「桃三劉五拾(とうさんりゅうごじゅう) 1」
オヤジ劉備読本より
 諸葛亮×劉備


「兄者〜、そろそろ戻ったほうがいいぜ」
 張飛の呼び声に、劉備はうむ、と生返事をする。
「俺も同感だ」
 隣で簡雍が垂れた釣り糸を引き戻し始めた。それを横目で見てはいるのだが、劉備は諦め切れずに釣り糸の先を睨み付けていた。
「これは降るぜ?」
 黒く重そうな雲が、出番はまだか、と青い空を多い尽くそうとしている。それを眺める張飛は、続けて劉備を急かした。
「分かっておる」
「意地張るなよ、玄徳」
 返事をするわりに動こうとしない劉備へ、簡雍が肩を竦めた。
「意地など張っておらん!」
 すっかり片付け終わり、帰り支度となった二人をちらっと見やり、劉備は反論するが、張飛は虎鬚をぽりぽり掻き、簡雍は呆れたように空を見上げた。
 二人の顔には、はっきりと、
『それが意地だって言ってんだ』
 と、書いてあった。
 成都からほど近い、少し目を向ければその居城が見えるほどの距離、そこを走る川の畔で、三人は釣り糸を垂らしていた。
 誘ったのは劉備だ。
 以前、簡雍に釣りの穴場があることを聞いていて、劉備は行ってみたくて仕方がなかったのだ。
 それはもう、日程を決めた日から七日ばかり、この日を楽しみに一日一日を過ごしてきた。今回は執務の合い間、息抜き(という名のサボり)という名目ではなく、正式に休みを貰ってのことだ。
 いつもは帰った後の諸葛亮の大目玉を怖がりながらなので、心から休まることはない(というか、怖がるぐらいならやめればいいのだが、そこは恐怖心より怠惰心が勝ってしまうらしい)。しかしその心配は全くないのだ。
 この休みをもぎ取るために、諸葛亮に頼み、宥め、拝み、果てには泣き付いて、ようやく、政務をある程度片付けられたなら認めましょう、と言われて許可が下りたのだ。
 どれだけ必死で政務をこなしたことか。
(憲和が、諸葛亮やみんなに迷惑をかけないっていうんなら、教えてもいいけどな、などと言わなければ、内緒で行っていたぞ!)
 と、心の中で妙に似ている簡雍の物真似をしながら、全くもって職務不熱心なこの成都の君主は思ったものだ。
 劉備の旗揚げ以前よりの付き合いがある簡雍は、劉備の悪友と言っても良かった。劉備が政務を投げ出すのを手伝うときもあれば、逆にそうして諌めることもする。
 もっとも、諌めるのは劉備が政務に苦しむところを見て楽しむため、という悪趣味のせいだ、と劉備自身は信じているし、事実そうだったりする。
 何にせよ、そうしてまで必死でもぎ取った釣り日和の今日、実は釣果がなかったりする。
 朝出かけるときは、みなに意気揚々と「今夜は新鮮な魚料理が並ぶぞ」と宣言してきた劉備だ。まさか一匹も釣れないのでは、帰るに帰れない。ましてや、一緒に誘った張飛や簡雍も釣れなかった、というならともかく、劉備だけが全く掛からない。
 初めは、左右の二人の竿が揺れれば一緒に騒いでいた劉備も、その内段々と焦ってきて、果てには場所の交換やら竿の交換までしたのに、結局は水桶に魚が入ることはなかった。
「こんなときもあるって、兄者」
「そうそう。案外、お前っていう大物が怖くて避けているせいで、俺らの竿に掛かっちまうのかもしれないしよ」
 張飛と簡雍の慰めも徐々に虚しくなり、ついには天気までも劉備にそっぽを向き始めたようで……。
 もくもくと広がっていく黒色の雲に、湿気を含んだ風が三人の鼻をくすぐれば、ここに住み始めてだいぶ経つ身としては、雨が降るのは容易く読み取れた。
 あっさりと「帰るか」と口にした二人に劉備が反発したのは、まさに意地以外の何ものでもなかった。
 慰めの言葉や促す言葉をやんわりと続けていた張飛たちも、劉備が梃子でも動かない様子を見せると、呆れ返った。
「お前たちは先に帰れ」
 釣り糸の引きを一瞬でも見逃すものか、と睨みながら、劉備は二人を促す。
「それが出来たら苦労しないっての」
「護衛を兼ねているんだから、無茶言うなよ」
 簡雍が文句を付け、張飛が口を尖らす。
 いくら城が目と鼻の先、と言えども、劉備を一人で釣りに行かせることなど、誰もが反対しただろう。それこそ、残念そうに見送った軍師など、絶対に許すはずがない。
『私も殿とご一緒したかったですが』
 出かけ際、張飛と簡雍の後ろで恨みがましく呟く諸葛亮に、条件反射のように二人の背中には冷や汗が流れたものだ。
 がさつに見えて、人心の機微には敏いのだ。諸葛亮の、続いた言葉は容易く想像がついた。
『本来なら私が共に参りたいのですよ。その私がご一緒できないのですから、しっかりと殿をお守りしてくださいよ。もしも何かあった日には……』
 という『……』の後は想像もしたくないし、想像も出来ないので決してしない。だが脅しにも似た(というよりそのもの)威圧感を誰よりもはっきりと受け止めた。
 もちろん、軍師に言われるまでもなく、二人にとっても大事な人だ。危険な目に合わせることはしない。
「早くしねえと、兄者の嫌いな雷が鳴り出すかもしれねえぜ」
 時は夏だ。雨自体は冷たくないかも知れないが、雷が伴う雨は危険である。なおかつ、雷は劉備の苦手とするものだ。
 ぴくっと釣竿を握る手が震えたのを二人は見逃さなかった。
「よし帰ろう」
「すぐ帰ろう」
 呼吸を合わせて劉備を挟み込み、釣竿を取り上げてその体を抱えた。
「嫌だ〜、まだ帰りたくない〜」
 人間、歳を取ると丸くもなるが、その一方で時々自我を通して我が侭にもなる。それは劉備も同じようで、ジタバタと二人の腕の中で暴れた。
「兄者!」
「玄徳!」
 そんな劉備を嗜めることが出来るのも、諸葛亮を置いてこの二人ぐらいだろう。全てにおいて、今日の選抜は適材適所であった。
 ここまで来たら引きずってでも連れ帰ろう、と強行手段に出た二人であった。だが、それは少し遅かったようだ。
 ぽつり、ぽつり。
 遠慮がちだった天からのすすり泣きは、すぐに号泣へと変わった。
「やべ!」
「降り始めたか」
 張飛と簡雍は慌てて釣り道具や釣果の詰まった桶を引っ掴んで、空いた手で劉備の腕を引きながら、成都城へ駆けたのだった。


          ※


 雨が降り出したことに、趙雲はすぐに気が付いた。
「殿は、まだお帰りになられておりませんよね」
 軍備の打ち合わせを諸葛亮としながら歩いていた。諸葛亮はその整った顔を曇らせて、はい、と答えて空を見上げた。
 二人が立つのは回廊の隅、執政宮の中ほどだ。
「迎えに参りますか?」
 自分には構うな、というつもりで。また忙しい諸葛亮の背中を押すつもりで、趙雲は切り出した。
「子供の使いを心配する親ではないのですから、雨が降ったぐらいで」
 それに、張飛殿や簡雍殿が一緒ですし、と続ける諸葛亮を見やって、趙雲は苦笑した。
 事も無げな口振りとは裏腹に、諸葛亮は羽扇を忙しなく扇いでいる。
 主君を案じる気持ちを偽ることに、意味などないのに、と実直が売りの将軍は思ってしまうので、
「あまり素直でないのも、損をしますよ」
 と、忠告したのだが、それは激しい雷鳴に掻き消された。
「これは凄い」
 目を見張り、激しい稲光に天を仰いだ。
「このように激しい雷は久しぶりではありませんか? 軍師」
 空へ向けた視線を諸葛亮へ返せば、なぜか軍師はすでに背を向けて回廊の先を歩いているではないか。
「軍師?」
 呼び止めると、ちらっと諸葛亮は振り返り、激しく地面を叩く雨音にも負けない声で返してきた。
「迎えに行って参ります!」
「気を付けて!」
 趙雲も声を張り上げて返した。
 せかせかと歩んでいく軍師の背中を見守りながら、趙雲はくすり、と笑った。
「素直が一番ですよ、軍師殿」


 そんなことを趙雲が呟いているとは露知らず、諸葛亮は劉備たちが帰って来るであろう門へ向かっていた。
 雨除けの外套を途中でしっかりと調達して(ただし自分の分と劉備の分しか用意しない)、軒下より飛び出そうとしたときだ。
 雨の飛沫で煙る先から、三つの影が見えてきた。背格好からして劉備たちであろうと察し、諸葛亮は声を上げた。
「こちらへ!」
 向こうも諸葛亮に気付いたらしく、ばしゃばしゃとすでに池か川のようになっている地面を駆けながら、屋根の下へ飛び込んできた。
「大丈夫ですか、殿?」
 自分の衣が濡れることも厭わずに、諸葛亮は懐にあった手ぬぐいで劉備の顔や身体を拭こうとした。
「いや〜、参った参った。降るなら降るって、予め言っておいて欲しいよな〜」
 かなり無茶なことを言いながら、簡雍が袖や裾を絞っている。その横で張飛も犬のように身体を振って水気を飛ばしている。
「この時期の天気って、ほんと読めねえよな」
「殿?」
 そんな二人を聞き流し、諸葛亮はせっせと劉備を拭っていた手を止めて訝しむ。
「……」
 無言の劉備の身体は震えている。
 気候は暑かろうとも、この大降りだ。体温が急激に奪われて冷えることもあろう、と諸葛亮は考え、すぐに提案する。
「風呂を用意させますので、すぐにお身体を温めてください。誰か……!」
 小姓を呼び付けようとしたが、劉備が一人で歩き出してしまうので、呼び止めた。
「どちらへ? そちらは湯殿とは逆ですが」
「……る」
 雨音に掻き消されて、劉備の声は聞こえなかった。
「兄者!」
 追い駆けたのは張飛で、劉備の腕を掴んで言う。
「せめて着替えてからにしねえと、風邪ひいちまうぜ」
 それに対して、劉備は一言二言答えたようだが、張飛のように地声が大きいならともかくとして、今の状況では諸葛亮のところまで声は届かなかった。
 もどかしくなって諸葛亮が歩み寄ると、劉備は張飛の手を振り払って駆け出してしまった。
「兄者! ……ったく仕方ねえな」
 ぼりぼりと頭を掻いて、張飛はその背へ向けて怒鳴る。
「ちゃんと着替えろよ!」
「張飛殿、殿は?」
 わけが分からない諸葛亮は、張飛に答えを求める。
「寝るって」
「寝るって、まだ夕刻ですよ?」
「不貞寝だよ、不貞寝。後は雷が怖いんだろ」
 口を挟んだのは簡雍だ。
「魚が一匹も釣れなかったのが悔しかったんだろう。あれだけ大きなことを言って出かけたのにさ」
 うぅ、気持ち悪い、と言いながら簡雍は沓の中に入り込んでいたらしい水を外へ空けている。
「そのような、子供ではないのですから」
 笑い飛ばしてしまいたかったが、日頃の劉備の言動を振り返り、否定できなくなった。
「せめてちゃんと着替えてくれりゃいいんだけどよ」
 心配する張飛に、諸葛亮は半端に笑いかけた口元を引き締めた。
「そうです。お風邪を召されたら一大事です。着替えるのをお手伝いしてきましょう」
「あー、でも部屋に入れないと思うぜ?」
 張飛に止められて、そうだった、と諸葛亮は天井を仰ぐ。
 基本的に、彼らの主は人に好かれ、その穏やかさは雪解けの始まる春のようであるが、時折それらは思い出したかのように、冬へ逆戻りする。
 そうなった劉備といえば、まさに子供そのもの。臍を曲げたか、天邪鬼か。
 普段から感情の起伏でも激しいのならこちらの適応力も上がろうものだが、穏やかであることが平時である。楽しいことには食い付くし、興味をそそられないことには全く見向きもしない。まるで人生という酒を美味いうちに飲み干そうとする勢いで毎日を生きている。そんな劉備は、良く笑いはするが、機嫌が悪くなることはあまりない。いや、あるのだろうが、あまり表には出てこないのだ。
 そんな普段が普段なので、その時々のことを人々は忘れがちだ。
 果たして気付けるのはこの城で何人いることか。

 以前も、何の拍子だったか。
 諸葛亮が劉備を叱り付けたことがあった。
 劉備より遥か年下である諸葛亮が、まして臣が主を叱るなど、そうそうある光景ではないが、この二人の間ではままないことではない。
 それだけ二人の仲が気心知れたものである、という証でもあるが、要するに劉備があまりにも政務を抜け出して城下へ出かけるものだから、諸葛亮が堪忍袋の緒を切らしたのだ。
 しかしそれが困ったことに、正当な理由があった怠慢であることが判明し、それを台無しにされてしまった劉備はすっかり機嫌を悪くしてしまった。

「丸一日、お部屋から出てこられませんでしたね」
 思い出して、諸葛亮は嘆いた。
「今回はその記録、破りそうじゃないか?」
 賭けるか? と調子に乗る簡雍を、諸葛亮は静かに、それは静かに睨み付けて黙らせた。
「おっかね」
 簡雍の言葉は無視して、諸葛亮はとにかく説得あるのみ、として劉備の後を追い駆けた。
「これ以上、兄者の機嫌損ねんなよ、諸葛亮〜」
 張飛の声を背中に受け止めながら、劉備の私室へと向かった。
 ずぶ濡れの劉備が通った後は、さながら雨上がりの道端のように、水溜りが出来ている。それらを踏み越えて私室の前までたどり着けば、案の定、警護の人間が弱り果てた顔で戸の前に立っていた。
 恐らく彼らも劉備を引き止めたのだろうが、いかんせん、臍を曲げた劉備に敵うものはいない。
「軍師殿」
「分かっております。貴方たちは下がっていて結構ですから」
 これから繰り広げられる論争は、あまり下の者には聞かせたくなかった。
 拱手して下がった警護の人間が完全に姿を消すのを待ってから、諸葛亮は戸に手をかけた。
 予想通り、つっかえ棒でもされているのか、押しても引いても戸は開きそうになかった。
「殿、お着替えはなさいましたか」
 相変わらず雨足はひどく、声を張り上げないと部屋の主には聞こえそうになかった。
 耳をそばだて、中の様子を窺うが、返ってくる声どころか動く気配すらない。
「殿、おられるのでしょう。お答えいただけないのなら、ここを破ってでも入らせていただきますよ」
 どん、と強く戸を叩き、脅迫とも取れることを言う。
「お前、主の部屋を何とするつもりだ」
 ようやく、劉備からまともな言葉が返ってきた。ほっとしつつも、その語尾が微かに震えていることに、諸葛亮は小さく眉を寄せた。
 雷鳴の恐怖からならまだいいが、これが寒さのせいだったら一大事である。
「殿のお使いになる部屋など、幾らでも取替えが利きます。ですが、殿の御身は出来ませんでしょう。どちらが優先かなど決まりきっています」
「いいから放っておけ。私は今誰とも会いたくない」
「そのようなことを……。何に心障りがあったか知りませんが、お部屋に籠もってはますます陰(いん)が強くなるだけですよ」
「知らん。とにかく、お前といえども会いたく……っっ」
 また、耳を劈く雷鳴が天に響き、地を揺らした。
 その音に掻き消されるように言葉が切れ、劉備が悲鳴を上げたのが聞こえた。
 普段、劉備は雷が鳴れば寝所で寝具に潜り込むか、張飛のところへ駆け込むかしているのを知っている諸葛亮としては、一人で耐えるこの時間がどれだけ心細いか理解している。
「殿、せめて雷が暴れているときだけでも、私を傍に置いてくれませんか」
「い、嫌だ!」
「どうしてですか」
「御免こうむる」
 きっぱりと断られ、諸葛亮はきつく眉を寄せた。今度は劉備の身を案じてではない。頼られない己の不甲斐なさと、頼ってくれない劉備に腹が立ったのだ。
「そのように、いつも子供のような我が侭が通るとでも思っているのですか」
「うるさい!」
「うるさいとは何ですか! 私は殿の身を案じてこうして」
「いいから行け! しばらく誰も部屋に近付けるな!」
「殿! あまりそのように反抗するのでしたら、こちらにも考えがありますよ」
「……」
「この後ひと月、休みなしで殿には政務に専念してもらいます」
「脅すな!」
「脅しではありません。交換条件です。大人しく部屋に入れていただけたら、そのような真似はいたしません。第一、魚が釣れなかったぐらいで部屋に籠もるなど」
「悪いか! 今日の釣りは、前からずっと楽しみにしていて……」
 また、雷が鳴り響く。戸の向こうで劉備の声が掻き消える。
「怖いなら、そちらへ行きますから、開けてください」
「嫌だ!」
 泣きそうな声のくせに、まだ我を通すつもりらしい。
「殿、どうしてそのように意固地になるのですか。開けてください。開けないのでしたら、本当に破りますよ」
「そっちがその気なら、こちらにも考えがある。……魚が釣れるまで政務はやらぬ!」
「殿!」
 眦を上げて叱る。
「嫌だと言ったら嫌なのだ!」
 まるで子供の喧嘩だ。
 だから、警護兵を下げたのだ。こんな見苦しい争いを見られたら、二人の沽券に関わること間違いない。
 まったく、諸葛亮も劉備以外の人間にはどれだけ罵られようとも冷静でいられるのに、どうしてか劉備と話しているとこうなってしまう。
 今回も、結局は脅した、脅さない、の水かけ論から始まり、最後には何に腹を立てているのかも分からない状況になり、諸葛亮は足取りも荒く劉備の私室を後にした。


 またやった……。
 自室に戻った諸葛亮は、作りかけだった設計図を前に、頭を抱えた。
 どうしてこうなってしまうのか、諸葛亮の聡明な頭脳を持ってしても不明だ。
(大体にして殿が年甲斐も無く、あのように我が侭なことを……。いけません、所詮は私の至らなさがいけないのですから)
 根本的に生真面目な彼は、どんな状況にあっても主に責任は押し付けられないのだった。
(ああ……! それにしても、どうして私はもっと素直に思いを口に出せないのでしょうか。あのようなことも言うつもりはなかったのに)
 と自責の念に駆られている諸葛亮の下へ、張飛が訪ねてきた。
「どうでしたか?」
「駄目だな、ありゃ。これは本格的に篭城だ」
 肩を竦めて、張飛はどかっと諸葛亮の前に、文卓を挟んで座り込んだ。さり気無く広げていた設計図を畳んで、諸葛亮はそうですか、と呟いた。
 説得に失敗した諸葛亮は、それで諦めたわけではなく、今度は張飛にその役を願い出たのだ。
 しかし結果は張飛の言葉で明白だ。
「だから、あれ以上兄者の機嫌損ねるなって言ったじゃねえか」
 呆れた口調で言われて、諸葛亮は肩を落とすしかなかった。
 黙り込む諸葛亮を見て何を思ったのか、張飛はぽりぽり、と虎鬚を掻いた。
「おめぇと兄者って面白いよな。俺や雲長の兄者が羨ましくなるほど仲が良いくせに、一度喧嘩すると中々元に戻らねえだろ」
 張飛は続ける。
「兄者も変なところで頑固だし、おめぇも意地っ張りで素直じゃねえからな」
 何でもお見通し、という張飛の言葉に、諸葛亮は少々居心地が悪くなる。
 こういう洞察力にかけては、張飛は動物的鋭さを発揮するらしい。
「適当なところで仲直りしろよ。そうしねえと、こっちまでとばっちり食らうし」
 とにかく、今夜は絶対に出てこないだろうから、明日の朝もう一度行ってみるわ、と張飛は言い残して、部屋を出ていった。
 はあー、と諸葛亮はため息をついて、途中だった政務へ頭を切り替えた。その方が余計なことを考えなくてすむからだった。


 ――翌朝――


 あれから仮眠を取ったものの寝付けなく、朝まで執務をこなしていた軍師は、もう一度主を訪ねようと、居城へ向かった。
 門を潜ったところで、血相を変えた侍女とすれ違う。数少ない劉備付きの侍女をしている者だ。
「どうしたのです」
「あ、諸葛軍師様、いえ、それが」
 慌てている侍女は挨拶ももどかしそうにして、
「殿が、死にそうだ、と口走られて」
 と告げた。
「何ですってっ?」
 もちろん、諸葛亮が飛び上がらんばかりに驚いたのは言うまでもない。
 劉備は命を狙われる立場にある。いくら仁徳で鳴らしているとはいえ、全ての人間に好かれることなど、どだい無理な話だ。
 間者が放たれ、劉備に危害を加えたに違いない。
「典医は?」
「今から呼びに参るところでございます」
「殿の傍には誰かいるのですか」
「張将軍が来られましたので、張将軍にお任せしております」
「では、私も参りますので、貴女も急ぎ典医を」
「はい」
 諸葛亮は昨日の歩調よりも早く、劉備の私室に向かう。
(昨日、警護の兵を一時でも遠ざけたのが悪かったのか。あの大雨に紛れれば、気配など幾らでも消せる。それを利用したのか。あのとき、くだらないことで腹を立て、殿を一人になどさせなければ……)
 昨日の比ではない自責に駆られつつ、廊下を走った。
 諸葛亮が辿り着くと、警護兵がいくぶん青ざめた顔で戸の前で立ち尽くしている。
「どういう状況でした」
 動揺も激しいというのに、諸葛亮は兵たちに質問を投げかけて、事態の把握を試みる。
「殿が朝になられても戸を塞いだままでして。私どもも心配で中へ入りたかったのですが、いくら声をかけてもお返事がなく。困っていたところへ張将軍が来られまして、戸を力任せに開けて中へ踏み込まれたのです」
「そして、殿が倒れられているのを見つけた、と」
 耐えていた動揺が漏れて、口調が荒くなる。しかしそこで兵たちは顔を見合わせた。
「それが、その……」
「それで、賊はっ?」
「いえ、ですから……」
「成都城、町の封鎖をしなさい。検問を敷き、怪しい者を逃さないように」
 口篭もり言いよどむ兵に痺れを切らし、諸葛亮は必要なことだけ指示して部屋に飛び込んだ。
 やはり戸にはつっかえ棒だけでなく、部屋にあった家具やらを寄せていたらしい。それを張飛が力任せに開けたせいで、戸の周りは足の踏み場もないありさまだ。
「張飛殿、殿は、殿のお加減はっ?」
 しかしそんなことに気も留めず、奥にある寝所に向かいながら、諸葛亮は劉備の傍にいるはずの張飛を呼んだ。
 すぐに張飛の声がした。
「静かにしろって。熱があんだからさ」
 寝所へ辿り着いた諸葛亮は、牀に寝ている劉備を見やり、そして張飛の言葉に愕然とした。
「熱……、ということはまさか毒ですかっ?」
 横たわっている劉備の顔は赤く、息苦しいのか、掛け布は胸の辺りで忙しなく上下している。
「はあ? 何言ってんだ、おめぇ」
「何の毒ですか。毒の種類さえ分かれば、すぐに解毒剤を調合しますので。……あぁ、殿、なんてお労しいお姿に」
 思わず枕元に跪いて手を握ろうとするのを、張飛に叩かれて止められた。
「落ち着けって。何を勘違いしてんだ。風邪だよ、風邪。こんなの誰が見たって風邪だろ」
「風邪、風邪という毒……。聞いたことがありませんね。これは急いで文献を調べ……」
 真剣に、頭に入っているだけの毒種を思い描き、そのどれにも当てはまらないので、これは……と立ち上がりかけたところで、ようやく我に返った。
「って、風邪ですかっ?」
「そ、風邪。だから、風邪ひくから着替えて寝ろって言ったのによ。俺がさっき顔を出したら、昨日のまんまの格好で寝てやがる。しかも濡れたまま布団に潜るから、牀の中まで濡れちまってるし。これじゃ風邪ひくのが当たり前だろう」
「ですが、先ほど侍女が、殿が『死にそうだ』とおっしゃった、と申していました」
「ああ、確かに言ってたな」
 事も無げに張飛は肯定する。
「ならばやはり重大な病なのでは……」
「ま、俺は風邪なんかひいたことねえから分からねえが、病のときってのは誰だって気が弱くなるもんらしいじゃねえか」
「ということは……」
 気が抜けて茫然自失気味の諸葛亮に被るように、劉備がうわ言を口にする。
「うぅ……翼徳、私はもう駄目だ……誓いを破ることになるが……」
 またか、と張飛は頭を掻く。
「だから、さっきから言ってんだろう。だいじょ〜ぶだから。医者も呼んだし、ほら、諸葛亮も来てんだし」
 どん、と背中を押されて、諸葛亮はつんのめって劉備に覆い被さる形になる。
 諸葛亮、と聞いてどう思ったのか、劉備の目が開いた。
「……誰が部屋に入っていい、と言った」
 間近で交わったはずの視線が、ぷいっと逸らされる。口調も、張飛にしていた頼りなげな感じは消えて、つっけんどんなものになる。
 内心面白くなかったが、ひとまず元気そうであるので胸を撫で下ろす。やはり劉備の身が危ない、と聞いたときの肝が冷える感覚が残っていたのだろう。
 笑みがこぼれた。
「お加減はいかがですか? 熱以外にどこか具合の悪いところは」
「構わなくていい。お前はすぐに出て行け」
 無下にされて、諸葛亮は笑みが引っ込みそうになった。
「まだ、昨日のことを? 魚など釣れなくとも殿の価値が変わることはないでしょうに。気にすることではありませんよ」
 ちらっと劉備の視線が一瞬だけ投げられた。熱のせいか涙目のそれは、本当に劉備が泣いているように見えて、諸葛亮を一瞬だけ怯ませる。
「それには触れるな。いいから出て行け、と言っている」
「そのようなことおっしゃらないでください。心配しているのですよ」
 なぜか劉備の目が険しくしかめられ、掛け布を頭から被ってしまった。
「どうだろうな。主に暴言を吐く臣が、本当に身を案じているかなど、怪しいものだ」
 その下から聞こえた言葉に、せっかく浮かんだ笑みが引き攣る。
「私をお疑いになられるとおっしゃるのですか?」
「別に……。ただ平気で主を脅す奴の性根など、冷たいものだからな」
「ほお、では殿は私のことを常々そう思っていた、というわけですか」
「違うのか」
 言い争う二人の間を割ったのは、張飛の呆れた声だった。
「兄者も諸葛亮も、何やってるわけ? 餓鬼の喧嘩じゃねえんだからよ」
 諸葛亮も分かっているだけに、少し気まずくなる。
「兄者は大人しく寝てる。諸葛亮はちょっと来い」
 ぐいっと張飛に腕を取られて、寝所から家具の散らかる部屋まで連れてこられた。
「ああなった兄者に、何を言っても無駄なの知ってんだろ? おめぇまでムキになってどーすんだよ」
 冷静に諭されれば、元来が聡明な諸葛亮はまったくその通り、と俯いた。
「とにかく、もう少しすれば兄者の風向きも変わるし、あれだけの口が叩けるんなら、風邪だって大したことないだろうし。おめぇ、今日も忙しいのか?」
「ええ」
 政務は山積みだ。しかも劉備が風邪で抜ける、というならなおのことだ。
「なら丁度いい。兄者も安静にしてなきゃいけねえし、少し時間置いてからまた来りゃいいだろう」
 張飛の提案は理に適ったものである。どのみち己の態度を振り返って、これは一度冷静にならねば、と思っていたところである。
 諸葛亮はその提案を受け入れた。



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