「虚々実々(きょきょじつじつ)……(じつ) 4」
 関羽×劉備



   +++

 あくる日、巡察官へ面会を求めに行くと、具合が悪いと断られた。
「言伝です」
 宿の人間が竹簡の端を渡してきた。
 彫られた文字に、劉備の面容が僅かに変化する。
「あの、劉備様?」
 県尉である劉備を、もちろん宿の人間も知っている。穏やかで笑みを常に湛えている劉備を、良い県尉が来た、と誰もが喜んでいたが、いま、目の前に立っている男は少し違った。
「県舎の私の机に、少々蓄えがある。その金で足りるかどうか分からぬが、使っていい」
「は、はあ」
 何を言い出すのだろう、と思いつつもどうしたら良いのか分からない宿の人間は相槌を打つにとどまるが、次の劉備の行動に目を見張った。
 劉備は、ずかずかと宿の中へ踏み込み始めたのだ。
「劉備様、何をなさるおつもりで」
 急いで後を追いかけるが返事はなく、巡察官が泊まっている部屋まで来ると、声もかけずに戸を開けた。
「なんだ、私は具合が悪い、と……おい、何のつもりだ!」
 男の声が虚しく響き渡る。室内の物が倒れて、散乱する音が引っ切り無しに聞こえた。
 これは大変だ、と察した宿の人間は急いで亭主に相談し、亭主は慌てて県舎に飛び込んだ。
 話を聞いて関羽たちはすぐに駆けつけたが、劉備と男の姿はなく、周りの人間の話によれば、悲鳴を上げる男を引きずりながら、町の外れに向かっていったらしい。
 すぐさま走り出す関羽を追いかけ、酒がまだ残っているらしい張飛と簡雍がヨロヨロしながら続く。
「兄者!」
 声をかけた先で、劉備が今まさに巡察官を殴りつけているところだった。
「ああ、雲長。すまない、荷造りを頼む。もう、ここには居られないだろう?」
 あまりにも朗らかに言われて、関羽は一瞬ばかり固まるが、もう一度拳を振り上げた劉備の腕をすぐさま掴んだ。
「兄者、突然何を。巡察官殿にこのような真似をしては、兄者の立場が」
「いいんだ、そんなものは。私には雲長や翼徳たちがいる。それで十分だ。幾らでもやり直せる」
 穏やかに話す口振りとは裏腹に、劉備の拳は血まみれで、男は悲鳴も上げられなくなったのか傷だらけの姿で木に縛りつけられていた。
「お前たちの働きに応えられる地位が欲しかったが、こんな腐った男からもらうぐらいなら、こっちから捨ててやる」
 目が異様な光を放っていた。
 怒っているのだ。
 劉備は何かに激しく怒りを燃やしている。ただ、あまりにも表に現れないので気付きにくかっただけだ。
「何があったのです」
 問う関羽に、劉備が掴まれていない腕を目の前に突き出した。その手に握られている物を関羽は取り上げた。
『条件は、金子か関羽』
 とだけ書かれていた。
「こいつが、渡してきた物だ」
 劉備の説明に、関羽は低く唸り、兄は自分のために怒っているのか、と知れた。
 関羽の手元を覗き込んできた張飛や簡雍も唸り声を上げた。
「どこまで腐ってんだよ、こいつはよ」
「朝廷も終わりだな」
 二人を嗜めることも忘れ、関羽は劉備を見つめた。
 離せ、と目が訴えている。
 掴んだ腕から力を抜いた。
 前へ出ようとする劉備の体を、関羽は押し退けた。
「雲長?」
 驚く劉備を他所に、関羽は拳を固めた。
「申したでしょう。兄者の憤りは拙者が受け止める、と。ましてや、このような下衆に拳を痛める必要などありませぬ」
 怯えた瞳で見上げる巡察官の男へ、関羽は容赦なく拳を振り下ろしたのだった。


「いやいや、痛快だったぜ」
 朝廷からの巡察官を殴り倒したのだ。当然、劉備たちはお訪ね者だ。しかし張飛の口振りは明るく、簡雍はニヤニヤしている。
「さすが、雲長の兄者だぜ。やるときはやるな」
 昨晩の喧嘩別れのあと、朝、顔を合わせてから口も利かなかった張飛だったが、関羽が巡察官を殴ったところを見てからは、すっかりいつもの調子に戻っていた。
「雲長、すまなかった」
 冷静さを取り戻した劉備は、一過性の怒りで、弟たちの働きに報いるための地位を手に入れる算段を失くしたことを後悔していた。
「謝られるぐらいならば、今度からあのような真似をしない、と約束してくだされ。拙者のために兄者が志への前進を止めてしまうことが、拙者にとっては一番口惜しく、許せぬことです」
「怒っている、ということか」
 許してはくれない、ということだろうか。
 先を歩く二人に気遣われないよう、劉備と関羽は少し後を揃って歩きながら話していた。
 関羽に愛想を尽かされたのか、と恐れる劉備に、しかし関羽は首を横へ振った。
「兄者の代わりに、と言って拳を振るいましたが、今回は、拙者も耐えられませんでしたから、あいこです」
「そうか」
 ほっとして、劉備は笑顔になる。
「しかし困りましたな、示しがつきませぬ」
 困惑が強まりつつも、関羽は長い髯を撫でる。弱りました、と呟きつつ、決まりが悪そうだ。
「だがな、雲長」
 真面目な顔になり、関羽を見上げた。
「今回はお前を卑劣な手段でものにしようとした輩だったから、あれで私の気もすんだ。だが、もしもだ。もしもお前が戦に敗れ、誰かに殺されるようなことになったら」
 口にして身震いする。大事な男を失う恐怖からではない。腹の底から込み上げる怒りからだ。
「私はそのとき、どのような立場で、どのような場所にいようとも、お前の仇を討つために、全身全霊を注ぐ。それで今まで私が築き上げてきた全てが無に帰そうとも、躊躇うことはない」
「…………」
 じっと劉備を見下ろしてから、ようやく関羽の口は開いた。
「……兄者、冗談はおやめください」
「なんだ、バレたか」
 肩を竦めて、真面目な面容を崩した。
 どこかほっとした顔になりつつも、冗談が過ぎます、と不服そうに言い、関羽は足早に歩いていってしまう。
「冗談じゃ、ないのだがなぁ」
 お前は本当に、私の冗談を見抜けないな。
 なあ、雲長、もしもそうなったとき、そのときお前は、嘆くだろうか。
 怒るだろうか。
 呆れるだろうか。

 今度こそ、許してはくれないかもしれないな。
 それでもな、雲長。
 私にはそれほど、お前が大事なのだよ。
 分かってくれ、雲長。

 私はお前が、好きだから――


「雲長、待ってくれ」
 私は今日も、お前を呼ぶ。


   +++


『雲長』と呼ばれるのが好きだ。
『頼りにしている』と言われると腹の底から力が湧く。
『すまないなぁ』と謝られると胸が苦しくなる。
『許せぬ』と憤る言葉と胸の内を感じ取り、同じように義憤に駆られる。
『お前だけだぞ』と秘密めいた笑みに心臓が跳ねる。

「兄者」と呼ぶと、振り返って周りに見せている慈愛に満ちた笑みでなく、どこか悪戯めいた、童のような笑みを見せる瞬間と『雲長』と弾んだ声で呼ばれる瞬間が何よりも好きだ。

 出逢い、共に歩き始め、この人だ、と魂が訴えた瞬間を今でも鮮明に思い出せる。
 大切な兄を、呼ぶたびに情が深くなっていく男を、今日もまた呼ぼう。


「兄者」
 眩しいほどの笑みを浮かべて駆け寄る男に、自分はそっと手を差し伸べた。



   終 幕





 あとがき

 ここまでありがとうございました!
 この話は、去る2008年年末に、年明けに参加するイベントで、どのカップリングの本を出すか迷った際に、アンケートをとったとき、堂々のぶっちぎりで1位を取ってしまった関羽×劉備、がきっかけでした。
 お話の中身自体は、決まってから考えたものですが、いま読み返すと気合を入れて書いたのが伝わってくるような文章でした。

 コンセプトは、ヤンデレ兄者に困り果てる格好良い関羽、ということだったらしいのですが、途中で病んでいる劉備が怖くなって方向転換した形跡があり、それを読み返しながら思い出していました(笑)。ただ、いつもは兄者に対してヘタれてしまう関羽は、この話に限っては、ちゃんと格好良く書ききれたかな、と思っています。

 実は表紙の関係で、関劉本の中でもっとも最小部数発行となっていたのですが、ようやく再録できました。もしもお手に取れなかった方がいらっしゃいましたら、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

 2009年1月11日 発行
 2010年10月 再録



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