「言絡繰り・1」 諸葛亮、劉備を主と認めるも 5 諸葛亮×劉備 |
「信じられぬ、全く信じられぬ」 何度も繰り返し呟く劉備の言葉に、諸葛亮は平常通り、薄い笑みを貼り付けていた。 「申し訳ありません、と謝ったではありませんか。そう何度も言われると、自分がとてつもない大悪人になった気がいたします」 じろり、と劉備の目がねめつけた。 「そうではないのか?」 「どうしてでしょうか?」 すかさず言葉を返す。 「無理矢理に人を犯し、しかも主をだぞ? これが悪人でなくてどうするのだ」 「無理矢理とは人聞きの悪い。最後は殿も合意してくださったではありませんか」 例え、諸葛亮の追及を逃れるためだったとはいえ。 ぐっと言葉に詰まる劉備だったが、すぐに思い直したようで、言い返してくる。 「あの状態で止められているほうがよほど辛いのは、お前も男なら分かるだろう。その上でことに及んだのだ。確信犯ではないか」 「では、私を罪に問うと? 私は構いませんが」 「またそれだ。私がお前にそのようなことが出来ないことを知っていて言うのだから、性質が悪い」 すでに諸葛亮は劉備の筆頭の臣下だ。牢に繋ぐにしろ、罰を与えるにしろ、罪状を明らかにしなくては皆が不審がる。 「ま、私にしたことを、お前にする、というのも残っているが」 気付いたか、と諸葛亮は思ったが、劉備自身が口にした途端、嫌そうな顔になったので、黙っていた。 「御免こうむるな。私は、男は抱きたくない。しかも自分よりも背の高い、こんな可愛げのない男なんぞ、頼まれても嫌だ」 そこまで否定されるのも、妙に腹の立つ話だが、それは諸葛亮も望まないところであったので、胸を撫で下ろす。 「しかし、何かしら報復せぬことには、この体の節々や口にもしたくないところの痛みの腹立たしさが治まらん」 「ご自分も気持ち良さそうでしたけど」 「何か言ったか?」 小声で呟いた諸葛亮の本音を聞き咎めた劉備に、いえ、と澄ましてやり過ごす。 「むしろ、私としては殿の執政に対する態度こそ、改めるべき対象かと思っておりますが?」 薄かった笑みをくっきりと描いて見せれば、劉備は口を閉ざして、会話は終わりになる。 未だに二人は、劉備の執務室に籠もっていた。 幸い、誰に見咎められることもなく、事後処理もすまし、気まずいながらも二人で溜まった書簡に何となく目を通し始め、今に至る。 「ここに入ってきたときのお前の殊勝な態度は何だったのだ」 よほど書簡を読むのが嫌なのか、納得していないのか、口を噤んだはずの劉備は、またぶつぶつと呟き始めた。 「またそのように。気がすまないのでしたら、やはり私に罰をお与えください」 これでは溜まっていた書簡が片付かない。 何より本当は、諸葛亮は自責の念に駆られていた。 勢いとはいえ、劉備にあのような真似をしたのだ。確かに途中で合意にはなったものの、あそこまでするつもりは毛頭なく、今でもどうしてあのようなことに、と思ってはいた。 罪に問われるのなら問われるで、望むところだった。 「だからそのようなこと、お前に……分かった」 同じ口上が流れるところ、思い直したのか、劉備は一つ大きく頷いて居住まいを正した。そうしてこちらを見据えたものだから、自然、諸葛亮も姿勢を正すこととなる。 「この度のことで、お前の行っている執務の煩雑さや尊さを、少しは理解したつもりだ。これからは極力サボらないようにする」 極力か、というつっこみは何とか堪えた。 「しかし、見逃して欲しいことが一つある。それを見逃すことが、お前への罰としよう」 じっと、劉備の口から放たれる言葉を待った。 「筵の売上金の行方は、どうか聞かないでくれ」 一気に緊張が解けた。 「何だ、そのようなことですか」 「そのようなこととは何だ、そのような、とは!」 思わず吐いた本音に、劉備は不服そうに声を上げる。 「お前、それを聞きたいがためにあのような真似までしたのだろう」 「ああ、あれは……」 違いますよ、と否定しそうになって、慌てて言い直す。 「その通りですけど」 「ならば金輪際、そのことには触れてはならない。それが罰だ。良いな」 「畏まりました。厳粛に受け止めます」 頭を下げ、臣下の礼を取り、諸葛亮は同意した。 「これで少しはすっきりしたな。……そのせいか、何やら腹が空いてきた。何せ今日は慣れないこともするし、思わぬ運動もさせられるし、ひどく疲れたからな」 ちくっと刺さる厭味は聞かなかったことにして、諸葛亮は窓の外を見上げた。 いつの間にか外は茜色に染まっている。 「そろそろ、夕餉の支度も始まっているようです。では、それまでこの一角の書簡だけでも片付けましょうか、殿?」 げっ、と劉備は顔を引きつらせるが、諸葛亮は有無を言わさずに文卓へ書簡を積み上げていく。 「片付けるまで、夕餉はなしですから、そのおつもりで」 にっこり微笑みかければ、またしても恨みがましい視線を送られる。 その横で、諸葛亮は軽快に墨を磨る。夕日の赤さと墨の黒さが諸葛亮の手の中で交じり合う。 ちらり、と劉備を窺えば、難しい顔をして書簡を読んでいる。その眉間に走った皺を見て、どきり、と諸葛亮の胸は音を立てる。 さて、私も男を抱く趣味はなかったはずですが。 実は筵の売上金などどうでも良かった。あのときは、先へ進む口実が、劉備にも自分にも欲しかっただけのこと。 政務さえしっかりと行ってくれれば、著しく権威を失墜させるようなことは別として、余暇で劉備が何をしていても、咎められる立場に諸葛亮はいない。 あのようなことを口にしてしまったからだろうか。 『お慕い申し上げておりました、殿。この体を腕に掻き抱くことを夢見ておりました』 嘘だとしても、口に出した言葉は力を持つ。一人歩きをする。 その怖さを、上に立つものとして、執政を預かる身として心に刻まなければならないようだ。 「まだまだ、ですね。私も」 淡い苦笑と声は劉備には届かなかったらしく、書簡から顔が上がることはない。 だから、少しの悪戯心で、そのわりには真剣に、諸葛亮は囁いてみた。 「貴方に、どこまでも付いて参ります。きっと私は貴方より長くこの世に留まるでしょうが、いつまでも私は貴方の志を追いかけます。どうかそれまで、一刻でも長く貴方のお傍にいさせてください」 お慕い申し上げております、貴方を主として仰ぐことの幸福感を与えてくれた、貴方という存在を。 後半は、口に出来なかった。 不意に劉備が顔を上げて、あの深く澄んだ瞳を向けたからだ。 「ありがとう、孔明」 そして笑ったから。 顔が熱くなる。 「聞こえていらしたなら、そういう態度を取ってください」 「すまない」 謝る劉備に反省の色は見えず、また書簡へ目を落とす。その手はしきりに顎鬚を撫でている。 (今度から、顔を隠す何かが欲しいですね) 妙に熱いし、羽扇でも持とうか、と考える。 私は、この方のたった一言にいつも縛られる。 身動きが出来ぬほどに、心地よく。 言葉には、それほどに力があるのです。 ※ 今日も今日とて、麗らかな午後。 またしても二人の人物が暖かな陽射しの中で、お茶を啜っていた。 「今日も良い天気ですね」 「ええ、本当に」 孫乾と伊籍は、先日も交わした会話を、またのんびりと交わしている。 そこへ、このまったりとした空気とは真反対の、ギスギスとした空気を纏った男が駆けてきた。 「おや、諸葛亮殿、どうかされましたか」 血相を変えている諸葛亮を見て、孫乾は全てを察するが、あえてのん気に尋ねた。 諸葛亮の片手にはなぜか添え木がされた筆があり(その筆は真っ二つに折られた形跡があった)、もう片手にはこの間から持ち始めた羽扇を持っていた。 「殿が逃げましてね、こちらには来ていませんか?」 冷え冷えとする声は、淹れたてのお茶すら冷茶にしそうではあったが、孫乾の微笑は崩れなかった。 「先ほど、関羽殿と張飛殿が調練に出かけましたから、後を追いかけたのではないでしょうか」 ばきっと、せっかく添え木がされていた筆が、音を立てて折れてしまう。 「ありがとうございます、孫乾殿。では殿がお帰りになったら、お教えいただけますか。すぐに私が参りますので」 プルプル震えている拳と違い、口調はあくまでも丁寧なのが恐ろしい。しかし孫乾は構わずに、そうそう、と言って懐から布袋を取り出す。 「これ、よろしかったら財政に充ててくれますか」 「これは……?」 今まで怒気に包まれていた諸葛亮は、瞬時に執政官筆頭の顔へと変わる。その切り替えの早さに、隣の伊籍はひどく感心しているようだった。 「いえ、ちょっとした金額なので大したことはありませんが、このお茶の葉を市で売り捌いたお金です。財政難は殿に従ってからは常のこと。皆、こうして小金を稼いでは補填しているのですよ」 湯飲みを持ち上げて、金の出所を明らかにする。 「焼け石に水、ですけどね」 だから誰もが黙っている。 黙って、劉備が築くであろう国のために働いている。 そして劉備自身も。 この孫乾が出した袋には、劉備が政務の合間を縫って作った筵で稼いだ金も入っている。しかし、それは内緒にしておいてくれ、と言われているので、誰にも言ったことはない。 筵を売り切った打ち上げで酒を楽しんではいるが、それも微々たるものだ。 「そんなことを……」 諸葛亮は渡された布袋を握り締め、じっとそれを見つめている。 「ありがたく、受け取らせていただきます。そして必ず、皆がこのようなことをしなくともすむ執政を整えてみせます」 英知を灯した相貌に、孫乾は頷き返す。 「期待していますよ。やはり私も歳らしい。ついつい、このようなことを口にしてしまう」 「それは、やめたほうがよいですよ、孫乾殿。言は口に出してしまうと力を持ちます。貴方にはまだまだ活躍していただきますから、歳などとおっしゃらないでください」 では、と来たときよりも幾分落ち着いた様子で帰っていく諸葛亮を見送り、二人は微笑み合った。 伊籍が言う。 「若いですね」 「しかし、賢い」 「さすが劉備殿が選んだお人です」 「ところで、覚えておりますか」 「ええ、もちろん」 「賭けは」 「孫乾殿の勝ちですね」 諸葛亮が心の底より劉備を主と認め、呼称すら改める。 その日数が賭けの内容。 「三日とは、ぴったりでしたね。何かなさりましたか、孫乾殿は?」 「さて、何のことでしょう。私はただ、あの若さを間違った方向へ行かせたくなかっただけ。そして、貴方を迎えたかった」 賭けたもの。 孫乾はお茶の束。 伊籍は……。 「今は一人でも多くの人材が欲しいとき。この地に長く根を下ろした貴方の人脈、人柄、そして何より早くから殿を理解し、護ろうとしてくれた心意気に惚れました」 「いえ、私は孫乾殿が言うほど、立派な人柄ではありませんよ。ただ、私は同郷である劉表殿を裏切ることになる。その踏ん切りがつかなかった。それを、戯れに任せて賭けの対象にした。そんな人間です」 賭けの対象は劉備への随従。 「ご謙遜が上手い」 「参りましたね。これ以上は褒めてくださらないでください、孫乾殿」 「これからも、よろしくお願いします、伊籍殿」 「ええ」 午後の陽射しはどこまでも柔らかく、乱世を遠くに思わせる。 しかし戦は確実に忍び寄っている。 また、お茶をのんびり啜れなくなる日は近いだろう。 だからこそ、二人はことさらにのんびりと湯飲みを傾ける。 「どうか、この平和がいつまでも続くように」と。 口に出した言葉が力になるのなら、いくらでも口にしようと、二人は青い空に向かって呟いた。 終幕 |
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