で訴える。 「その、今、雷の音が聞こえたような気がして……」 言うなり、ゴロゴロと天から音が降ってきた。ひっ、と頬を引き攣らせて劉備は頭を抱えて蹲る。 「何だ、お主は雷が苦手なのか」 「お、幼い頃、目の前で知り合いが雷に打たれて、もうそれ以来、音を聞くだけでこの有様で……」 「大の男がなんとまあ。大丈夫だ、ここにおれば打たれる心配はないぞ」 おかしそうにする曹操の言葉を無視して、劉備はますます体を丸めて小さくなる。ガタガタと震える様に、さすがに憐れさを覚えたらしく、曹操も劉備に近寄りしゃがみ込んだ。 「それほどまで恐ろしい、と言うのなら、家の中に入ろう。布団でも被っていれば平気であろう?」 こくこく、と頷く。途端、今度は先ほどより大きめの音が辺りに鳴り響く。曹操殿、と名を呼んで、縋り付く。曹操はそんな劉備の行動に驚いたらしいが、縋り付いた劉備の体を抱き寄せて、背中を撫でる。 「大丈夫、大丈夫だぞ」 恐らく、幼い頃に、まだ小さい従弟たちを相手に同じようなことをしていたのだろう。あやす手は慣れていて、劉備はその心地良さに演技を忘れかけてうっとりする。 「曹操殿……」 顔を上げて、囁くように名を呼ぶ。目元には、あらかじめ浮かべておいた涙が膨らんでいる。劉備、と返された声は戸惑いと、何かの期待が滲んでいた。関羽に仕掛けた実験のときよりも哀憫さを強めて、懇願する。 「雷など忘れさせてくれませんか」 蹲る劉備と膝を折っているだけの曹操との身長差は、見事上目遣いの射程内だ。今まで意識して人を誘ったことはないものの、こんな感じでこの人は堕ちてくれるのだろうか、と思いつつも、じっと見つめる。 劉備の視線を受け止めている曹操の双眸が眇められた。声に滲んでいた期待が、目に宿っている。 どうやら成功らしい、とほくそ笑む。 曹操の形の良い唇が寄せられて、浮かんでいた涙を吸っていった。唇はこめかみへ滑り、耳朶に微かに触れた。 良いだろう、と低い声は、また激しく鳴り響いた雷鳴の合間を縫って、劉備の耳孔へと届いた。 人払いをした曹操の部屋に通されると、即座に寝台へと押し倒された。 せっかちな男だ、とも思ったが、自分が雷の存在を忘れさせて欲しい、と頼んだのだから当然か、と思い直す。 屋敷内はそれなりに飾り付けられていたが、曹操の完全な私室は実に味気ないほど質素だ。ただとにかくたくさんの書簡が積まれていて、今も寝台の脇には読みかけの書簡が置かれていた。 「何やら上の空だの、劉備」 「ああ、いえ。これだけ書物に囲まれていると、夜は簡単に寝られそうだ、と思いまして」 圧し掛かってきた曹操に頬を撫でられながら、惚けて答える。部屋の配置や出入り口、窓の状態をさり気無く確かめていたのだが、曹操に不審に思われたらしい。 「お主は読まぬのか」 「雲長は読め読め、とうるさいのですが、どうにも不思議なことで、書簡を開いて半分も読めれば良いほうで、気が付くと朝ですね」 真顔で言うと、曹操はくすくすと楽しそうに笑う。お主らしいことだ、と言いながらも、 「それでも、少しは読んでおいたほうが良いと思うぞ」 と勧める。 「曹操殿は先ほどから私を買い被りすぎです。私が書物など読んでもどうにもならない」 頬の手は滑り、首筋や、人より大きい耳朶を指先に挟んでみたりと、愛撫に忙しいが、語りかける曹操の口調はゆったりとしていた。 「そうかの? お主がこの先、関羽や張飛といった武人だけで物足りなくなったとき、きっと書物を読んでいたほうが良かった、と思うときが来る」 「そうでしょうか」 指が耳朶だけでなく、耳殻も撫で、耳裏を刺激する。ぴくり、と肩が震えると、曹操はまた笑う。 「さて、今のは感じたのか、雷のせいか?」 屋内に入り、音自体は遠のいたが、まだはっきりと二人の耳には雷鳴が聞こえる。からかう曹操の首に腕をかけ、引き寄せて囁く。 「どちらのせいか、確かめてください」 そうだな、と曹操は劉備の唇を塞ぐ。しっとりと濡れている唇からは、先ほどまで二人が飲んでいた酒の香りが漂ってきた。 唇はすぐに貪るような真似はせず、まるで焦らすように幾度も啄ばみ、劉備から開くのを待っているかのようだ。 女相手ならともかく、男相手に長々と抱かれる趣味は生憎と劉備は持ち合わせていない。薄く唇を開いて曹操を誘い込む。 するり、と舌が入り込んできた。迎えて、絡ませる。ぞくり、とくすぐったさと心地よさが絡み合った甘さが首の後ろで生まれた。 これなら大丈夫か。 口寄せをされて気持ち悪くなければ、あとはもう平気だ。安心して曹操の首に回した腕に力を込めた。 男に抱かれるのは初めてではない。劉備から好んで誘ったことは一度もないが、相手が劉備を求めてくることは幾度かあった。 気分次第ではそのまま許したが、今のように口寄せられたときに気持ち良くなった相手だけだ。それ以外は問答無用で殴り付けた。 だってさ、繋がることって気持ちいいことじゃないか。気持ち悪かったら嫌だ。 その点では、曹操はまったく問題ない。 問題ないどころか。 「ぅん……、んっ、ふ」 上顎や舌裏など、鋭敏な箇所を見逃さずに愛撫してくる舌は巧みで、劉備が経験した今までの中で一番上手い。勝手に唇の端から感じていることの分かる濡れた吐息がこぼれてしまう。 ああ、やばい。目的忘れそう。 絡み合う舌は蕩けるような官能を劉備に与えてくれる。唾液を啜られ、舌を強く吸われると、じんじんと身体の芯が疼いてきた。 唇が微かに浮き、隙間が生まれると、知らずとあえかな息がこぼれてしまった。曹操が小さく笑う。笑った息が唇にかかり、またじん、と身体の奥が痺れる。 「お主、何という顔で男を見るのだ。男に抱かれるのに、慣れておるな」 確かに、今までも劉備がその気になって許した相手は、まるで溺れるように劉備に夢中になった。それほどの魅力が、抱かれる対象としての魅力が自分に備わっているのか、劉備は真剣に考えたことはなかった。 |
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