「意志か意地か【WILL】〜我慢の限界〜 前編」 曖昧な5つの言葉 より 趙雲×劉備 |
「ちょ……こら、待て、待てと言ってるだろうが!」 劉備は先ほどまでの失望感も忘れて、やや焦り気味に男の体を押し退けようとするが、背中に回された腕は緩む気配もなく、それどころかますます強く抱き締められて、じん、と胸が熱くなる。 ……って、だから熱くなっている場合じゃないっちゅうーの! 「おい、子龍……っ、こら、だからやめろ、というのに」 男にとっては絶対であろうはずの主君からの命令に、しかしやはり腕の拘束は固まり、劉備の身体を男の肢体へと密着させた。劉備より男のほうが上背があり、腕の中に閉じ込められれば自然と首を仰向かせて男を睨まなくてはならない。 「子龍……!」 語気を強めて叱るが、男の武将らしい精悍な相貌はぴくりとも反応しない。それどころか、普段は敵陣へ向けられる強い意思を宿した眼差しは、不穏な光を宿して劉備を見下ろしている。 いや、不穏ではない。本当はこれを劉備は待っていたはずだ。待って、待ち続けて、待ちくたびれてこちらから仕掛けようとしたほどだが、いざこうなってしまうと焦る。 というよりも―― 「あまり大声を出されると、皆が何事か、と思い集まってきます。よろしいのですか」 淡々と告げられて、男の強い 「だから、やめろ、と言っているだろう」 今の状況が分かっているのか、こいつは、と憎々しげに思う。 男の肩越しには眩しいほどの青空が広がっており、遠くからは馬蹄が響いていた。 今、この男、趙雲の軍は演習を行っている真っ最中だ。だのに、それを率いるはずの男と、主君である劉備は人気の無い茂みで抱き合っている。 このような状況でなければ、まさに望んでいた通りだというのに、どうしてこの男はこうも唐突なのだ、と劉備はひたすら恨めしく思う。 趙雲の顔が下り、微かにかさ付いた唇が耳朶を含む。んっ……と思わず身が竦み、声が漏れる。唇は耳朶を強く食み、吸い付く。 ぞくり、と首筋が焦げる。馴染み深い、甘い誘惑だ。くらり、と視界が揺れるが、状況を忘れたわけではない。 「こんな、ところで、お前は……っ」 事を成そうというのか、と続く声は、重なった唇に吸われてしまった。 嗚呼、まったくどうしてこうなったのだ、と劉備は事の発端を思い出していた。 * * * * * じれったいのだ、と愚痴をぶちまけたのは、劉備がもっとも気の置けない相手であり、古馴染みの、簡雍に対してだった。 「じれったい、ねえ〜」 悪友の愚痴を受けて、簡雍は小首を傾げて、酒盃に残っていた酒を呷った。 「もうこっちへ戻ってきて幾日経つと思っている。もう七日だ、七日だぞ?」 空になった酒盃にまた酒を手酌で注ぎながら、簡雍は「へえ、もうそんなに経ったのか」と他人事のような相槌だ。 「翼徳のように、ずっと私と一緒だったわけではないのだ。遠征でようやく戻ってきて、久しぶりに会って、それから七日も経っているのだぞ、おかしいと思わんのか!」 「おかしいっていうか、それは人それぞれだし」 簡雍は酒が入ると至極まっとうな意見を述べる常識人と化すものだから、そのときの発言も理に適ってはいた。 劉備と張飛は、視察と軍の演習を兼ねて成都の近郊を長期に渡って遠征し、つい先日――七日前に成都へと戻ってきた。演習と言いつつも、実際にしていたのはほとんど張飛で、劉備などは気晴らしの旅行のようなもので、久しぶりに兄弟水入らずの時間を思う存分楽しんでいた。 もちろん、戻ってきてからは視察に行ったからには報告書を上げていただきます、との諸葛亮の澄ました顔にぶつぶつ文句を付けながら仕上げたり、事後処理でそれなりに煩雑ではあったが、暇がなかったわけではない。 事実、今もこうして成都の城下で馴染みの酒家へ入り浸って、簡雍に愚痴をこぼせるぐらいの暇はある。 もっとも、城へ戻ったら諸葛亮の小言が待っていることは間違いない。 「お互いやりたい盛りでもないんだし、特にあいつの場合、本能よりも理性が 「何かって何だ」 「そりゃ、本人に訊かねえと分からねえ」 これまた至極もっともな意見だ。 「趙雲は無駄な行動もないし、第一、理由も無くお前を避けるなんぞ、しないだろう? その辺り、お前のほうが良く分かってないとさあ、仮にも乳繰り合っている仲なわけだし」 「明け透けに言うな!」 卓の下で思い切り簡雍の脛を蹴り上げようとしたが、上手くかわされた。悔しくて、くっ、と声を漏らすと、はは、と笑われる。 「その歳で照れても気持ち悪いだけだって。初心な娘っこじゃあるまいし、ほんとお前って、趙雲のことになるとぐだぐだだな」 簡雍は唯一、劉備と趙雲が体を重ねる関係だと知っている人間で、だからこそ趙雲絡みの相談はつい簡雍にしてしまう。 「言うな!」 自覚があるだけに反論は出来ない。せいぜい声を荒げてヤケクソの様に酒を煽るだけだ。頬が熱いのは酒のせいではなかった。 「良く分からんのだ。ただひたすら忠義の塊で、私のことを大事な主君と敬い、己の武を惜しみなく注いでくれていることに疑ったことはないが、ただ、どうもその辺りになるとさっぱり読めなくてな」 「下手に理性が上回っているし、表情読めないもんな。違う意味で色恋に鈍いから厄介だし」 そうなのだ、と劉備は大きく頷く。 奥手でもなく、押してくるときは存分に押してくるくせに、微妙な空気というか、甘い雰囲気に誘おうとしても、まったく気付かなかったり、自己完結して終わっていたりと、互いの気持ちを知るまでも長かったが、想いが通じ合ってからもこうしてやきもきすることが多い。 むしろ、通じ合ってからのほうが厄介ごとが多いかもしれない。 「明日、趙雲は演習に行くんだろう。一緒に行ってくればいいじゃねえか。少し二人きりになる時間でも出来れば、案外我慢していて、二人きりになった途端に向こうから襲ってくるかも知れねえぜ」 さもなきゃ、むしろ玄徳から襲ってやれ、と酔っ払いは好き勝手なことを言う。 「あやつが襲ってくるなどと、想像もつかんが……まあ、二人きりになれば少しは進展があるか」 独り言ちつつ、明日、いかにして諸葛亮の目を盗んで出かけるかの算段を組み始めた。 ちゃっかり調練に混じっていた劉備を、趙雲は「軍師殿の心労がまた増えました」と冷静な言葉を発したものの、追い返そうとはせず、ただし私の横に居てください、と身の安全を勧めただけだった。 調練は順調に行われ、いつ見ても趙雲の軍は一種芸術まがいなほどに規律が取れていて美しかった。残りは副官に任せても問題ないところまで到達すると、劉備は「少し良いか」と声をかけた。 厳しい目で軍全体を見つめていた趙雲は、ちらり、と劉備を見やって、小さく頷いた。副官を呼んで「いつもの手順で」と声を掛けると、自分の白馬と劉備の しばらく、馬の足音と趙雲の着ている鎧がぶつかり合う、無機質な音が続き、軍影が遠くになり木立の中に分け入り姿が完全に見えなくなると、乗りづらくなってきた、ということもあり、二人は馬を下りた。 近くに小川が流れていたらしく、そこまで手綱を引いて馬を休ませると、小川の水や草を食みながら、的盧と趙雲の馬は仲良さそうに身を寄せ合っている。ただ最近気付いたのだが、どうやら的盧が一方的に白馬を気に入っているようで、今も鼻面を白馬へ押し付けていた。 「……馬は主に似るというが、本当だな」 思わず呟くと、ここまで黙って従っていた趙雲の首が微かに傾げられた。しかしやはり何も言わない。とかくこの男は、必要が無ければ口を開かないから仕方がないものの、自分と趙雲のことを暗に言ってみても通じなかったようで、ほぼ無反応だ。 木の根元に座り込んで、ぼんやりと馬たちを眺めながら、劉備は頬杖を付く。劉備を守るように趙雲はその脇に佇んでいる。 「子龍さ、何かこう、ないか」 「何か、とは」 「何かって何かだよ」 「……特には」 少し考えた素振りはあったものの、首を横へ振った。 「私が、どうしてお前の調練に混ざってきたのか、とか」 「政務がお嫌になったからでしょう」 それもあるが、今日は言わない。 「違う」 「……軍師殿をからかいたかったのですか」 それもあるけども、やはり言わない。 「違う」 「……さて、私には分かりかねます」 鈍い、ああ、鈍い! 「子龍さあ、私が遠征から戻ってきて、幾日経ったと思っているんだ」 「八日でしょうか」 即答できるくせに、何もないのか。 ちらり、と男を見上げる。男の視線は馬たちに注がれていた。その横顔は出会った頃と変わらず整っていて、やはり劉備の胸は高鳴るのだ。むしろ、本当に簡雍の言うように襲ってやりたくもなるし、普段の物言いと同じように「じゃあ、抱きたい、とか言ってみろ」と単刀直入に口にしてみたくもなる。 「……」 だが、やはり言えないのだ。 ぐだぐだなあ、私は。 乙女か。 思わず自分つっこみである。 イイ歳したおっさんが臣下を捕まえて迫るのも、やっぱりなあ、と言い訳してみても、やはり虚しかった。 はあ、と小さくため息を吐いて、戻る、と告げる。分かりました、と趙雲は淡々と答えただけで、どうして二人きりになりたかったのか察せないのか気にしないのか。疑問も差し挟まない。 「的盧」 立ち上がった劉備が呼ぶと、白馬に構っていた的盧は名残惜しげな様子を見せたが、大人しく劉備へと歩み寄ってくる。思わず自分の姿を重ね合わせて、鼻面を撫でる。 「お前も私に似てしまい、苦労しているな。お前ぐらいは頑張って欲しいものだ」 愛しくなって抱き付くように甘えると、劉備様もそんなこと言わずに、とばかりにぐいっと鼻を押し付けて慰めてくれる的盧に、思わず笑顔になった。 「――っ?」 不意に後ろから強く腕を引かれて、堅い物に顔と体を押し付けられて、身動きが取れなくなった。 ――で、冒頭に戻るわけだが。 丁寧に事の発端の前から思い出してみたものの、やはり現状の把握には役に立たなかったようで、趙雲の唇が重なってきたことでさらに焦りは募った。 「んっ……ぅん」 顔を背けて唇から逃れたが、追いかけるように唇は再び塞いでくる。性急ささえ覚えるほど舌が勢い良く挿し込まれて、求めてきた。 こんなところで嫌だ、と言っているだろうが。 半ば怒りも滲んできて、挿し込まれてきた舌から逃げを打つ。再び顔を背けて離れようとしたが、顎を掴まれて阻まれた。 男にいい様にされているのが、劉備の矜持を多少なりとも傷付ける。堅い鎧に覆われている趙雲の両肩を叩き、押しやろうとする。 「ふっ……うくっ」 唇を塞がれて、息もまともにつけない状況での抵抗は骨が折れる。そもそも、男の舌が口内にあるせいで歯も食い縛れないのでは、上手く力も入れられず、抗うことは難しかった。 顎を掴んでいる手とは反対の手はしっかりと腰に回されて、男の高い体温を鎧から剥き出しになっている衣の部分から伝わり、感じる。 睨み付けているものの近過ぎてはっきりと焦点が合わないが、男が激しく劉備を求めているのだけは分かる。 確かに私はこれを望んでいたが、だからどうして今で、これほど唐突なのだ。 「ぁ、ほう……!」 唇の隙間から悪態をつく。 劉備の舌を追うことは諦めたらしく、唇は離れ、代わりに頬や瞼、眉間などへと落としてきた。その間も劉備は趙雲の体を押しやろうとするのだが、元からの地力の違いからか、認めたくはないが振りほどけない。 もう一度、肉厚の耳朶を甘く噛まれると、首筋に甘い疼きが生まれて呻きにも似た喘ぎがこぼれてしまう。かぁ、と頬が熱くなる。 こうなることを望んでいて、事実そうなったというのに必死で抵抗して、だのにやはり抗い切れず、感じてしまう。 もう、本当に私は……駄目だ。 自分で自分に呆れる。 舌で耳朶を掬われて、耳殻をかり、と噛まれた。声が、溢れそうだ。吐き出す息が濡れて、甘い声で男の名を呼びたくなる。 また、強く抱き寄せられた。唇が首筋に埋まり、衿に隠れている肌へと吸い付かれる。身体が大仰なほどに震えた。 ああ、どうしようか。 もうこのままいっそ、男に貪られたい、と強い誘惑に心が震える。欲しくて、肩を押しやっていた腕を伸びた首に絡げて引き寄せて、唇を合わせたい。 男の身を包んでいる鎧がひどく邪魔に思えた。 「子龍……鎧」 最後の、抵抗だった。 まだ演習中であるなら、趙雲の性格だ。鎧を脱ぐことをためらうはずで、それならそれに乗じて終わりに出来る。もしも劉備の言う意味を汲んで脱ごうとしたのなら、抗うことはもうしない。 どちらが良いかなど、自分の中で当に答えは出ているというのに、最後の一押しを男に託そうとした。 「脱げません」 落胆が劉備を包む。再びの失望は大きく劉備を襲い、裏切られた、とありもしない憎しみすら湧いてしまう。 |
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