「en――えん――2009年版」
諸葛亮編【艶 1】
 諸葛亮×劉備


 前触れもなくふらり、と殿が私の執務室にやってきたのは四半刻(30分)ほど前だ。辺りはどっぷりと夜が更け、冷え込んでいる室内を暖める炭の赤さを切らさないよう、気を付けつつ、日々の執務に私は追われていた。
 昼間はどこか浮き足立った様相を見せていた城内も、みなが寝静まる時刻となったせいか、しん、とした音が耳を打つかのように静かだった。
 殿の来訪に驚いたものの、酒を飲みたいからだ、と訪れた理由を説明した殿に、忙しかった私は外の寒さにも負けぬほど、冷たく「少し待っていて欲しい」と告げた。
 しばらく、私が机に向かって執務をしているのを、正面から椅子に座って眺め、大人しくしていた殿だったが、どうやら痺れを切らしたらしい。
「なぁ、そろそろ一息入れたらどうだ。折角、お前と飲むためにこうやって美味い酒を用意してきたんだぞ。なぁ。孔明」
 ちらり、と一瞬だけ殿を見やり、修正が途中の書簡へ目を落とす。
 しかし私としてもここは今日中に終わらせておきたい部分なだけに、心騒ぐ誘いにも、あえて素っ気無く答えた。
「それは大変嬉しいお誘いですが、ここの修正が終わりませんと明日の執務が滞りますので。何でしたら、お一人で先に飲まれては?」
「うん、しかし、酒なんぞ一人で呑んでもなぁ…。まだかかりそうなのか?」
 呆れたようなため息を吐いた殿は、つまらなさそうにだらしなく机上に顎を乗せ、ぼーっと私の手元を眺めている。
 人にじっと見られながら執務をするのは、少々落ち着かないものだ。
 しかも殿が相手となればなおのことだ。
 集中力を途切れさせないようにしつつ、返事をした。
「殿が大人しくなさっておりましたら、もうすぐ終わりますけども?」
 言いつつも筆を走らせる手は止めない。
 もちろん、もうすぐ終わるはずもないが、さすがに机上一杯に積まれた量を今夜中に終わらせるつもりは、私にもない。遠回しに、気が散るので目の前にいないで欲しい、と訴えたつもりだった。
「本当か?!じゃあ、大人しくして……って、孔明、まさかこの山を全部とは言わんよな?私ならば朝までかかっても無理だが…しかし、いや…うっ…だが…」
 ところが、殿は私の言葉を真に受けたのか、子供のように破顔してしまう。
 迂闊にも筆が止まりかけ、笑顔に見惚れそうになる。私の胸中など知る由もない殿は、次に山積みの書簡を目にして、驚きを面容に表した。つくづく、表情のよく変わる方だ、と思う。
 言葉の真意を図ろうとしてか、視線が私と書簡を行ったり来たりしている。
 殿の言葉に、私は皮肉と悪戯心を刺激された。
 にこり、と口角を釣り上げて笑む。たぶん、自分でも呆れるぐらいに満面の笑みだろう。しかし、告げる言葉に容赦はしない。
「もちろん、殿が手伝ってくださるのでしたら、さらに早く終わりますけれど、いかがなさいますか?」
 どうも私の呆れるほどの笑みは殿の好みらしく、いつも照れたように笑い返してくれる。今回も類に漏れず、恥ずかしそうに、どもりながら言葉を返してきた。
「…わ、わかったッ!ど、どれから片付ければよいのだッ?」
 意外な反応に、うっかり眉を跳ね上げて、驚きの表情を漏らした。てっきり、逃げ出すか。終わるころにまた来る、と言い出すか。はたまた気まずそうに黙り込むか、と思っていたが、中々殊勝な心がけだ。
 いつもこうだとありがたい、と思ったので、つい口に出していた。
「嬉しいお言葉を拝聴いたしました。普段もこれほどに素直でいらっしゃると、私も文官たちも楽なのですが」
 皮肉っぽくなるのは仕方がなかろう。
「そのような顔。いつも悪い…とは思っておるのだぞ。思っておるのだが、ついな」
 本当だろうか、と疑いつつも、姿勢を正して上目遣いで私を見て、肩を竦めながら笑われると、殿の笑顔には人の心を和ませる効果があるのか、ついこちらも笑みを浮かべてしまいそうになる。
 急いで膝の上に置いてある羽扇を持ち上げて、崩れそうになる顔を隠すことにした。
「仕方のない方ですね。ですが、珍しくもやる気になられていらっしゃいますし、うるさくは申し上げません」
 笑みを何とか治めて、羽扇を膝の上に戻す。
 危ないところだった。
 迂闊に甘い顔をすれば、敏い殿はすぐに調子に乗ってしまう。
 せっかくやる気になっているのだから、水を差さずに執務をしてもらおうと、私は机上に積まれていた書簡を、区分けした状態を崩さないように床へと下ろしていく。
 二人分の書簡が広げられるだけの空間を作り、決済をもらう予定だった書簡を幾つか広げた。
 もちろん、山のようにある書簡に比べれば、平地にも等しい量だ。
「それでは、殿はこちらをお願いいたします」
 手伝う、と言ってはくれたが、殿の集中力ではこのぐらいが的確だろう。長年の経験から冷静に判断を下す。
 まずは大人しく書簡に目を通し始め、執務室には沈黙が落ちる。
 しばらく書簡を読んで真面目に決済を通してくれていた殿が、そのままの姿勢でぽつり、と呟いた。
「これはそんなに急ぐものなのか?」
 やはり予想通り、早々と手より口が動き出したが、はて、と内心、首を捻った。殿の口調には政務を倦んで、というよりは、純粋な疑問に満ちていて、どうして今やらなくてはならないのか、と問いが含まれているようだった。
「なにか、他に急を要するものがございましたか?」
 急ぎの決済が他にあっただろうか、と模索する。それとも、緊急を要する案件であろうか。
 私は真剣に予定を思い出す。
 なぜか不思議とここ最近の城内は慌ただしく、落ち着かない。女官たちはせっせと掃除をしているし、男衆も駆り出されて大掛かりに庭の手入れや城の修繕など行っている。
 勤勉なのは良いことだ、と私は暖かく見守っていたが、昨日と今日は特にひどかった。あまりにもそわそわして落ち着きがないものだから、これは執務に支障が出る、と主要な者たちは帰し、一人残って執務をしていた。
 そういえば、糜竺殿たちも早々と執務を切り上げて休暇届けを出していた。まったく、この人手不足の中で、古参の方々が他の者に示しがつかない。
 と、関係ないことに考えが及びつつも、私は差し当たって急ぐ用件を思い出せなかった。
 筆を置いた殿は、私の表情を見やってから、やれやれ、と言わんばかりにため息をついた。
「…少しは肩の力を抜いたらどうだ?勤勉なお前は頼もしい限りだが…、そんなに張り詰めてると、見えるものも見えなくなるぞ?軍師殿」
 む、と胸の内で眉をひそめた。
 慈愛に満ちた面持ちで言われると、じわり、と炭にも似た暖かさが胸に満ちるのに、私の自尊心が小さく疼く。年下扱い(いや、事実年下なのだから仕方がないのだが)、子供扱いをされているような気分になるからだ。
 それとは別に、『軍師殿』という最後の呼びかけに引っ掛かった。
 殿の口調は明らかにからかいの色が含まれている。
 見えるものも見えない、とは、謎かけだ。
 自然と眉が眉間に集まるのが、胸の内に留まらずに面(おもて)へと現れる。
 冬の貯蓄食料も、今年は豊作だったため、何も心配はない。
 春へ向けての治水工事は予算の目処がつきそうで、人員や材料、工具も近いうちに揃えられる。
 先日採用した文武官の割り振りはまだだったが、彼らの人柄や能力が未知数のうちは色々なことをやらせたほうがいい。
 外交面では孫乾殿から何も危惧する報告は上がっていないし、町の人間たちも大きな不満はないようで、簡雍殿は暇だ暇だ、と一人騒いでいた。
 あえて言うなら予算面は常に不安が付きまとっているが、糜竺殿が資金繰りに動いてくれている。
 やはり急を要するものが見当たらない。
 目の前の案件をまとめることこそが、優先順位としては正しいはずだ。
 しかし殿は困った奴だ、という面容で眉を寄せて苦笑した。
「…お前らしいといえば、らしいが…」
 机に両手をついた殿の顔が唐突に近付いて、頬に柔らかな感触が押し付けられる。
「もう今日と明日は執務は終わりだ。お前が動けば、下の者も働かねばならんのだ。私がずっと傍に居て見張っておるから、ごまかせんぞ?」
 一瞬だったが何をされたかは明白で、にやり、と笑った殿の顔が得意そうだ。
 突然の頬への口付けに身構えることも出来ずに無様に仰天し、握っていた筆を取り落としそうになる。
 殿の行為と慌てた自分に照れたが、殿の言葉に顔付きを正した。
「そのように勝手に決められては困ります。それにここ最近、他の者は何やら忙(せわ)しくなくしていたので、もう全員返してあります。私が切りが付くところまでやりたいだけですから」
 まだ執務に対する集中は途切れておらず、片付けておきたい案件が数件残っている。明日の業務を考えればなんとしても処理したい。
「勝手に決めてはおらんぞ。ちゃんと理由はあるのだ」
 心外だ、という表情を浮かべたが、殿はすぐににっこり笑い、筆を握っていた私の手首を掴んで軽く引いた。机上に反対の手をついたまま、今度は唇を啄ばまれた。
 ちゅっと触れ合った唇から音が立つ。
 敏感なところへの暖かく甘い感触に、不意打ちのせいか反応が鈍り、表情が繕えない。
「――っ殿!」
 声を荒げたものの、頬が赤くなったであろうことは自覚する。
 幾手も先を読むのが軍師、政を行う者として必要な資質であろうが、殿を相手にするとどうも上手く働かないことがある。特に主導権を握られてしまうと、認めたくはないが勝ち目はない。
 だからこそ、早めに劣勢は優勢へと傾けねばならないだろう。
「いくら誰も城内に残っていないとはいえ……。困ります」
 しかし困ったことに、奪われたのは唇だけでなく、政務への姿勢でもあったらしく、もう私は残っていた案件を進めることは放棄していた。
 すでに内心は殿の心躍る誘いに乗っている。
 頬を染めた私に気を良くしたのだろう。にやり、と笑いながら殿は反対の頬にも唇を寄せた。
「別に困らなくてもよいだろう。誰も居ないのなら二人きりだろ?」
 そろそろ不安定な姿勢に疲れたのだろう。握られていた手首が離され、殿が体勢を戻そうとした。
 すかさずこちらから手首を掴み返し、身を寄せて、
「ですから、困るのです」
 と、唇に軽く口付けた。
「……こういうことを、してしまいたくなるのですから」
 なるべく生真面目に告げたつもりだが、啄ばんだ唇は柔らかく、自然と口元が綻ぶ。
「――!」
 同じことをしただけなのに、殿はひどく驚いたようで動揺している。
「こ、孔明…!お前…」
 見る見る赤面していく。
 小さく綻んだ口元だったが、このような愛らしい表情をみせられてはなおさら緩まっていく。
 自分から仕掛ける分には大胆な行動も取るくせに、一度こちらが攻勢に回れば、まるで初心な娘のような反応をする。
 それが私に愛しさを湧かせ、同時に困ったことに悪戯心を生ませるのだ。
「どうかしましたか? こういうことを望まれておられたのでしょう?」
 耳元で囁いた。
 耳が弱い殿のこと、こんなことをすればどうなるか、戦の優劣を見極めることより容易いことだ。
「…ッ、そ…そうだがッ…、お前さっきまでは…気乗り薄だった……あッ」
 耳を庇いたかったのだろうが、体を支えていた手で行ったのはいただけない。もっとも、もう片方を私が握っていたのだから当然ではある。体勢を崩した殿は前のめりに倒れそうになり、書簡の山に突っ込む。
 がらがらがら……。
 世にも賑やかな音を立てながら、苦労して片付けて仕分けした書簡たちが床へとまき散らかされた。
 案の定、いや、むしろ想像以上の惨事にさすがに眉をひそめるが、自ら仕掛けたのだから仕方がない。
「……ですから、困ります、と」
 倒れ込みそうになった殿の体に腕を伸ばして支える。
 ちらり、と床に広がってしまった書簡を眺めつつ、さてこれを片付けるのにどれだけ労力が必要だろうか、と思案し、およそ出た結果に小さくため息がこぼれる。
 一方殿は、衝撃に耐えるためか体を硬くしていたが、私が支えたせいで閉じていた瞼を持ち上げ、決まり悪そうに笑った。
「…すまん…ありが…ッ…!!」
 謝ろうとしたらしいが、立ち上がった私が掴んだ手首と支えた腕に力を込めて、机上に引っ張り上げたので驚いたらしい。
「こうなっては、本当に殿に責任を取っていただきませんと」
 言いながら、上向いた殿の唇を塞ぐ。表面の柔らかさを少しの間味わって、舌を差し入れた。
「…んん……」
 突然の口付けに驚いていたのは初めだけで、すぐに殿は私の舌に応えるように絡み付いてくる。首筋に腕が回され、力が籠もる。自ら机上へ体を乗せたらしく、残っていた書簡がさらに床へと落ちていく音がした。
 しかし、私も殿との口付けを味わっていたので、先ほどよりも気に掛からない。
 しばらく室内には互いの舌を味わう淫蕩な音が響いていたが、そっと唇を離して殿を見下ろした。
「……どのように…とればよい…?」
 口付けの余韻だろうか。上気した頬と酔ったような面容を乗せて、殿は嫣然と笑んだ。
 ああ、この方は、と先ほど無惨に落ちていった書簡を見送ったため息とは違う吐息がこぼれそうになる。
 掴んでいた手首から指を滑らせて、殿の指と絡める。
 女のように柔らかな感触ではなく、少し汗ばんでしっとりしている男の手だというのに、私はいつものようにぞくり、と背筋が粟立った。
 欲している、と自覚をして、それでも認めるのが少し口惜しかったので、殿の言葉遊びに乗る。
「もちろん、散らかってしまった書簡の片付けをしていただきます。……私とともに、朝まで」
 魅惑的な殿の微笑に負けたくなく、からかいながらこの先を示唆する言葉を紡ぐ。
 同じ男として、殿に惚れた。人を惹きつけてやまない、と噂の御仁。逢って、私も同じように惹かれてしまった。
 しかしそれは、劉玄徳という人間の一面でしかなく、普段、臣下たちに見せているのは童のような顔、拗ねたようにする態度、朗らかに笑う声で、飾り気のない男の姿だった。
 執務を抜け出しては叱られ、無茶をしては窘められ、私も随分と殿に振り回されている。それでも最後には、皆は許してしまい、そして私も許している。
 そんな殿へ、ついに堪忍袋の緒が切れて、懲らしめるつもりでとんでもないことを仕掛けた。
 だがどうだったのだろう。あれは本当に懲らしめるつもりだったのだろうか。
 対等でいたいと、いつからか強く願うようになり、殿の傍に誰よりも近くにいたい、と努力していたのは、本当は何のためだったのだろうか。
 影で努力している私を知るはずもないのに、殿は思い出したように「無理をするな」と言葉をくれる。年上の余裕を見せて、時に私を息子のように扱う。それが悔しい、と思ってしまうのは、対等でありたい、と願う気持ちからだ。
 だからこそ、少しでも優位に立てる行為や、情を交し合うための駆け引きは楽しくて、饒舌になってしまう。
「…朝までとは…覚悟をきめねばなぁ…何からはじめようか軍師殿…」
 絡めた指をぎゅっと握り返されて、首に回されていた腕に殿の体重が乗る。背中から机へ倒れこもうとする殿は、今日は随分と余裕があるようで、少々下世話とも取れる笑みを浮かべる。
 ついいつもの皮肉がこぼれそうになるが、堪えて、覆い被さるように机上へと体を倒した。
「そうでございますね、まずは私から執務の意欲を奪ってしまった唇に、少々大人しくなっていただきましょうか」
 再び殿の唇を塞いで、舌を差し入れた。
 本格的に口腔をまさぐると、唇からは悩ましい声が漏れ始める。
「……ん……んふ…」
 いつの間にか殿の脚は私の脇にあり、体は完全に机の上にあった。
 私の執務の煩雑さを考えての、丈夫で広い天板は、男二人分の体重を加えてもビクともしない。
 瞼を落として私の口付けに応える殿は、舌に歯を立ててみたり、首に回っていた手で頭部に触れてきたりした。
 髪を梳かれたり頭を撫でられるのは好きだった。情の最中でなければ「また子供扱いをして」と憤るところだが、今は心地良さに目を細める。
 眼下では気持ち良さそうに私の口付けを受けている殿がいて、その表情を見るのが密かな喜びだ。
 空いている手で首筋や頬、耳に触れていく。
「…う…んん…」
 感じやすい耳を撫でられるのが善いのだろう。眉を寄せて息が乱れてくる。苦しいのか重ねている唇から逃れようと顎が上向く。
 その動きに逆らわず唇を解放するが、上気した頬に薄く唇を付けながら、指でいじっていた耳とは反対の耳へ口付け、言う。
「相変わらず、ここは弱いのですね」
「…はぁ…ッ…一朝一夕で…変わるわけがないだろ…んんッ……」
 何が気に入らないのか、私の髪を軽く引きながらこちらを向き、机に耳を伏せて隠してしまった。
 私と顔を突き合わせる形になった面(おもて)には、拗ねたような表情が浮かんでいる。
 快感には従順なくせに、照れてしまうところは堪らなく私を煽る。そのことを殿は存じているのだろうか。
「それもそうですね。それに、私が何度となく愛(いと)しんでおりますから、昔よりも敏感になられているぐらいでしょうか」
 すかさず、隠された耳とは反対の耳へ囁きつつ、
「こちらも」
 するり、と今度はもう一つの弱点である脇腹にも手を伸ばす。
「…ひぃあぁぁッ…孔めぃッ…!!」
 感じやすい箇所を二箇所とも触れたせいだろうか。体を跳ねさせた。薄く開いた唇から上がったのは艶かしい声と、やや非難じみた呼び名だ。
 反応の良さに目を眇める。
「そういえば、ここ最近は同衾しておりませんでしたね」
 殿の反応の良さを欲求不満なのだろう、とからかった意味もあるが、同衾をしていなかったのは本当だ。
 昨日、今日だけでない。ここ一月あまりは城内の人間だけでなく、私自身も多忙を極め、普段回廊を走るようなことはしないのだが、駆け回ったことも幾度かあった。
 よく考えれば、こうして殿と一対一で向き合って話をするのですら、久方ぶりだ。体を重ねるまでに至らずとも、二人きりで他愛もない話に興じる時間なら、ちょくちょくあった。
 それすらも出来ないほど、多忙の日々を送っていたことになる。体を重ねたことなど、果たしていつ以来だろうか。少なくとも、忙しくなる前は十日と空けずに抱き合っていた。
 そのことに気付き、急に殿への執着を覚えたところに、
「……忙しくしておるところに…無理は言えんだろ…」
 と、視線を外して気遣う言葉を口にされてしまう。
 思わぬ言葉に胸が苦しくなる。
 大切にされているのだと、実感させられる。この人は私が舞い上がる言葉をいつもどうしてくれるのだろう。
 ぎゅっと、殿の体を抱きしめて、蹲るように胸元へと顔をうずめる。心がほぐれる言葉に、私も素直に殿へ甘える。普段なら中々出来ない行為だ。
「……ありがとうございます」
 くぐもった声で、小さく呟く。
「……よいのだ…、しかし、結局無理を言ってしまったのだが…」
 背中に回された腕や、髪を梳かれる感触に身を委ねながらも少し照れ臭くなり、ついいつもの調子に戻ってしまう。
「構いません。私にも、殿のサボり癖が移ったようですから」
 ちらり、と顔を上げて、笑みを浮かべていた殿を見やり、口元を小さく歪めた笑みを刷く。
 誰かに、意地の悪そうな笑みだ、と言われたことがある。
 しゅるり、と殿の寝衣の帯をほどきにかかる。
 私の態度が変化したことに気付いたらしく、殿は息を詰めた。
「……!」
 体が硬くなり、帯を解こうとしていた手に手が添えられて止めようとした。
「どうされました? 責任をとって、朝までお付き合いいただけるのでしょう?」
 止められた手を強引に払い、帯を完全にほどいてしまう。
 合わせ目が緩んだ寝衣の下へ手を忍ばせて、胸の突起を指先に捉える。
「…んん…そ…そうだがっ…孔明…お前何か…ッ…あ・・・ん…」
 払った手で私の手を捕まえようとしたらしいが、胸への刺激に指先が震えている。ようやく縋ったのは私の袖口で、指先は頼りなげに衣の袖にシワを作った。
 布地の中で硬くなっていく感触を楽しみながら転がし続け、小さく笑って小首を傾げてみせる。
「何も? ただ、久方ぶりの殿の体は、ひどく感じやすくなっておいでなので、たっぷりと悦ばせて差し上げよう、と思っただけです」
 胸元の肌に舌を這わして、衣の下にひそんでいるもう片方の突起を、上から甘噛みする。
 悦の反動で殿の背は反れ、私に差し出すように胸が突き出された。そのことに気付いたのか慌てて体勢が戻り、
「…ひぁ…ッ…いつも通りでいいッ…そのような気遣いは…あん…」
 愛らしい声を上げながらも肩を押しやろうとしてくる。だが、力が上手く入らないのか、しがみ付くだけで終わる。
 本当に、快楽に弱いお方だ。
 こうさせたのは私でもあるが、素質があったのも違いなく、時々それを呪わしく思わなくもない。
 なぜなら、快感に従順であることは流されやすいことでもある。
「ですが、きっとこちらも私を忘れて、きつく狭くなっておられるに違いありませんし、色々と入念な準備も必要ですし」
 空いている手で、殿の後孔を探ってこすり上げる。
「……んあぁ…阿呆ッ…孔めぃ…ぃああッ…」
 身をよじって逃れようとしたらしいが、虚しい抵抗だ。
 敏感に反応してくれるので、嬉々として胸をまさぐったり、布越しに尖ってきた突起を舐めたりと愛撫を施す。
 寝衣が透けるほどしゃぶると、殿に告げる。
「こんなに尖っていますね。見えますか? 可愛らしい」
 私の言葉で殿は自分の胸を見下ろして、その様を目にしたようだ。羞恥心に駆られたのだろうか。顔を背けてしまう。
「…あッ…、悪趣味…だぁ…お前…ッ…いちいち説明など…ッ…」
「そうでしょうか? ……そうですね、寝衣が厚手でよく分かりませんし」
 嫌がる素振りを見せる殿の羞恥をさらに煽りたくなり、肌蹴ていた寝衣を剥ぐように広げて、上半身の肌を眼前に晒させた。
「これなら、もっとよく見えますでしょう」
 現れた胸の尖りへ指で触れ、舌をもう片方へ伸ばした。舌先に弾力を持って返される感触が愛撫に熱を入れさせる。
「…はッ…あぁ…み…見えなくて…いい…ッ」
 拒否する殿は、しかし胸を再び突き出すように逸らし、悦に悶えた。
 胸をいじり続けながらも、体に当たる殿の中心が熱を帯びてきたのに気付き、小さく笑う。
「早いですね。私と同衾しなかった間に、誰とも遊ばれなかったのですか?」
「…うるさい…そのような…こと…すると思うか…?」
 私とて、本気で言ったつもりはない。ないが、この人の感じやすさからくる、相手への依存や流されやすさがあり、本人が無自覚らしいことがもっとも危うい。
 それでも、殿が身を預けてくれるのは私だけだ、という自負はある。「好きだ」と殿から告げられて「お前に抱かれたいから、構われたいからこのような真似をした」と説明されて、ようやく自分の気持ちに気付き、馬鹿みたいに喜んだ胸裏は、今でも鮮明だ。
 何より、耳を染めて、悦のせいと感情の昂ぶりで潤んだ眼差しで見つめられれば、自分の失言を責める気すら起きてくる。
 宥めるように、音を立てて殿の唇を軽く吸う。
「申し訳ありません。……つい、感じやすい貴方を見ていると不安に駆られてしまうもので」
 しかし、どうして自分はこう底意地が悪いのだろう、と我ながら思う。こうして殿の心を試すようなことばかりを口にする自分が、時々だか嫌になりそうだ。
 反省する素振りを見せれば、殿は弾かれたように表情を真摯なものへと変え、私の目を射抜く。
「…お前だけだ…。お前が…こんな身体にしたのだ……ッ。不安になどならなくても…私は男はお前しか知らぬ…ッ」
 知っていますよ。
 そう耳元で囁き返そうか。
 執務をサボってばかりいる貴方を懲らしめるため、仕置きだ、と言って無理矢理抱いた。あのとき、嫌がる貴方を最後まで抱いてしまったのは、今思い返せばたぶん、あの頃から好きだったのだろう。
 自分の発言に恥ずかしくなったらしい。赤くなっている頬を隠すように、首筋を掻き抱かれ引き寄せられ、肩口に顔をうずめてきた。
 庇護欲と嗜虐心を刺激されるような言動をする殿に、私の囁きたかった言葉が変化する。
「では、私の不安を取り除いてくれますか? 殿の全てを、私に見せてください」
 素直に私の言葉に頷き、胸元を剥いだだけの寝衣を殿は脱ぎ始める。恥ずかしいのだろう。肩口に顔を隠したまま、下穿きの帯に手を掛けた。
 脱ぎづらいだろうことを考慮して私は机上から床に降りる。床に散らばっている書簡を踏みつけないよう、細心の注意が必要であり、一瞬ばかり片付けの煩わしさが頭を過ぎる。
 しかしそれも、目の前で行われている魅力的な光景に押しやられた。
 私が身を引いてしまったのが気になったのか、下穿きを脱ぎかけて殿の動きが止まる。さぁっと、頬の色が増して、眉が中央に寄っていく。何かを言いたげにこちらを見て、しかし瞼を閉じてしまった。
 殿は時々、年老いた体など眺めても楽しくない、醜い、などと拗ねたように言うが、私には十分扇情させられる肢体だ。
 浅く呼吸を繰り返す胸の頂で、赤く色を含んだ飾りがイヤらしく尖っており、薄布である下穿きを張り詰めさせている雄身は、己に付いているものと同じとは思えない愛い反応を見せてくれる。
 歩んできた年月を慮らせる目尻や口元の皺など、頬を染める朱色や流れていく涙で色香すら醸し出す。
 何より、みなを導くとき凛と張る声や、慈しみが滲む声音が、私に抱かれているときは甘く掠れて、ひたすら強請(ねだ)る声など雄身に直接響くほどだ。
 閉じられていた瞼は僅かの間で、また持ち上がり「……孔明」と呼んだ。
 半身を起こした殿は、再度私を見つめて、そのまま下穿きを脱ぎ切った。だが、そこが限界だったのか、視線は逸れていってしまう。
「寒くはありませんか?」
 裸身を晒している殿を案じて、問い掛けた。
「……寒い、孔明」
 文句なのか照れ隠しなのか判別がつきにくかったが、ぼそり、と呟いた口調は拗ねたものに聞こえたので、恐らくは照れているだけだろう、と判断することにした。
 それならば、と私の心に芽生えた悪戯心は薄れていなかったようで、過剰なまでに深刻な表情を浮かべた。



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