「宣戦布告」 劉禅編 劉禅×劉備 未満 |
劉備が久々に戻ってきた。すっかり劉禅の育ての母となった孫夫人をはじめ、家を守っていた侍従、侍女は全員顔を揃えて父を出迎えた。もちろん、劉禅は孫夫人に手を引かれて、その最前列に立っていた。 「ただいま戻ったよ、尚香、禅」 にこり、と微笑む父に、思わず孫夫人の腰にしがみ付いて半身を隠す。あら、どうしたの、と孫夫人が笑う。なぜだかひどく照れ臭くて、父の笑顔が眩しくて、まともに顔を見られなかったのだ。 お帰りなさい、玄徳様。 嫁いできたばかりのときは、独り身であったときの溌剌さで周りを少しばかり辟易させていた孫夫人も、血は繋がらないとはいえ、劉禅という息子を育て、夫となる劉備を立て、家を守ることを経て、すっかり落ち着いてきた。 挨拶をするための姿勢も、ふわり、と色香が漂うようで愛らしくもしとやかだ。そんな夫人の様子に目を細めつつ、劉備はもう一度劉禅に笑いかけたが、ますます夫人にしがみ付き、父の視線から逃れた。 「はは、長い間居なかったから、父の顔を忘れてしまったか」 まさか。 大好きな父の顔を忘れるなどと、あるはずがない! 遠征に行っていた父が戻ってくる、と夫人から聞かされて、指折り数えて待っていたのだ。逢えて嬉しいことはあっても、忘れることなどあるはずがない。 ぽん、と頭に軽く手が添えられた。 義理の兄である劉封だ。真面目な顔をしてこちらを見下ろしている。兄は劉備と共に遠征へ旅立っていた。 「お、お帰りなさい、兄上」 「ただいま、禅」 真面目な顔のまま劉封は、夫人の衣を握る劉禅の指を解き抱き上げて、すとん、とそのまま劉備の前に降ろした。あわわ、と焦る背中を兄の大きな手が軽く押した。それだけで、動こうとしなかった足が前に踏み出され、父の下へ駆け寄れた。 「父上」 「禅、ただいま」 よいしょ、と劉備は劉禅の脇を掬って、抱き上げた。 「お帰りなさい、父上」 ようやく言いたかった言葉を口にすることができた。また、大きくなったな、重いぞ、と劉備が言って、それが嬉しくてたまらなくて抱き付いた。 「あっはっはっ、急に甘え始めたな。ようやく父の顔を思い出したか」 からかう父の声に気恥ずかしさを覚えながら、肩越しに兄の顔を見つけた。今度は、にこり、と笑ってくれた。劉禅もありがとうございます、兄上、と声に出さずに伝えて笑い返した。 遠征は大きな成果を上げたらしく、父の顔も兄の顔も満足そうだった。近々、城できちんと祝賀会を開く予定だという。すっかりくつろいで酒も飲んでいる劉備の顔は赤く、しきりに楽しそうに笑っている。 孫夫人の酌で次々と酒盃を空にする劉備は、珍しくも饒舌だ。あまり父と接する時間のない劉禅だったが、劉備がこれほど話しているところを見るのは初めてだ。反対に、いつもは闊達な兄、劉封のほうが言葉少なだった。 血は繋がらないが自分にとても優しくしてくれるし、不思議と劉禅の考えていることが分かるらしく、気遣ってくれる。父と同じく大好きな兄であったが、食事が進むにつれ、どこか暗くなっていた。 「兄上、どこか痛いのですか? 戦で怪我でもされた?」 父が母と、母の故郷のことで少しだけ難しい話を始めて良く分からなくなったので、同じく話に混じらず、一人で酒を飲んでいる兄の隣へ膝を詰めて尋ねた。 「いや、怪我はしなかったぞ。どうしてそんなことを聞く?」 小さく笑って劉禅を見つめた兄の目元は、酒に酔っているのか赤い。 「なんだか元気がないみたいだったのですけど」 もしかして、戦で活躍できなかったのだろうか。難しいことは分からないが、兄と父は本当の親子ではないから、自分が生まれたことで立場が危ない、とか。だから戦で活躍しておかないといけない、とか。大人たちがこそこそと話しているのを聞いたことがある。 立場とか、血が繋がっていないからとか。それだけで父が兄を嫌ったりすることはないとは思う。 「元気がないわけじゃないさ。ただ、少しな」 「少し?」 兄の目が一瞬だけ父に向けられた。悲しそうな目に見えて、劉禅は胸が痛んだ。 やはり戦で思うように活躍できず、劉備に嫌われる、と心配しているのだろうか。 「父上は、兄上のことが好きですよ?」 だから心配しなくとも大丈夫です、と言いたかったのだが、なぜか劉封は驚いたらしく、ぽかーん、と口を開けて歳の離れた義理の弟の顔を見つめてきた。 「兄上が戦で活躍できなくとも、父上は兄上のことを嫌ったりいたしません」 力強く励ましたのだが、劉封は呆けた顔のまましばらく固まっていて、劉禅を不安にさせた。 「あの、もし私の言葉でも元気になれないなら、父上に訊いてきます!」 ぴょこん、と立ち上がり、劉備のところへ駆け寄ろうとした劉禅だったが、袖を掴まれて引き戻された。 「大丈夫だ、大丈夫! ありがとう、禅。大丈夫だから」 今度はひどく慌てている。先ほどまで目元にしかなかった赤みが頬まで染めている。 「禅は恐いもの知らずだな。いや、正直者なのか?」 「なにがです?」 「ごめんな」 「なぜ謝るのです?」 「心配かけたみたいだからだ」 引っ張られたせいで兄の腕の中に閉じ込められた格好になり、腕の中から劉封を見上げる。精悍さで整った頬が綻んでいる。そこには先ほどまでの暗さはなく、いつもの見知った兄の顔があった。 「緊張、していただけだから」 「緊張?」 「少し、な。……それに、俺はちゃんと戦で活躍したぞ?」 「本当ですか?」 「それこそ、父上に訊いてみるといい」 「分かりました」 腕から抜け出して、劉備の下へ歩む。もう話は留守の間のことに移っていて、近寄ってきた劉禅に劉備は目を向けてくれた。どうした、と尋ねてきた父へ、兄の活躍の話や、遠征中の話をせがんでみた。 いいぞ、と劉備は快諾し、目を細めた。 劉備からたっぷりと遠征中の話を聞けて満足した劉禅だったが、父の傍を離れがたく膝の上に乗っていた。父が笑うたびにその振動が伝わってきて、なんだか堪らなく嬉しくてこそばゆかった。父の声がたくさん聞けるのは嬉しかったが、さすがに夜も遅くなると瞼が重くなってきた。 なにせここ数日は劉備が戻ってくる、という期待で興奮し、夜もあまり眠ることが出来なかったのだ。眠気は限界を迎えていた。 こくり、と頭が振れると、そっと劉備の手が伸びて支えてくれた。 「もう、寝るか、禅」 「……いや、です」 その声ではっとした。劉備と一緒に居られる時間が減ってしまう、と慌てて姿勢を正したが、長くは続かない。またすぐに舟をこぎ始め、劉禅の頭の上で劉備と夫人の目線が交わされた。 「さあ、禅、もう寝ましょうか」 夫人が劉備の膝の上から劉禅を下ろす。 「んー、いや……で」 嫌です、と続く言葉も欠伸で途切れる。抱えられて、柔らかく温かい腕に支えられるともう限界だった。そこからの意識はなかった。 ぱちり、と目が覚めた。まだ夜は明けておらず、視界は真っ暗だ。もそり、と身じろぎして起き上がる。厠へ行きたかった。裸足でぺたり、と床に降り立ち部屋を出ようとすると、隣で寝ていた夫人が気付いたらしい。 「禅?」 「おしっこ」 「一人で行ける?」 「はい」 短く言葉を交わして部屋を出る。ほぼ荊州を掌握したとはいえ、劉備の城はまだ小さかった。住み慣れた劉禅にとっては明かりがなくとも迷わず辿り着けるし、闇夜の恐怖すら感じない距離だ。 無事に厠で用を足すことの出来た劉禅は、眠気が飛んだこともあり、家族で食事をしていた部屋を覗いてみた。眠気に負けて、劉備に挨拶もせずに寝てしまったのが悔しかったのだ。まだ起きていれば、挨拶をして、もし良ければそのまま父の傍で寝てしまおうか、と考えた。 しかし、部屋は片付けもすんだのか綺麗に整えられていて、劉備の姿はなかった。寝所だろうか、と足を伸ばす。父が居る部屋の前には、さすがに衛兵が立っているだろう。通してくれるだろうか、と心配したが、なぜか兵士の姿はなかった。 父上、入ってもよろしいですか、と扉の外から声をかけようとしたが、良く考えればもう寝ているかもしれない。それを起こしてしまったらいけないだろう、と考え直し、逡巡した。 迷った末に、そっと中を覗いて寝ていれば引き返し、起きていれば声をかけてみよう、と結論を出し、扉をゆっくりと、細く開けた。無性に胸がどきどきした。どこかでいけないことをしている、という気持ちがあったのかもしれないし、秘密のことをしている、という興奮も混じっていたのだろう。 片目だけを覗ける、ごくごく僅かな隙間が生まれた。屈み込んで、目を押し当てる。 闇に慣れていた目だったが、部屋の中は真っ暗で月や星の明かりも届かないせいで、すぐに見通せない。しかし、暗いということはもう寝てしまっている、ということだろう。劉禅はがっかりしてその場を離れようとしたが、父の声が聞こえて動きを止めた。 「こら……っもう少し、加減を……ぅ」 まだ起きていたのか、と嬉しくなって声をかけるために息を吸ったが、それは音になる前に劉禅の咽で詰まった。 「……っ――」 続いて聞こえてきた劉備の声に、心臓がどくり、と跳ねたのだ。聞いたことのない、劉備の声だ。聞いているこちらが落ち着かなくなるような、胸の奥がざわざわするような声で、劉禅はしゃがんだ姿勢から戻れなくなる。 「ん……っだ、から」 叱るような語調だが、やはり滲んでいる響きは知らない父の声だ。こっそり扉を開けようとしていた時とは比べ物にならないほど、心臓がどきどきと音を立てている。抱えた膝小僧にその振動が伝わり、部屋の中の父にも伝わってしまうのではないか、とさえ思う。 「――っひ」 悲鳴にも聞こえる声が劉禅の鼓膜を震わせて、頭の中を掻き混ぜて、心臓をぎゅうぎゅうに締め付けた。咽がカラカラに渇いてきた。無意識に咽を上下させて唾を飲み込んだが、あまりに暴れる心臓にこめかみが痛い。 これはいったい何なのだろう。 分からない、良く分からない。 世の中には良く分からないことが多くて、劉禅は良く周りの人間に「あれはどうしてなの」「これはどういうことなの」「どうしてそうなるの」としつこく訊き回っていた。大人たちは暇なときは劉禅の疑問に根気良く答えてくれるが、忙しいときは決まってこう言った。 『まだ、若君には難しい話ですから』 そう言われると、そうか、私が愚かだから難しいだけなのだろう、と引き下がった。この頃には、分からないことができたら自分で考える癖がついていた。 でもこれは、そもそも人に訊いてはいけないもののような気がして、それが証拠に自分の胸の動悸は治まることをしらない。もしかして、聴いてはいけないもので、見てはいけないもので、ここに自分がいることを知られたら、劉備に嫌われてしまうのではないか。 根拠は何もなかったが、そう思えた。 父上に嫌われる―― 動きそうになかった体が、びくり、と震えた。 音を立てないように、そろり、と足先をずらす。ゆっくり、ゆっくりとその場を去ろうとする。何も聴かなかった、何も見なかった。劉備に気付かれなければ大丈夫だ。 「申し訳ありません……っ」 しかし、劉禅の動きは再び静止する。むしろ、見えない糸に絡め取られてしまったかのように、ぴくりとも、指先ひとつも動かせなくなる。 今の、謝っている声は劉備ではなかった。 「あ……」 その声の主を無意識に呼ぼうとして、掠れた奇妙な息がこぼれた。 呼んではいけない。 気づかれてはいけない。 「――、お前という奴は」 呆れたような声で父が、謝った声の主の名を呼ぶ。 「劉備殿」 声の主が劉備の声に答えて父を呼ぶ。 劉禅の耳は、すべてを閉ざした。 気付けば、再び孫夫人が寝ている隣へ潜り込んでいた。 遅かったから心配しましたよ、と言われたような気がしたが、自分が返事をしたのかさえも分からない。闇の中で部屋を睨み付けて、月明かりに浮かぶ家具の輪郭をひたすら睨み付けて、朝を迎えた。 井戸の前で劉備が顔を洗っていた。身の回りのことを自分でするような生活が長かった父は、侍女が手伝うような環境になってからも、こうして自ら支度をしていた。 「父上、おはようございます」 「おはよう、禅。随分早起きだなあ」 振り返って笑った劉備はいつも通りの父の顔をしていた。劉禅もいつも通りに微笑んで――いや、父の顔を見れば口はいつも勝手に笑顔の形だ。そして視線を傍に立っている義兄にも向けた。視線を受け止めて兄も笑う。 「おはよう、禅」 「おはようございます、兄上」 ――笑えているだろうか。 廊下に出る前、部屋の銅鏡の前で練習したとおり、唇の端をやや釣り上げて、目尻を下げる。どうだろう、きちんと「笑顔」に見えるだろうか。 劉封は何事もなかったかのように、桶に注いだ水で顔を洗いはじめた。どうやら上手くいったようだ。 私は何も聴かなかったし、何も見なかったのだ。 それで、いい。 あまり家に居ない父だが、劉禅は劉備が好きだったし、血は繋がらなくとも優しい母の孫夫人も好きだった。同じように、血は繋がらずとも劉禅を一番構ってくれる兄の劉封も大好きだった。特に兄は、忙しそうにしていても、他の人のように決して『お前には難しい話だから』と言いはしなかった。劉禅が分かるまで、根気良く話してくれた。 もし、劉禅が昨日の夜のことを誰かに話したら、恐らくその大好きな誰かの、もしかしたら全員の笑顔が失われるかも知れない。それは想像ではなく、確信だ。なぜなら、事実それを知ってしまった劉禅は、笑顔を作らないといけないようになってしまった。 だから、あれは自分だけの秘密だ。 たった一人だけの秘密にしておくべきだ。 父の部屋の前から去って、ずっと一人で考えていた。どうすることが一番良いのだろうか、とひたすら考えていた。先ほどまで迷っていたが、父の笑顔と兄の笑顔を見て、決めた。 たぶん、秘密にすることが一番良いことだ。 決めれば心は軽くなった。 寝台から下りたときは、胸の中に広がっていたごりごりした物で、もうずっとこの先思うように動けなくなるのではないか、と心配するほど重かったのだ。 「父上」 顔を洗い終わった父が、着替えるためか部屋へ戻ろうとしたのを呼び止めた。なんだ、と劉備は優しく訊いてきた。 「父上は、兄上が好きですか?」 「――!」 傍で、兄が瞬時に顔を赤くしていた。禅、と怒鳴るように劉封が名を呼んだ隙間で、 「好きだよ」 と答える父の声が聞こえた。 ぽん、と劉封の頭を軽く叩いて、そっと撫で、それからその長い腕を伸ばして劉禅の頭も同じように軽く叩き、撫でた。 「禅も、好きだぞ」 「私も、父上が大好きです!」 力一杯答える。嬉しさで胸がはち切れそうだ。 「そうか、ありがとうな」 ぽんぽん、と二回叩かれる。部屋へと消えた劉備の後ろ姿を見送って、残っていた劉封へ向き直る。 「兄上」 「……なんだ」 兄の目を見上げた。悔しそうな目をしていた。 「兄上のことも、『私のことも』父上は好きなのだそうですよ」 「そうだな。二人とも好きなのだな」 声にも悔しさが滲んでいる。 今度は、作った笑顔ではなく、自然と笑みが顔を形作った。 「負けませんよ、封兄上」 貴方には、負けませんよ、劉封。 「禅?」 今は、昨日の夜のことはなかったことにしますし、私と貴方は同じ位置に立っている、ということも分かった。 だから、 「負けませんから、絶対に」 父上の『大好き』をたくさんもらうのは、私です。 ゆっくりと劉封の目が見開かれ、そして、男の目になった。兄の目ではなく、一人の漢の目になって、劉禅を見下ろした。 「俺もだ。俺も負けない、禅」 ふふ、と小さく笑った。 なんだか楽しくて仕方がなくて、笑い声がこぼれる。 「父上も大好きですけど、私は兄上もやっぱり大好きです」 そう告げると、また劉封の目は大きく膨らんで、瞬いた。そうか、とようやく呟いて、にこり、と笑った。 「うん、俺も禅、お前のことが好きだぞ」 小さな拳と大きな拳は、中庭と回廊の間で、ごちん、とぶつかった。 おしまい あとがき というわけで、10万打御礼として書いた、息子×父でした。 特に何がベースになっているわけではないのですが、まだ阿斗たま5〜6歳ぐらいだし。 これから性格形成されていくところなので、わりと自由に。 阿斗たまの本領は、やっぱり劉備死んでからかなあ、とか。 もしくは、関羽が死んで荒れている劉備とか、一人で頑張る諸葛亮見て、とか。 今回は大人しめに、子供ゆえの無敵さ、というか狡さを書いてみました。 さて、劉備とにゃんにゃんしていた(笑)相手の話は、続きからどうぞ。 激しくないので15禁程度ですが、年齢満たない方は申し訳ありませんが、ご遠慮ください。 こちら側の話だけでも完結はしているので。 |
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