「腐心の草 5」
 関羽×劉備


 次の朝、夕餉が途中だった、ということと、散々抱き合った次の日、ということもあり、劉備と関羽は揃って凄まじい勢いで朝餉を平らげていた。
「お前のそのおかず、少しくれ」
「まだ皿に残っているではありませぬか。意地汚いですぞ、兄者」
「あのな、受けるほうが体力使うのだ。だから栄養もしっかり取らねばならぬ」
「しかし、そのように他人の皿からおかずを横取りするなど、仮にも州牧になろうとするお方が」
「二言目にはそれだな。そもそも他人ではない、弟の皿だ!」
「屁理屈をおっしゃいますな!」
 朝日が昇りそうになるまで抱き合っていたとは思えぬ元気さである。
「何だよ、賑やかだな。俺も混ぜてくれよ、兄者たち」
 そこへ張飛が顔を出して、朝餉に加わった。
「翼徳、何だ、お前こそ。ここ最近一緒に飯も食わなかったくせに」
 いつもと変わらずに接してきた張飛が嬉しくて、それでも劉備は文句を付けた。
「仕方ねえだろう。簡雍と孫乾に付き合ってたんだからよお」
「憲和と公祐?」
 と、そこへ糜竺がやってきた。こちらはここ最近の、劉備の朝餉の相手だ。
「おはようございます、劉備殿。おや、今日はご兄弟が揃っておりますね」
「ああ、丁度よかった、糜竺殿。貴方にお話があったのです」
「もしかして、劉備殿!」
 席に着こうとしていた糜竺は、はっとした。
「あのですね……」
 と、劉備が切り出そうとしたときだ。
 今度はバタバタと誰かが駆け込んできた。
「殿! これをご覧になってください。そしてまだお気持ちが変わられないのでしたら、私は暇をいただきたいと……」
「おおい、焦るなよ、孫乾。とりあえず飯を食わせろ、飯を」
 駆け込んできたのは孫乾で、細い目の下にくっきりと隈を作っている。その後ろからヨロヨロと入ってきたのは簡雍で、こちらは倒れ込むように食膳が来るはずの場所に座り込んだ。
「急に賑やかになりましたな」
 一人動じないのは関羽ぐらいだった。
「殿!」
 と、孫乾は鬼気迫る面容で詰め寄ってくる。
「どうした、せっかくの男ぶりが台無しだぞ」
「軽口はよろしいのです。それよりもこれを!」
 押し付けられたのは抱えきれないほどの竹簡で、孫乾の剣幕に圧されて一つ紐解く。
 ざっと目を通せば、それは民の実情を事細かに記した書簡であった。

『田畑にいくらかの実りが見られるが、まだ村の人手だけでは開墾が足りない』
『治水管理が必要。経験のある人間を派遣』
『賊が頻繁に現れるようになった。至急関羽殿か張飛殿に退治を願う』
 などという問題点と共に改善案も掲載されている。
 そしてそれだけではなく、その横に民の切実な言葉が添えられている。
 どうかもっとこの徐州を住みやすい土地にしてもらいたい、という嘆願が、彼らの言葉で克明に綴られている。

 それがこの近辺の町や村からのもの、ざっと十数件。
「まだ、この徐州にはやらなくてはならないことが山積みです。そして、あとはこちらを」
 続いて渡された書簡には、民の感謝の声で満ち溢れていた。
 劉備たちが賊を退治した方面から。
 少ない実りを争っていがみ合っていた村同士を仲介した、その両方の村から。
 それらは徐州の問題点よりも遥かに少ないが、劉備の胸を打つには充分だった。
「これは、お前が?」
「私だけではありません。簡雍殿と張飛殿に手伝ってもらいました。しかも簡雍殿は特に」
 ちらり、と孫乾が視線を向けた先に簡雍はいるが、しかしぐったりと倒れ込んだまま起き上がろうとしない。
「資料を整理していて、妙に詳細に民の声が拾われている、と感じたので、どうやって集めたのか簡雍殿に尋ねたところ、彼が一人で集めた、と言いまして。誰にでも特技というものはあるのですね」
 そういえば、簡雍は昔からそういうことが得意だった。人の噂話から、誰が誰のことをどう思っているかなど、誰に聞いたのか知らないが、詳しかった。
 人の中に溶け込んで、そして人の心にするっと潜り込む、その自然体が人の口を軽くさせるのかもしれない。
「だからって、付き合わされる俺の身にもなってくれよ」
 倒れ込んだまま、簡雍がひらひらと手だけを上げて非難した。それを孫乾はさらり、と無視をして、
「とにかくこれを読まれればお分かりになられますでしょう。貴方がどれだけ民に慕われ、かつ必要とされているかを。これでもなお……」
 言い募る孫乾へ、劉備は笑って頷き、その先を遮った。
「ありがとう、公祐。お前のおかげで最後の迷いが吹っ切れた。いや、礼を言うのは皆にだ。手伝ってくれた憲和や翼徳、それに熱心に諦めずに私を説得し続けた糜竺殿、そして、雲長も」
 重々しく関羽は頷くが、頬は緩んでいる。
 自信がなかったのは、関羽に認められなかったからだ、と気付かされた。朝起きて、隣に関羽がいたことに、どれだけ慰められ、励まされたのか。
 いつも漂っていたあの腐臭は、もうどこにも残ってはいなかった。今、劉備の胸に残っているのは、真っ直ぐに天を目指して伸びようとしている、一本の草だ。
 やるだけやってみようと、ようやく思い切れた。
「糜竺殿、お手を煩わせ、挙句にこのように返事が遅くなったこと、本当に申し訳ありませぬ。陶謙殿の意思、この劉玄徳、受け取らせていただきます」
「……っ……っ」
 姿勢を正して宣言した劉備に対して、糜竺からの返事はなかった。なぜなら男泣きに暮れていたからで、ただその首を頷くことで返事としていた。
「よっしゃ、なら今日は祝いだな!」
 さっきまでのばてっぷりはどこへいったのか、簡雍が飛び起きた。
「現金な人ですね」
 呆れる孫乾も、しかしそうですね、と微笑んだ。


 それから幾月ほど経った寒い日のことだった。
 陶謙危篤、の早馬が小沛へ届き、劉備は関羽と孫乾を供にして下ヒへと駆けつけた。
「子仲殿」
 真っ先に糜竺を見つけて駆け寄ったのは、孫乾だ。いずれ訪れるであろう州牧を補佐する執務の引継ぎで、頻繁に糜竺と連絡を取り合っていた孫乾は、すでに友愛すら抱いているらしかった。
 その前に孫乾が漏らした話では、劉備の州牧容認の宴でこんなことを言われたらしい。
『やはり劉備殿は人に何かを与えるらしい。まさか貴方がこれほどまで見違えるとは』
 しげしげと孫乾を見つめる糜竺の視線に、少し照れる。劉備に陶謙の遺言を伝えるときに孫乾を見つめたのは、恐らくそういった思いがあったからだろう。
『貴方がここまで好い漢であったとは、私などは気付きませんでした』
『ありがとうございます』
 糜竺の誠実な言葉から溢れる賛辞には、素直に礼を言えた。微笑んだ孫乾に、糜竺は満面の笑みを浮かべて返した。
『笑っていたほうが、貴方は得ですよ。とても素敵な笑顔だ』
 そのときの孫乾の真っ赤な顔といったら見ものだったぜ、と唯一の目撃者だった簡雍が人の悪そうな笑みを浮かべて劉備に報告してくれた。
「劉備殿、お二人とも、こちらです」
 硬い表情の糜竺が、この寒い中ずっと外で待っていたのだろうか。すぐさま城内へと案内をしてくれた。
 城内の奥、陶謙の寝所へと通された。さすがに関羽と孫乾は控えの間に残った。
 寝所には侍医と陳親子がいた。劉備に拱手して、牀の傍へと招いた。
「陶牧、劉備殿が参られました」
 糜竺が静かに声をかける。
 微かな、息を漏らしたとも声を漏らしたともつかない音が死相の濃くなった老人から漏れた。
 ゆっくりと重そうに瞼が持ち上がり、その下から濁った瞳が現れる。
 そっと、劉備は陶謙の手を取った。
 もう、男の目は物を捉えられないのだ。
「陶謙殿、劉玄徳、お傍におります」
「っ……ぁ」
 何かを伝えたいのか、しわがれた唇が音をこぼす。
「陶謙殿」
 繰り返す。
「りゅ、びどの……どうか、この徐州を、たの、みます。どう、か私の代わ、りに」
 記憶が混濁している。陶謙にはすでに徐州牧を受けることは伝えてあった。そのときの嬉しそうな顔を劉備は忘れられない。
「はい、お任せください。この地を、この地に住む人々を微力でありますが、守っていきます。だからどうか安心してください」
「あ、ぁあ」
 小さく、小さく男の口元が弧を描いて、濁ったはずの瞳が輝いた。
 それは希望を失った者が、それでも何とかしようともがいて、立ち上がったときに見せる瞳の輝きに良く似ていて、劉備は目の奥が熱くなる。
 そうして、徐州牧、陶恭祖は六十二歳の生涯を静かに閉じた。

 外ではついに雪が降り始めていた。
 今年最後の雪かもしれない。もう春はすぐそこまで来ている。
「糜竺殿、陶謙殿の喪は盛大にやりましょうか」
 もちろん、無駄な搾取が必要としない範囲で行うが、出来る限り大勢に見送って欲しかった。
「はい、殿」
 聞きなれない響きに、泣き濡れた糜竺の顔を見やった。
「そうか、殿か」
「ええ、そうですとも。ですから殿も、どうか字でお呼びください。私は決めましたから。この先、貴方がどういう道を歩もうとも、私は私の出来る全てを投げ打って、貴方を支えると」
 熱い、普段は全く見えない一面を口調から溢れさせながら、糜竺は言った。
「ありがとう、子仲」
 雪が、劉備の濡れた頬に落ち、熱い雫と溶け合い一つになる。
 それは喪った人への悲しみと、新たに結んだ絆の喜びが入り混じった、劉備の方寸を象徴するかのようだった。



 終幕





 あとがき

 ここまでありがとうございました! 同人誌からの再録になります。
 この作品の思い入れ、といえば【ふた茶】ではお馴染みの孫乾&伊籍の二人にはまりたててで、孫乾が目立つ話にしてしまえ、とばかりに出したら、予想以上に本当に目立ちまくってしまった、というところでしょうか(笑)。
 ここら辺の話は、【ふた茶】バージョンでも書いており、思い入れ深い話となりました。

 そして肝心の関劉ですが、先にこの話を書いてから、この二人のお初、「草、芽吹くとき」を書いた、という経緯があります。
 くっつかなくてももどかしく、くっついてももどかしい。
 それが関劉クオリティだと私は信じています(笑)。

 最後に、この話のタイトルは非常に分かりづらいので解説だけ。
 【腐心】という言葉は何かを実現しようとして、心を砕く、悩ます、という意味ですが、この話の中では、文字のまま、腐った心、という意味です。
 腐った心から育つ草、という意味合いでつけました。
 センスがないのはいつものこと、とはいえ、すみませんでした、としかいいようがありません。

 さて、初めて読んだ方が少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
 何かありましたらメルフォを利用してくださいませ。

08年1月27日 発行
10年2月10日 改稿、再録




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