「木の葉の色 1」
 曹操×劉備


 思えば、初めから気になっていたのだ。
 ただ、それが何なのか、気付くまで遠回りをしてしまったし、遠回りをするだけの分かりにくいものだった。



「儂は騎徒尉きといを務めている、曹操孟徳だ。お主の名を聞こう」
 馬上からそう声を掛けてきたのは、黄色い巾が乱れ散る中でのことだった。
 辺りが炎に包まれているせいか、馬上の人の面持ちは強く輝いていて、劉備は目を細めて見上げた。
「私はタク郡タク県よりの義勇軍が将、劉備玄徳と申します。曹操殿のご活躍、この劉備、先ほどより見ておりましたが、余りの武勇の凄まじさに見入ってしまいました」
 拱手して、劉備は心の底よりの感想を述べる。すると曹操も、にっと唇の両端を持ち上げて不遜とも取れる笑みを見せた。
「いや、お主こそ義勇軍の将などにしておくなどもったいないほどの奮闘ぶりだった。それに、そちらの二人の臣下たちもな」
 曹操は、劉備の脇に控えていた義弟たちへも労いの言葉を掛けた。その率直な物言いと態度に、劉備は笑顔になった。
 その時に交じり合った視線と、そこに込められた幾ばくかの予感。

 大きなうつわだ、と。
 長き付き合いになるかもしれない。

 後から考えると、それは予感ではなく確信だったのかもしれない、とも思えるが、とにかくその時は、互いを褒め称えて別れたのだった。
 そして、劉備の胸に刻まれた『曹孟徳』と言う名は、鮮やかな色を褪せることなく残すことになる。


          ※


「どうした、劉備?」
 自分を呼ぶ声に、劉備ははっとした。
 知らずに物思いに耽っていたようだ。目の前の人間の機嫌を損ねたか、と心配になって窺えば、しかしそれは杞憂だったようだ。
 頬を撫でる風が切るように冷たい。昨日は雪がちらついていた。枝に残った葉が風に吹かれて二人の間を通り抜けていった。
 目の前の人間はその葉を目で追い掛けるようにして、眼下に広がる下ヒ城を見やった。
 その横顔は、上の空気味だった劉備を気にすることなく、また劉備へ顔を戻して、また問うように首を傾げた。
「いえ、この寒さです。そろそろ城の兵たちも根を上げ始めるころか、と考えておりました」
 下ヒ城は曹操の軍師、郭嘉の策通り、水攻めに遭い、まさに陥落寸前となっていた。そしてこの寒さだ。
 兵を率いている将、呂布や張遼ならともかく、一兵卒の間では動揺も広がり、降伏論が加熱しているだろう。
 そんな城の様子が、この離れた小山の上からでも感じられそうだった。
 曹操から物見にいかないか、と誘われた。それも二人きりで行く、と言う。
 驚き、劉備は反対した。確かに相手は籠城している。伏兵の心配はない、と考えられた。
 それでも、この呂布討伐の将が二人も同時に居なくなるのは無用心過ぎる。
 そう諫言した劉備を、曹操は一笑して、強引にここまで連れてきた。曹操はこういうことには慣れているのか、陣営を抜け出す手並みは鮮やかだった。
「天を揺らす武勇の主も、飢えと寒さ、そして忍び寄る部下たちの焦燥には苦渋を舐めているだろうな」
「ええ、なるべくなら早くの降伏を望んでおります」
「おかしな男だな、劉備。呂布はお前の居所を奪った男だぞ? それも一度はお前が迎え入れさえもしたのに、それを裏切ったのだ。その男を心痛するなど」
 おかしな男だ、ともう一度言った。
「呂布は、呂布殿は戦しか知らぬ人。処断は致し方のないことですが、従う兵全てを無下に捨て置くのは余りにも……」
「お主らしい言い分だな。……だが、考えていたのはそのことではないだろう?」
 にっと、不遜と威厳との紙一重の笑みが曹操の口元に浮かんだ。
 初めて会った時と同じ笑顔と、そして問いの内容に、劉備はどきり、とした。
 事実、劉備が考えていたのは眼下の下ヒ城のことではなく、隣に立っている男のことだったからだ。
 小山の頂上から城を窺っている曹操の横顔を目の端に映らせるたび、劉備は妙に緊張している自分に気付いたのだ。
 そして、何とはなしに、初めて曹操と会ったころのことを思い出していた。それで上の空になっていた。
 それを曹操へ見抜かれたのか、と思った。
「どうしてそうお思いになられます?」
 それが気恥ずかしく、誤魔化すように劉備は聞き返した。
「そうだな。兵を気遣う者の顔、と言うような表情ではなかったからか。……あえて表現するなら、そうだな」
 そこで曹操は顎に手を添えて、しばらく何かを考えたようだ。それから、またにっと笑って見せて、こう言った。
「恋慕を抱いている相手でも考えているような、そんな面持ちだったな」
「なっ」
 何をおっしゃるのか、と続く言葉は、なぜか劉備の口から出てこなかった。
 私が考えていたのは、貴方のことですよ? それがどうして恋慕の相手などと。戯れを……。
 しかし、劉備は反論する言葉を見つけられずに俯いてしまう。そんな劉備の態度を肯定と捉えたのか、曹操は声を立てて笑った。
「何だ、図星だったか。からかっただけだったのだがな」
 その言葉に、劉備は呆気に取られた。呆然と見やれば、曹操は楽しげに笑っている。
「曹操殿!」
 憮然として声を荒げた劉備へ、しかし曹操はまだ笑っていた。
「朴念仁のような気がしていたが、そうではないようだな。誰だ、その相手は? 相手次第では取り持ってやらんでもないぞ?」
「曹操殿、いい加減にしてくだされ! 違います!」
 取り持つ、と言う曹操へ、無性に腹が立った。憤慨する劉備を、それでも曹操はニタニタと笑って構ってくる。
「違うのなら、何を考えていたのか教えろ」
「それは……出来ません」
 急に弱腰になる劉備へ、何だ、やはり当たっているではないか、と曹操はまた笑い出す。
 言えるものか。貴方のことを考えていたなどと。
「さあ、お前の想い人を言え」
「言いません。そもそも、違いますから」
 しつこい曹操にますます腹が立つ。
「どうして曹操殿はそうやって詮索するのですか。私など大した男ではない。恩を仇で返されるような情けない男です。それをどうして貴方は……」
 貴方は、構うのです。そして楽しげに笑うのですか。それを見て、私がどれだけ心を乱されるのか、知っているのですか。
 このような自分さえも哀れみ、手を貸すことを惜しまない、『曹孟徳』と言う器に、どれだけ自分が小さい人間だ、と思わされているのか、ご存知か。
 自然と眉が寄ってしまう。
 いつもそうだった。
 この男の隣に立つと、いかに自分が卑小であるかを自覚させられる。決して志で負けてはいない。自分には漢王朝復興、という大儀がある。
 だが、果たして自分はそこへ向かって歩めているのだろうか。不安に駆られない、などと言えばそれは嘘だ。
 それに比べてこの男は、着実に勢力を拡大し、天子をも手中にしている。
 そのやり方が劉備とまったく違うものだとしても、夢を、志を貫いている男は眩しかった。
 嫉妬、焦燥、憎悪すら感じる、と言っても過言ではないかもしれない。いつでも追いかけている。曹孟徳、という影を。ただ、追いかけているだけだった。
 それが悔しくて、劉備の胸を苦しめる。
 それのに……。
 自分へ向けられる曹操の笑顔を見ると、胸がざわめく。
 嫉妬や焦燥、と言った負の感情以外の何かを覚えるのだ。
「卑怯です」
 口にした言葉は、劉備すら思ってもいない一言だった。
 それに自分自身も驚き、そして言われた当人も目を見開いた。それから、その目が細められた。
「どういう意味だ?」
 曹操の声が低かった。そして、この頬に当たる風よりも冷たかった。
 ぞくっと、劉備の背筋に怖気が走る。
 怒らせた。
 普段は冷静沈着で、そのくせどこか童のような無邪気さが漂うが、その内面は、一度さざめけば激甚であることを知っている。
 立ち昇るように、曹操の全身から『氣』が吹き出していた。それに気圧されて、劉備は後退った。
「劉備、儂が卑怯とはどういう意味だ?」
 もう一度尋ねられ、劉備は辛うじて答えられた。
「いえ、失言でした。申し訳ございません」
 卑怯などと、心にもないことだった。
 だが、口にした途端、頭の片隅で納得してる自分に気付いた。
 卑怯、と思っていた。
 それはもちろん、自分の勝手な思いから来るものであったが、曹操が卑小な自分をからかい、構うのは、それをさらに自覚させるつもりなのではないか。
 そんな歪んだ思いが自分の中に存在していて、それが思わず口をついて出たのだろう。
 まるでそんな劉備の心情を見抜いたように、曹操は続けた。
「失言とは、心に思っていたことを思わず言ってしまうことだ。つまりお主は儂を卑怯者だ、と思っている、と言うことだな」
 謝った劉備へ対して、しかし曹操は追及の手を緩めようとしない。距離を取った劉備へ、歩を進めて距離を狭めてきた。
 さらに劉備は後退った。
 射抜かれる眼差しが凍えるほど冷たい。
「どう言う意味だ。どうしてお主はそう思うのだ」
 寒さで張り詰めた空気を震わして、その低い声は聞いてくる。
「申し訳ありません」
 劉備は謝るしかなかった。
「謝罪はいい。どうしてそう思っているかを聞いている」
 また、距離が詰められる。
「曹操殿を卑怯などと思っておりません」
 必死で、否定する。
「お主は嘘つきだ、劉備」
 鋭い言葉の刃が、劉備の首筋へ宛がわれた。その刃の輝きに、劉備は体を強張らせた。
「思っていることを口にする気概もないのか」
「思ってもいないことは口には出来ません」
 何とか反論した。
 すると、曹操はあからさまな怒りをおもてへ立ち昇らせた。
「劉備!」
 曹操の一喝に、劉備は反射的に身を竦ませた。曹操が手を伸ばして腕を掴んできた。
 その手の力の強さに、劉備は怯む。
「ならば、卑怯と呼ばれるだけのことをしてやろう」
 その意味が理解できず、劉備は眉間を狭めた。だが、曹操の顔が近付いて唇と唇が重なった瞬間、今度は驚きで眉間が広がった。
「そっ……んっ」
 曹操殿、と続く言葉は、深く重なった唇に奪われた。
 しばらく呆気に取られていたが、我に返り身じろぎをしようとしたが、捕らわれた腕が外れなく、そのままとなってしまう。
 寒風に体温を奪われていた唇が、互いの体温で暖かくなっていく。舌がその唇を割った時には、その暖かさが心地良い、とさえ思ってしまった。
 口内を蹂躙していく曹操の舌に、首筋を、寒さとは違う震えが通り抜けた。
「……ぁ」
 唐突に離された唇に、吐息がこぼれた。
 まだ、吐息が掛かるほど近くにある曹操の顔が、不遜なる笑みを作る。赤い舌が僅かに現れて、まるで食の後のように笑みを作っている唇を舐めた。
 その動きに、劉備は魅せられるが、それらが自分に触れていたことを思い出し、顔が熱くなった。
「何を……!?」
 掌で口元を覆い、未だに掴まれたままの曹操の腕を払おうとするが、やはり出来なかった。
「生娘でもあるまいに、何を動転している。口を割らぬから割らせたのだ」
 意味が違う。
 だが、劉備はそれを口にする余裕もなかった。
 まさに動転していた。なぜ曹操が自分にこんなことをするのかも、そして体が熱いわけも、ひどく心が乱れているのも。
 訳が分からなかった。
「理由を言わねば、さらに暴けさせるぞ」
 ぐいっと腕を引かれて、曹操の懐へ引き込まれてしまう。間近にある曹操の眼の深さに惑いそうだった。
「卑怯です、このようなやり方は」
「だから、使っている。それに、お主が初めに言ったのだろう。儂が卑怯だ、と」
 さらに紡がれようとした曹操の言葉を、劉備はかぶりを振って押し止める。
「ですからそれは……」
 自分の歪んだ心が生み出した、浅ましい妬みの言葉なのだ。意味などあろうはずがない。
「卑怯者は、お主だ」
 吐き捨てるように曹操は言って、劉備の体を近くの木へ押し付けた。背中に当たった固い幹の感触が、ひどく痛かった。
「そうして儂を試しているのか?」
 劉備は曹操の言っている意味が分からなかった。
「試す、とは何のことですか」
 顎を乱暴に掴まれて、曹操の両眼に捉えられる。
 怒りが映りこんでいるその瞳は、怖くもあり、また強く輝いていて美しくもあった。
 恐怖に支配されそうになる心へ、微かな炎が宿る。
 この猛々しさが自分だけに向けられている心地良さに酔いそうになる。
 おかしい。こんなことを考える自分は何かがおかしいのだ。
「また、そのような眼で儂を見るのか。お主は何を考えている」
「曹操殿……?」
 怒りを募らせている人間にしては、苦渋を舐めているかのような声音だった。劉備は戸惑って聞き返した。
「全てを曝け出すまで、容赦せぬぞ」
 何かを押し殺したような曹操の声に、劉備の心に恐怖と共に微かな炎だったそれが大きくなる。
 顎を掴んでいる手に力が籠もって、顔をしかめた。そしてまた唇が重なる。
 いや、今度は重なる、などと生易しいものではなかった。噛み付くように吸われ、舌を血が滲むほどに噛まれた。
「……っ、んん」
 痛みと、さらに煽られる炎とで、劉備はくぐもった悲鳴を上げる。何とかして曹操の体を押し退けようとするが、体勢の不利が邪魔をする。
 曹操の荒々しい口付けを受け止めている間に、鎧が脱がされていく。
 足元に落とされる鎧と、緩められる帯に、曹操が何をしようとしているのか、はっきりと察することが出来た。
「いや、だ……っぅん」
 唇の隙間を縫って叫ぶが、曹操の力が緩む気配は微塵もない。
 帯を抜き取られ、衣が肌蹴た。下穿きだけが辛うじて劉備の身を守っていた。
 肌蹴た隙間から、冷気と曹操の指先が同時に忍び込んで犯していく。抜き取られた帯が手首を縛って、枝に掛けられた。
 そうして動きを完全に封印させられて、ようやく曹操の唇が離れた。



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