「【en】−宴ー 前編」
【en】シリーズ 2010年版 劉備編
諸葛亮×劉備(合作水魚)


 暮れも押し迫った夜中、私は寒い中を駆けて来たせいと、いい具合に回っている酒のせいで熱くさえあった体温を持て余しながら、まだ明かりが灯っている孔明の自室へと飛び込んだ。
 扉を叩く、などというまどろっこしいことなど思い付かなかった。早く、先ほど思い付いた事柄を歳若くも聡明で、私の至らない部分を補ってくれる頼もしい男へ話して、意見を聞きたかった。
「なあ、孔明! ちょっと面白いことを思い付いたのだが、聞いてくれ!」
 きっと夜更けに前触れもなく訪れれば、さしもの男も驚くだろう、と思っていたが、まったくそんな素振りも見せずに、読みかけらしい書簡が脇に置いてあり、すでに私のための席まで用意されていた。
「どうしたんです、殿。こんな夜更けに。さ、どうぞ、こちらにお座りください」
 それどころか、むしろ落ち着くように諭されながら、孔明はすっと立ち上がって「今、お茶を入れますから」と平然と茶の用意まで始めた。
 我が軍師ながら、人の行動を読むことに長けていることは喜ばしい、と一瞬思ったが、いや、むしろ私の行動が読みやすい、ということだろうか、と悩んでもみたりする。が、やはりそれも一瞬のこと。
 孔明の自室など、私の部屋も同然だ。勧められるままに用意された席に座り込み、堪え切れるはずのない笑みのまま、茶を準備してくれている孔明の姿を目で追いかける。よほど茶が用意されて、孔明が座ってから話そうか、とも思ったのだが、待ち切れなかった。
「あのな、もうすぐ正月、祝(しゅく)月(づき)だ。お前のことだから慎ましく過ごそう、などと考えているかもしれんが、それではつまらんぞ! せっかく新しい年が始まるのだ、賑々しく迎えようではないか!!」
 我ながら、酒が入ると舌が良く回る。確固たる地盤も持てずに乱世を泳いできた身としては、必要ならば口八丁、舌先三寸で潜り抜けてきた。昔馴染みの悪友、憲和(けんわ)(簡雍)からは、「昔っからお前は、屁理屈の類だけだったら天下取れるぜ」と言われ続けたものだ。
 そんな自分の舌だが、普段はあまり饒舌とも言いがたく、酒の力でも借りないと心中を吐露できない、という一面もある。だからこそ、ここぞとばかりに息継ぎも忘れて一気に自分の考えを口にした。
 すると孔明は淹れ立ての茶を運びながら、にっこりと笑顔になる。普段は糞真面目な顔をして政務をこなしている孔明だが、ひとたび政務を離れて私と一緒のときは、良くこうして笑顔を浮かべてくれる。これは私に大いに心を許しているからだろう、と惚気たくなる瞬間でもあった。
「殿はそうおっしゃいますが、慎ましく、静かに、新年を迎えるのも気が引き締まって悪くないものですよ。ですが、殿にお誘いいただけるならば、どのような形でも、私は嬉しいですけれど」
 私の前に茶を置いて、実に孔明らしいことを口にしたが、自分の湯飲みを持ち、孔明は座りながら先を促してきた。
 ようやく核心を話せる、となれば、素晴らしい閃きに浮き立っていた心中が溢れてくる。
「うむ、実はな」
 そもそも部屋には私と孔明しか居ないのだから、体を寄せなくとも誰にも聞かれる心配などないのだが、そこは、それ。気分と言うやつだ。幼かったころに、悪戯の相談を友人たちに打ち明けるような楽しさに駆られつつ、口をそっと孔明の耳元へ寄せた。
 また、これを伝えたときの男の驚く顔も想像して、くすくすと笑いが込み上げて、中々言葉に出来ないが、やっと伝えることに成功する。
「……城中、いや駄目だな。城郭(まち)中を合わせた新年会を開こうと思うのだ!!」
 凄い思い付きだろう、たまには臥龍顔負けの良策を生み出せるのだぞ、と得意になり宣言した。
 すると案の定、持ち上げていた湯飲みを卓上に置き、勢いがあったのか音が立ったものの、置いた主からは声も漏れなかった。
「…そ、それはまた…」
 ようやく言葉を見つけたらしい孔明は、それだけ言って、私の顔をじっと見つめてきた。頭の良い、臥龍と呼ばれた男を驚かせることに成功し、私の機嫌はさらに良くなる。
「想像しただけで胸が躍らないか? 新しい年を皆と祝う。これほど楽しい事など無いだろう!」
 凝視している孔明を覗き込むように見つめ返して、妙案の効果を自慢する。
「とても楽しそうだと思います」
 やはりこの閃きは名案だったようで、微笑んで賛同してくれた孔明を見て自信を持つ。ところが、不意に笑んでいた孔明の顔が曇った。
「ですが、どういう催しを殿が考えておられるのかによりますが、元日まで日にちがありません。今から動いたとして、準備は間に合いましょうか?それに、城中で働く者達の中には、日頃忙しく、家族と団欒する時間を取れぬ者達もおります。準備が大掛かりになれば、その者達を借り出すことにもなりますし…」
 言われて気付いた。実際に事を起こそうとすれば、あれこれと必要なものも出てくる。当然のことだったが、酔っている私は言われるまでまったく思い付かなかった。
「むー、準備期間か……。何とかならんか? 人は有志を募る、という具合にすれば何とかなると思うのだ。正月前だろうと最中だろうと、暇そうにしている奴らの心当たりはある。出来る限り大々的にやりたいんだ」
 しかしせっかくの良案だ。何としても形にしたい。こういう時こそお前の出番だろう、とばかりに、な? と期待を込めて孔明をじぃっと見つめた。
 私の熱意が伝わったのかどうなのか、孔明は脇に置かれていた羽扇を持ち上げて、ため息を吐いた。
 なんだ、駄目なのか、無理なのか、と不安に駆られつつ、男の口許を見つめる。いつでもこの唇から紡ぎ出されるのは、不可能を可能にする言葉だった。曹操の南征から辛くも逃れられたのも、孫呉との共同戦線を張れたのも、荊州の半分を得られたのも、この男の才覚あってのことだ。
 新しい年を皆と祝う催しぐらい、お前なら実現してくれるはずだ。
「…困りましたねぇ…。信頼していただけるのはありがたいのですが、どのような事をお考えなのか教えていただけねば、諾とも否とも言いかねます。それに殿、年が明ければ大規模な灌漑(かんがい)工事や、次策への足がかりとなる遠征もひかえております。できるだけ、支出は抑えておきたいのですが」
 あれこれと公務のことを持ち出して、仕方が無い人だ、困った、という顔をしているが、何をしたいのか、と訊かれれば勢い込んで訴える。ここで孔明を説得出来なければ閃きは泡沫の夢と消える。
「どのような、とは! そうだな、賑やかで皆が笑えて楽しめる催しが良い!!」
 これでも精一杯、私としては胸のうちの考えを語ったつもりだ。具体性が無いとか、抽象的だとか言われると返す言葉もないが、そもそも私は孔明が得意とする理論とか計画性とかいう単語とはほど遠い性分なのだ。勘弁してもらいたい。それでも、財政のことは気にかけているのだ。そう、支出を抑えておきたい、という言葉には敏感で……って、それがあったか!
 金の話を持ち出されて、今の今まで浮き立っていた気持ちが急速に萎(しぼ)んでいく。昔から金の工面には苦労した。良い思い出は無いに等しい。自然、落ち込んでくる。
「か、金か……そればかりは私にもいかんとも出来ぬな。へ、へそくりぐらいならあるぞ?」
 それでも容易く諦める気にはどうしてもなれず、忙しい政務の合間を縫って(う、嘘じゃないぞ、政務も少しはやっていて、忙しい身なのだぞ!)趣味で作っている筵や草履を売って稼いだ小銭を差し出す覚悟で、提案してみる。
 いやもちろん、そんなはした金で何とかなるか分からないので、恐々と口にした。
 すると孔明は何やら羽扇を軽く手に向かって拍子を付けながら叩き、独り言を呟き始めた。これはどうも孔明が思案を練るときの癖らしいのだが、計画を実行できる見通しでも模索し始めたのだろうか。
 期待と不安を織り交ぜたまま呟く言葉に耳を傾ける。
「…そうですねぇ」
 孔明の頭の中では、私には窺い知れない画策が働いているのだろう、と思うとますます見つめる視線に力が入る。
「…なんとか…。殿、皆で初日の出を迎えるというのはどうでしょうか?」
 そしておもむろに孔明の提案してきた催しに、気が早いと笑うなよ。私は一人で初日の出を拝んだような、光り輝く前途を見たのだ。これは、あれだ。孔明の家を三度訪ねてようやく話が出来て、天下三分の計を聞かされた瞬間に相当する明るさだ。
 天下の分け目と正月祝いの企画を一緒にするな、とかいうつっこみはこの際右から左へ受け流すぞ!
「おお、いいな! それはいい!!」
 嬉しさのあまり声は弾み、俄然気持ちは高揚する。この嬉しさをどう表現していいのか分からず、私は目の前の男へと抱き付いた。
「さすが孔明だ!」
 それだけでは全身から溢れる喜悦を抑え切れず、目の前にあった唇へと軽く唇を合わせた。
「……っ!」
 ひどく驚いた表情を孔明は浮かべた。何だ、人がせっかく感謝と喜びを露わにしているのに、一緒に喜ばんのか。そう思いつつも、こうしてはおれないと、
「よし、ではさっそく人を集めに……って、なんだ、この手は?」
 私は意気揚々と気力を漲らせて立ち上がろうとしたのだが、背に違和感を覚えて動きを止める。見やれば、なぜか孔明の奴の腕が背中に回っているではないか。なぜだ、と訊けば、
「…すいません…口づけて下さったので思わず…」
 慌てた様子で、そっと手を離した。言われてから、私は先ほどの自分の行動を思い返して、我知らずと頬を熱くする。酒のせいで元々赤かったから、きっと孔明には気付かれてはいないだろう。
 酒を飲むとどうも無防備になっていかん。
 名残惜しそうにしている孔明は、
「…もう、行ってしまわれるんですね…。夜も更けております。明日にされては…」
 訴えかけるような眼差しで見つめてくるではないか。何だ、何だ、こやつめ。こういう甘えるところを見せられると、私が弱い、ということを知っていてやっているのだろうか。
 確信犯的なものをいつも感じるが、今夜はさらにそれを強く感じたのは、先ほどの自分の大胆な行動に今さらながら羞恥を覚えていたせいかもしれない。だから、孔明の寂しげな視線に折れた、と思われるのが少し癪だったので、私は再び腰を下ろして頷いた。
「言われてみれば、その通りだ。こんな夜更けでは集まりも悪い。明日朝一番で動くことにする」
 もっともらしい言い訳を口にして、孔明の甘えをこっそりと享受することにした。
 我ながら、孔明の歳若いところを見せ付けるような可愛げのある部分は、非常に弱い。飽きれるほど、弱い。男を相手に、可愛いなぁ、と思ってしまうほど、弱い。
 何せ、
「その方がよろしいと思います。私も手伝いますので、なんなりとお申し付けください」
 と実に嬉しそうににっこりと微笑まれては、ああ、阿呆、そんな顔をして私を見るな、と意味もなく罵りたくなるほどだ。いや、惚気たくなる、の間違いか? とにかく、無邪気なほどの笑顔を見せられれば、私とて嬉しい。締りの無い笑みを浮かべたくなる。
「さて、殿。もう少しこちらでお過ごしいただけるのでしたら、お茶のお代わりを用意いたしましょうか?お酒のほうがよろしいですか?」
 酒、という単語にいち早く、人より大きいこの耳が反応を示した。すでに酒家で充分に飲んできたが、孔明と飲める酒はまた格別だ。遠慮など欠片もせずに即答した。
「酒が良いな。お前も飲め。まさかこんな正月を迎えようという時期に、自分の部屋で執務をしていたわけでもあるまい?」
 一緒に飲もう、と誘うためにも、念を押した。幾ら孔明が政務中毒か、と疑うほどに熱心だとしても、暮れのこの時期にしているはずがないだろう。そう思っていた私だったが、孔明の返事は意外なものだった。
「ええ。ご想像の通り、執務をしておりました。が、急ぐものではありませんし、ご相伴にあずかりましょう」
 孔明が立ち上がった先にある棚に、私は旨い酒が隠されていることを知っている。思わず目を光らせてにやり、と笑みが浮かんでしまうが、酒盃を用意し始めた孔明へ顔をしかめて言った。
「あのなぁ、お前の言う慎ましく、静かに新年を迎える、というのは、執務をしながら迎えるものなのか? この時期になれば、もうすることといえば新年に向けて騒ぐ準備しかあるまい」
 自信たっぷりに言い切る。それ以外にどういった過ごし方があるのか、教えてもらいたいぐらいだな! 酒盃と酒瓶を抱えて戻ってきた孔明は、私の言葉を意に介した様子もなく笑っている。
「性分ですから、しかたありませんよ。これで大丈夫だと思っていても、気にかかりましてね。それに、新年までにはまだ、数日残っていますし…。年の瀬といえども急ぎのものも何件か…。ああ、そうです。特に急ぐものはまとめておきましたので、明日は必ず目を通してください。殿の裁可を待っている者も居るのです。皆で新しい新年を迎えるためですから、よろしくおねがいします」
 恐ろしいことを口にしながら、孔明は酒盃を置いて酒を注ぎ入れてくれた。今、孔明が説明した内容が頭の片隅を過ぎったためにちらり、と男へ視線を走らせたものの、あまり見かけない色と香りを漂わせながら注がれる酒に、私の興味は大いにそそられた。
 酒は色や風味から察するに、果実酒のようだ。
「分かった分かった。明日、明日だな、うむ、分かったぞ」
 とりあえず返事はしたものの、自分でも何が分かったのか、まったく理解していない。私の耳は、都合の悪いことは右の耳から左の耳へ俊足で通り抜ける、という便利な機能を兼ね備えている。どうだ、凄いだろう? ただ無駄に大きいだけではないのだぞ。すると重ねて孔明が訴えてきた。
「…私は別にかまわないのですけどね。慎ましく静かな新年もよいものですから。さあ、どうぞ。お口に合えばよいのですが」
 むう、何か皮肉られたような、釘を刺されたような気がしたぞ。これは少しは真面目に返事をしろ、ということか?
 孔明の酒盃にも注がれた酒を眺めつつも、用意された見知らぬ酒の味に注意は傾きっぱなしだ。おかげで、ようやく先ほどの孔明の言葉の裏の意味を理解した。すでに勧められる前から私の手は酒盃に伸びていたが、ちらり、と若い軍師の顔を見た。
 ん? それはつまり私が政務をこなさないと、皆で初日の出を見ようの会(今、私が命名したぞ!)は実現しない、もしくはさせない、という脅しか? それは不味い。だが、酒も早く味わいたい!
「やる、やるぞ。だから今は酒を味わわせてくれ」
 そんなに私は信用がないのか、と普段の行いをひとまず頭の中から追い出していた私は少々むくれつつも念願の酒を口に含んだ。舌の上で広がったのは甘い味で、纏わりつくような甘さではなく、すっきりとしている。
 想像以上の美味に嬉しくなり、目を細めた。
「美味いな! 何の果実酒だ?」
「柿です。お口にあってよかった。どうぞ、まだまだありますから」
 答えながら孔明は柔らかい笑みを浮かべ、自分の酒盃に口をつけた。
「ほお、柿か。実に美味い。このような美味い酒を隠しているとはなぁ」
 思わぬ材料に声を上げる。飲みやすさもあり、私は一気に酒盃の中身を飲み干して、ふはぁ、と息を吐く。至福の一時というやつだ。先ほどの酒家で飲んでいた分から考えると、そろそろいい加減に酔いが回り切ってきた。
 目の前では私と違い、一口一口を味わうように飲んでいる孔明がいて、先ほどの笑顔といい、普段から懸念していた事柄が少しは払拭されて口を開いた。
「少し、安心した」
「なにがです?」
 孔明からは唐突な言葉に映ったであろう私の呟きに答えつつ、私の空いた酒盃に柿酒を注いでくれた。
「お前はいつも政務政務ばかりで、息抜きする暇すらないのか、と思っていたが酒を造るぐらいの余裕はあるのだな、と思ってな。……その、あれだ」
 自覚があるだけに、実に言いづらいことで、注がれた酒をちびり、と舐めてから勢いをつけた。
「私は政務をさぼってばかりいるし、今回の催しもお前に頼っているし。また、お前に負担をかけてしまったな」
 酒盃に口を付けたまま、日頃、時たま覚える罪悪感のままに上目遣いで孔明を見つめた。そりゃあ、私と孔明の関係は主従関係かもしれんが、だからといって何でもかんでも孔明に頼り切り、迷惑をかけっぱなし、というのも、主君としてどうだ、という話だ。
 なら政務を怠けなければいい、というかもしれんが、人には向き不向きがあるのだ! そうなのだ!
 酔っているせいか、頭の中でつっこみと自己弁護がかなり一緒くたになってきた。
 そもそもは、私自身があれほど願って、三度も孔明の家を訪れて軍師になって欲しい、と引き込んだのだ。もちろん、孔明も私の志や人柄に惹かれたからで、孔明の意思をまったく無視しての所業ではない。それでも、そこまでして欲した相手に対して、私は少し粗雑にし過ぎてはいないだろうか、と思うこともしばしある、うむ、たまにあるぞ、ほんとだ。ちゃんとお前のことは大切だぞ。
 そんな酔っ払いのぐだぐだな心中の弁解が通じたのか通じないのか、孔明はむしろ礼を言ってきた。
「…ありがとうございます。そのお気持ちだけで…」
 頭を下げて、しかしまたすぐに顔を上げて私を見つめた。
「それに、私は私の為すべきことをしているだけです。殿が必要だと頼って下さる。それだけで嬉しいのですから」
 ……お前は本当に出来た男だ。飽きれるほどに私に尽くしてくれる。
「ん……そうか、それならいいが」
 誇らしげな顔をしてお前は言うが、本心はどうなのだろうな。訊いても隠すだろうし、隠そうとしているものを暴けさせることが出来るほど、生憎と私は口が上手くない。せいぜい、意地悪をするように、男が困りそうな言葉を選ぶだけだ。
 酒盃から口を離して、歳若い男の矜持に小さく笑う。持った酒盃で男を差してにたり、と意地悪く目を細めてみせた。
「だが、あんまり私を甘やかすとつけ上がるぞ?」
 だからたまには我が侭も言ってみろ、と促してみるのだが、
「どうぞ、ご存分に。貴方に仕えると決めた時から、信じておりますので」
 随分と恭しく、厭味かと思うほど慇懃に拱手してみせた。
 厭味だと思ってしまうのは、私のひがみかもしれんが、いや、あながち外れていないと思うぞ。なにせ孔明は私の侠気をくすぐるようなことを口にして、まるで我を張るように隙を見せてはくれない。むしろ私の方が孔明の口調に刺激されてさらに意地の悪さを助長させる。恐らく、酔いのせいもあったのだろう。
 ほお、と意地の悪さを前面に出して、ますます目を眇めてわざとらしい感嘆の声を上げてみせた。頬杖をついて酒盃を掴んで揺らしながら言ってやる。
「ではもっと付け上がらせてくれないか。お前は私のどこが好きだ」
 若い頃からの負けん気に火がついたせいもあるが、こんな質問をしてしまったのには訳がある。こうして答えに窮すような(少なくとも、私はこんな質問を孔明からされたら、非常に困る。困るどころか逃げたくなる。普段は冗談に交えてでも幾らでも言えるが、改めて言うとなると恥ずかしいではないか)問答を繰り返せば、孔明のどこか張り詰めている背筋や、力の入りすぎた肩から力が抜けてくれるのでは、などと思ったからだ。
 何せこの男ときたら、私に恋情を抱き、実るはずも無いと決め付けた上で諦めようと視察へ出て気持ちの整理をつけようとするほど、想いや悩みを内に秘めやすい奴だ。まあ、実らない、と思ったのは仕方ないかもしれないが。私とて、まさか孔明と、男と床(とこ)を一緒にするだけでなく、惚れ合う関係になるなんぞ、考えたこともなかった。
 その頃の私は孔明のそんな悩みや恋情に気付きもしないで、視察に出たっきり中々戻る様子の無い孔明を案じつつも、男の驚く顔見たさに、のん気な気持ちで追いかけた。するとどうだ、あやつと来たら私の顔を見るなり泣き出して逃げ出すではないか。後から訊けば、嬉しかったからだ、と言っていたが、生来、結構涙腺が弱いほうじゃないかと、私は思っている。
 そんな孔明を宥めて抱き締めているうちに、初めて胸の内を明かしてくれた。あの言葉は今でも鮮明に思い出せる。想いが強すぎて傍にいるのが辛い、と打ち明けた震えるような声は未だに私の胸を切なく締め上げる。
 予想もしなかった告白に驚きながらも嫌悪感もなく、むしろ弾むような高揚感を覚えた。男に告白されたというのにまんざらでもない自分に戸惑いながらも、どうしても湧き起こってしまう悪戯心に促されて訊いてみた。私をどうしたいのだ、と。照れ隠しもあったし、恐らくこう促しても何も出来ないのではないか、という考えもあった。
 それを聴くのですか、と聞き返された。どこか迷いの見えた男の態度が改まった。開き直ったのだろうか。続いた言葉は濡れて甘やかながらも万感の想いに満ちていた。
『貴方を、抱きしめ、愛しみ、過ぎた悦楽に、乱れ鳴かれる姿を独り占めにしたいのです』
 私に想いを打ち明けることも出来ずに一人懊悩したくせに、あまりにも大胆な言葉だった。同時に、人に触られることを苦手とする耳に口付けられた私の身体は嫌悪感に襲われず、色めいた感情が過ぎるほどだ。
 男と体を重ねる趣向は持ち合わせていなかったのだが、悩みは一瞬だった。
 孔明となら構わない、と。まあいいか、と。
 それから先のことは、その……あまり思い出したくないのだが……。男が男に抱かれるのは大変なのだ。それでも予想以上に良くてだな、最後には私も孔明が好きだったのか、と気付かされてしまったほどだ。
 鈍い、と言うなよ。それほどに、私にとって男に恋情を抱く、ということ自体が思考の範疇外だったのだ。何より孔明を頼っていたし、私が初めて希った男だ。その感情に恋慕が混じっていたとしてもそうは気付けない。
 ならば今はどうか、と訊かれれば、うむ、そうだな。
 私の挑発に孔明は目を見開いた。分かりました、と答えて瞼を下ろした。
「どこがと、問われれば、全てと答えたいところですが、それでは納得していただけないでしょうから…」
 唇を湿らせるつもりでか、酒を一口飲んでから酒盃を置いて、瞼を持ち上げた。
 情愛の篭もった眼差しが私を射抜く。それだけで、私の心臓は恋を初めて知った娘のように高鳴るのだ、今はどうかなど、訊くだけ野暮であろう?
「まずは、瞳。初めて貴方と見(まみ)えた時から、数多の修羅場を潜り抜けながらも、一点の曇りもなく深く澄み渡り、確固たる意志を宿しながら童心を忘れぬ、その瞳に魅せられておりまする」
 よどみなく、滑らかな孔明の舌は私を称賛する言葉を次々と紡いでいく。好きな相手に褒められることは素直に嬉しいもので、酒のせいもあって初めのうちは機嫌よく耳を傾けていられた。
「次に、声。民へ語りかける時は慈しみ深く、志を語られる時は凛として勇ましく、聞くものを惹き付けずにはおかない、殿自身の心内をよくあらわした、深く暖かい声に惹かれております。そして、そのお心。私を迎えに来て下さったときに、語られた嘘偽りのないお心、志。その実現ためならば、非才の身なれども、身命を賭す覚悟でおりまする」
 だが、それも限度と言うものがある。弁舌巧みな孔明の言葉はむしろ過剰ではないか、というほどに私を褒め倒し、持ち上げる。徐々に私は背中を這い回るむず痒さや居心地の悪さに貧乏揺すりを始めた。顔も熱い。
 私の気まずさを知ってか知らずか、ふっと一息入れた孔明は、形の良い唇をにやり、と歪ませた。やや下品さが漂いつつも、男の持ち前の清廉さを失わせるほどではなく、淫蕩さを醸し出した。嫌な予感に襲われる中、色の含まれた低い声が身を乗り出してきた孔明の口から溢れる。
「我が君。あなたの、そのお姿も、そして、私にだけ見せてくださる、潤んだ瞳、ねだられる時の甘やかな艶声、私の愛撫に答えて、淫らに熟れ乱れてゆく姿態……」
 ぎゃー、それ以上は要らん、要らん!
 私は慌てて孔明の口を手のひらで強引に塞いだ。
「分かった、もういい! 充分だ!」
 う、う……耳まで熱い。自業自得な部分もあるが、恐ろしいことを口にしていた孔明を止めることが出来て安堵のため息が大仰に漏れた。飽きれて男を見据えた。
 所詮、私が孔明に策で勝てる要素など一つも無い、ということだ。諦めて素直に胸の内を打ち明ける。上手く伝わっているといい。私はいつも言葉が足りない、と言われるからな。
「……お前ときたら、いつも口が達者で困る。あのな、私もだ。私はお前ほど口が上手くないから、お前を褒めそやす言葉を操れないが、お前を好いている気持ちは負けておらぬぞ?」
 笑って告げる。
 だから大丈夫だ、安心しろ。肩肘張らず、ありのままでいれば、良い。
 見つめる孔明の頬が赤くなった。嬉しそうに笑っている。良かった、どうやら伝わったらしい。
 まだ孔明の口を押さえていた手を取られて、甲に唇が触れてきた。
「ありがとうございます、我が君」
 孔明の笑顔と言葉に、私自身も嬉しくなるが、不意に掴まれていた手の指先を舐められて、口腔に含まれて驚く。反射的に指を取り返そうと力が篭もるが、甘えさせよう、我が侭を言わせようと企んだことを思い出して、力を抜いた。
 口に残っている酒の甘さよりも甘い空気が私と孔明の間に漂い始める。そのまま身を委ねてしまいそうになるが懸念を一つ思い出し、私は眉根を少しばかり寄せた。



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