「琥珀と橙の賭け 1」
 無双5準拠
関羽×劉備(曹操×劉備含む)



 陽光に反射した銀色の光が目を焼いた。隣から切りかかった男をいなしたばかりの兄は身動きが取れないようで、兇刃に無防備に身を晒している。
 兄者――
 叫ぶよりも早く己の体は跳躍していた。相方である偃月刀ごと兇刃を翳す男へと体当たりをする。
 ざくり、と肉を裂かれた痛みが走った。顔を歪めたものの、体当たりで吹っ飛ばされた男へ偃月刀を振り下ろす。
 倒れ伏した男に目もくれず、あらかた片付いた戦場の様子を省みてから兄の安否を気遣ったが、泣きそうな顔で詰め寄られた。
 怪我をしたのか、私を庇ったために。
 腕から流れる血に指を伸ばし、掴まれた。剣を握り、農民と同じように鍬を握っていた指は綺麗ではなかったが、暖かかった。
 このぐらい、舐めておけば治ります、笑って答えた己に対し、兄は真剣な顔で聞き返した。
 本当か?
 言うなり兄は腕の傷へ舌を伸ばして舐めてきた。
 くすぐったさと驚きに腕を引きかけたが、必死の表情に成すがままとなる。
 兄者――
 弱り果てて兄を呼ぶ。
 雲長は私の大切な弟だ、その身が傷付くことは私の身が切られることよりも辛いのだ。お前に庇われないほど強くなる。だから、お前も自分を大切にしてくれ。
 訴える兄に、短く「はい」としか答えられず、暖かい指と舌の感触に、しばらく身を委ねたのだった。



   *****



「のお、劉備」
 また、何を質問されるのだろう、と劉備はやや緊張して何でしょうか、曹操殿、と答えた。切れ長の、鳳眼(ほうがん)である目尻が朱に染まった眼差しを向けられるのが、劉備は苦手だった。
 初めて、男の視線を浴びた時から苦手だった。
 董卓討伐の連合軍駐屯地にて、曹操は関羽に何やら話しかけていた。
 董卓、という暴威に晒された朝廷と民を救うために集められた諸侯、それをまとめ上げる盟主、袁紹からして、この戦から利を得ようとしているのは明白だった。それらに嫌悪を覚えているのは劉備も関羽も同じであったが、関羽に近付いた男はこう言ったという。
「そう露骨に嫌な顔をせずともよかろう。凡夫(ぼんふ)とは概(がい)して卑見(ひけん)の欲に生きるもの。違うか、関羽」
 自分の名を知っていたことに驚く関羽に、続けて曹操は言った。
「お主が凡夫を嗅ぎ分けたように、儂も英雄を嗅ぎ分けたまで。急ぐことは無い。この曹孟徳と盃を交わしていけ」
 関羽は武人の務めがあるので、盃は交わせない、と断ったそうだが、そのやり取りを少し離れたところで見ていた劉備は、背中を向けた関羽へ曹操が楽しげな視線を送っていることを気にかけた。
 曹孟徳。名前だけは実際の人物を見るまでもなく耳にしていた。そもそもこの董卓討伐軍が作られるきっかけを生み出した男、董卓討つべし、という檄文を発した男。文を劉備も目にした。文字はすでに写しであったため、曹操の字ではなかったが、文面は男のものであっただろう。読み終わったときには体の底から熱くなるような、何かに追い立てられるような高揚感が湧き起こる文面であった。
 旧知の公孫サン(こうそん)の計らいで平原(へいげん)の執政官をしていた劉備だったが、急いで公孫サンの下へ駆け付けて、参戦しましょう、と声高に申し出たものだ。
 連合軍の末席に加わったときも、曹孟徳なる男はどのような男だと、陣営内を歩き回って探したものだが、向こうは一所(ひとところ)に長く留まることを知らない男で、先ほどまではあちらの天幕に、いや、すでに出て行かれた。本日は馬の商人と話をつけるとかで、一つ先の城郭へ。午後からは軍議に参加されるとか。
 目まぐるしいことこの上ない。結局、劉備が曹操を初めて見たのは、関羽に話しかけているその時だった。
 戻ってきた関羽へ、勢い込んで訊いた。
「何を話していたのだ。あれが曹孟徳だろう」
 興奮を露わにした劉備に関羽はやや困惑しながらも、頷いて、先ほどのやり取りを聞かせてくれた。
「お前を英雄だと、曹孟徳は言ったのか」
「はい」
 重々しく頷いた関羽は、曹操と交わした会話を吟味しているかのようだった。沈思する弟をその場に残し、劉備はまだ留まっていた曹操の下へ駆けた。
「曹孟徳殿!」
 男の前に立った。一瞬ばかり驚いた顔をした曹操だが、じっと劉備を見つめ返してきた。
「劉玄徳殿か」
「私のことをご存知でしたかっ?」
 名乗るつもりで口を開きかけていた劉備は、驚きをそのまま口にした。
「関雲長を従えている男を知らぬはずがなかろう」
 篝火の中でさらに朱色が映えている唇をゆっくりと綻ばせた男は、はっとするほど人懐こい顔になった。どきり、と心臓が高鳴った。男の笑顔にではない。人懐こさに反比例するかのような、眼光の鋭さに気付いたからだ。
「公孫将軍の下にいるのだったな」
 はい、と押し出すように声を発した。緊張している自分を意識して、劉備は密かに驚いていた。幼い頃から物怖じはしなかった。人懐こいとも無頓着とも言われたが、自分を偽る術を知らないだけだった。ありのままに接することしか劉備は知らなかったのだ。
 だが、男の視線に晒されると、隠しているはずもない自分の奥底まで覗かれるような、そんな心地にさせられる。自分も知らない自分など存在するはずが無い、と否定して、劉備は笑いかけた。
「先ほど、雲長……私の義弟を褒めていただいた、と聞いたもので。礼を申し上げたくなりました」
 半分は本当で、半分は曹操へ話しかけるためのきっかけだったが、劉備は拱手した。
「ご存知の通り私たちは公孫将軍の下についております。しかし、義弟はそれで納まる器では決してありません。私が不甲斐ないばかりに義弟の器に相応しい場へ導いてやれていないだけのこと。常々悔しい思いをしていましたが、貴方のように認めてくださる方がいる、ということが嬉しかった」
「儂は、当たり前のことを言っただけだが?」
 顎鬚を撫で付けながら、曹操は笑う。その間も眦が他の皮膚よりも赤い特徴的な双眸でこちらを見つめている。
「曹操殿から見て、義弟はどういった英雄でしょうか」
 義兄弟の契りを結んだ。劉備の大義に呼応し、劉備を支える刃となりたい、と申し出てきた男に喜んだ。短い時、黄巾賊を討伐するために集められた急ごしらえの兵の軍長に選ばれ、そこで出逢い、共に戦っただけの男だった。それでも寝食を共にして、生死をかけた戦を幾度も繰り返せば、人が解り合うには充分だった。
 関雲長という人物の強さ、清さ、頼もしさ、大きさに触れるには充分だった。
 劉備は大いに関羽という男を買っていた。例えば同じ義弟でも、武人としての力は張飛のほうが上かもしれない。ただ関羽には武人以外の資質があると、劉備は感じているのだ。それを劉備では上手く言葉で表現できない。
 正しくはどうなのか。他人の目から見た関羽はどのような男なのか。関羽を英雄、と評した男なら関羽に潜む素質を明確な言葉にしてくれるだろう、と思った。
 知りたかった。
「関羽という男は」
 訊かれて曹操はすぐに口を開いた。
「人の上に立つ男だ。自分より地位や力、立場が弱い者に対して慈愛の心を持って接することが出来る。しかも恐らくは優しいだけでなく、厳しく正しく導くことが出来るだろう。ただし、自分と同等、もしくは上の者に対しては容赦ない。己の理想や志を押し通そうとし、対立する気質がある。むしろ上位の者に対し嫌悪に近い感情を持っておるのかも知れぬ。それを考えると、やはり関羽という男は人の下には居ない方が良いのだろう」
 すでに長い付き合いになっても未だに劉備が上手く説明できない関羽という男を、曹操はよどみなく語る。
 劉備が弱気になると叱咤し、励まし、劉備の不遇には共に嘆き、隆起の際には喜んでくれる。民が安らかであることを願う同志。同じように劉備の待遇に一喜一憂してくれる張飛は背中を預けて笑い合える存在だ。顔が見えずとも、背中にある温かさだけで張飛が劉備と同じように怒り、同じように泣き、同じように笑っているのが伝わる。
 関羽はきっと、隣に立ってくれる存在だ。
 劉備が迷ったときにあちらです、と指し示す。具体的でなくとも構わない。貴方はこうあるべきなのです、と関羽の存在が劉備の指標になってくれている。
「やはり、そう思いますか」
 しかしそんな男が誰かの下に、劉備の下に納まっている器なのだろうか。心の奥底にいつも隠していた不安が膨れ上がりそうになった。知らずに眉根を寄せた劉備とは反対に、曹操は楽しげに低く笑った。
「ただし、関羽は己が認めた男に対しては精一杯の、あらん限りの忠を貫こうとするだろう。一度、共に歩むと決めた者を裏切るような義を持ち合わせてはおらんようだ」
「しかしそれは……関羽の器を無駄にすることになりませんか」
 篝火が弾けた炎の悪戯かもしれなかったが、曹操の瞳が強く輝いたような気がした。
「お主は、自分のことをそう思っておるのか。関羽が志を重ねるに相応しくない相手だと思っているのか」
「……」
 無言で俯いた。曹操の言葉を認めたのと同じだった。
「では、関羽を儂にくれないか」
 息を呑んだ。顔を弾けたように上げて曹操を射抜いた。変わらず楽しげで、眼の光だけは強かった。
「儂なら、あの男の器を、将器を天に知らしめて磨き上げることができる……いや、したいのだ。だから、儂は関羽が欲しい」
 本気ですか、などと聞く必要がないほど、曹操の声音は真摯だった。劉備は曹操の眼の光を追い出すように、目を瞑った。
 それが、一番良いのだろうか。こんな何時までも傭兵(寄せ集め)の軍長などをやっている男に付いているよりも、関雲長という器を曹操に渡したほうが、劉備の望む大義にも近づけるのかもしれない。
 その方が、良い。
 目蓋を持ち上げ、口を開いた。
「嫌です」
 それでも、劉備は決然と答えた。
「お断りいたします」
 例えそうだとしても、関羽を手放したくなど、別れたくなどなかった。
 するとどうだろうか。先ほどまで強く輝いていた曹操の眼から光が消え失せて、破顔した。体を揺すり、大声で笑い始めた。
「あっはっはっは……、そう怖い顔をするな。冗談だ、冗談! 劉備、からかってすまなかった、ただの戯言だ」
 呆然としたまま、愉快そうにする曹操を眺める。少なくとも、劉備の目には冗談には見えなかった。だのに、大笑(たいしょう)している曹操はまるで子供の悪戯が大成功したかのように、無邪気そのものだ。
 本当に担がれただけか、とほっとした。同時に、関羽の資質を見抜いた洞察力と、まるでそれらを感じさせない今の屈託の無い笑顔の差に、曹操という男の大きさを感じずには居られなかった。
「曹操殿!」
 笑い過ぎな曹操に少し抗議してみるが、曹操はしばらく笑いを収めてはくれなかった。
 それからすぐに、董卓討伐連合は解散することになってしまったが、この戦で親しくなった兵達から別れを惜しむ声をかけられていた劉備に、輪の外から曹操が呼んだ。
「曹操殿、お世話になりました」
「お主は、随分と兵達に慕われておるのだな」
 挨拶をすると、曹操も返礼してからそう言った。
「そうですか? でも、正直諸侯の方々と話しているよりはよほど楽しいのは事実です」
 私から見れば、彼らの方が自分に近しいからでしょうね、と笑えば、曹操はふっ、と笑い返した。
「だが、お主は中山(ちゅうざん)靖王(せいおう)が末孫、と名乗っておるのだろう?」
「それはそうなのですが……物心ついた頃より平民の暮らしをしておりましたから」
「その飾らなさがお主の魅力となっておるのか。少なくとも、今回の戦、盟主を務めた袁紹、武功を華々しく立てた孫堅、そして人の輪を作りしお主の三人が、儂の目から見た雄(ゆう)を覚える者たちだったがな」
「まさか」
 声を上げて目を見開いた。自分に袁紹や孫堅と肩を並べて曹操に評価される要素などあるはずがない。
「儂の慧眼(けいがん)を見込んで義弟の評を聞いてきたくせに、疑うのか?」
「そういうわけではありませんが」
 困って眉間を狭くする。すると曹操が不自然なほどに体を寄せてきて、耳元で囁いた。
「あまり自分を卑下すると、本気で関羽を貰うぞ? 自分の価値すら認められない男に、あの大器、もったいない」
 ぎくり、として曹操を見やった。吐息がかかるほど顔が近くにある。深い黒々とした瞳が見つめ返してきた。一瞬、視線を逸らした。その先に、こちらを心配そうに見ている関羽の姿が見えた。
 再び、視線を交えた。
「嫌です、と言ったはずです」
 くくっ、と途端に曹操が低く笑った。
「ああ、すまなかった。お主は本当にからかい甲斐がある」
 体を離して、小首を傾げた曹操は、劉備の胸を指で軽く突いた。
「儂はな、関羽とは違う器の形を、お主のここへ見ている。あまり卑下すると、儂の自尊が傷付くぞ」
 にやり、と笑って、曹操はさっと身を翻した。劉備が声をかける暇もない。去っていく曹操の隣に、背の高い男が寄り添った。何を話していたんだ、孟徳、と声が風に乗って微かに届く。
「何を話されていたのです、兄者」
 同じように、劉備にも声をかける男がいた。
 はっとして見上げる。太く形の良い眉を曇らせて、関羽が立っていた。隣で張飛も不安そうに劉備を見つめている。
「いや、何でもないよ。挨拶をしていただけだ」
 安心させるように、二人の弟の肩を叩く。
「俺、あいつのこと嫌いだ」
 白か黒か、嫌いか好きか、の価値観しか持たない張飛が不満そうに口を尖らす。
「兄者になぁんか馴れ馴れしいしよ」
「そう言うな。曹操殿は……そうだな、人の才を見抜く天才なのだ。私のことも袁紹殿、孫堅殿と比肩する雄だと言ってくれた」
「へえ」
 素直な張飛はそれだけで、そう悪い奴じゃねえんだな、と機嫌良さそうにしてしまうが、
「曹操殿に言われるまでもなく、兄者の器は雄に満ちております」
 関羽が当たり前のことです、と言えば、そうそう、と急いで相槌を打った。
「ああ、そうだな。私はお前たちに認めてもらっている。自信を持って良いのだな」
 深く頷く弟達に、劉備は笑ったものの、曹操に突かれた胸が疼くのを覚えていた。曹操の視線を思い出す。朱の走った目尻が真っ直ぐにこちらを見つめる。劉備の器を見抜かんとするためか、それとも、劉備の弱さを暴こうとしているのか。
 苦手だ、と思った。



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