「花より団子よりも 1」
 関羽×劉備


 その日、関平は兵たちの調練を終えて、午後の打ち稽古のために、飛龍裂空刀を片手に城の中庭へ向かっていた。稽古の相手は周倉で、あらかじめ頼んであるので、恐らく先に待っているはずだった。
(少し遅れてしまったな。急がねば)
 昼ご飯を義父である関羽ととっていて、碁の話になったのだが、それが思わぬほど白熱して、つい話が長引いたのだ。
 昨年、関平の義伯父おじである劉備が成都を治め、無事に益州の主となり、長年放浪していた劉備軍が確固たる地盤を得た。関平は関羽共々祝杯を上げたものだ。
 だがそれは、同時に呉との関係の悪化を招き、結局荊州は孫権と劉備とで東西に分けることで和解となった。それでも、長年住み慣れた公安を離れることがなかったのは、不幸中の幸い、と思えばいいのだろうか。
 何にせよ、兵の調練、己の鍛錬を怠ることだけはしてはならないのは確かなことで、関平は今日も調練、鍛錬に明け暮れていた。
 足早に関平は、城の中庭に辿り着く。案の定、周倉が先に来ていて、自分の得物で素振りなどをしていた。おそらく体を暖めているのだろう。そんな彼の様子を見て、関平はまだ遠くにあるその姿へ声を掛けた。
「申し訳ございませーん、周倉殿ー!」
 関平の声に、素振りをしていた周倉がその手を止めて、関平の姿を捉えた。気にしていませんよ、と言わんばかりに、強面ながらもどこか憎めない顔立ちをしている男が笑い、
わか
 と関平を呼んで、軽く手を上げた。
 周倉は関羽を慕い、ただの山賊だった身から、心を入れ替えて配下となった。その経緯からか、時として本来の主である劉備よりも、恩義のある関羽への忠義が厚いところが見受けられた。それを関羽は嗜めたりするが、しかし劉備自身は、構わぬよ、と笑って許している。
 そんな周倉はだからか、関羽の息子である関平を、『若』と呼んでいた。
 初めて周倉と引き合わされ、呼ばれたときは、その呼び方が恥ずかしくて、やめてくだされ、と頼んだものだが、そこでやめるような意思の弱い男ではなかった。だから、今ではすっかり慣れてしまっていた。
「お待たせしてしまって、申し訳ありませぬ」
 それでも、根が真っ直ぐな関平は、周倉へ駆け寄り、律儀に謝った。
「関羽殿とお食事をされていらっしゃったのでしょう。構いませんよ」
 いたって気楽な調子で受け答えをする周倉は、しかし不意に顔を曇らせた。
「それで、いかがですか、関羽殿のご様子は」
 周倉の問い掛けに、関平も顔を曇らせる。
「やはり、前ほど食事の量が多くなく……。今日は碁の話などをしてみて、少しは気を持ち直したようですが、どことなく元気がありませぬ」
「そうですか」
 二人は顔をつき合わせて、う〜ん、と唸った。
 彼らが心より慕う男、関羽雲長は、どうも最近元気がないように思えるのだ。
 本人は全くその気配を漂わせようとはせず、長く従っているはずの彼の兵卒たちも、そんな将の有り様に気付く様子はない。
 だが、関平と周倉だけは違った。長い間、誰よりも関羽の傍にいた彼らは、変化を逸早く嗅ぎ分けていた。
 特に、関羽が義兄弟である劉備と張飛と別れ、荊州へ駐留するようになってからは、それこそ、関羽ともっとも近しい存在となっていたのだから、当然だ。
「関羽殿に訊いても、気のせいだ、とおっしゃるに違いありませぬし」
 今のところは、関羽の気落ちで周りに影響は出ていない。それでも、やはり大事に思う人間の元気がなければ心配だ。
「見当はついてはいるのですが、こればかりはどうしようも出来ませぬしな」
 彼らは、関羽の消沈の(と、言ったら大袈裟になるだろうが)理由も察してはいた。だが、解決する策となると、やはり妙案はなく、結局顔をつき合わせて唸るしかないのだ。
 そうしていると、何やら自分たちまで気落ちしてくるような気がして、二人は気を取り直さねばならなかった。
「まずは体を動かしますか」
「はい」
 すなわち、頭脳労働者ではない彼らは、体を動かさないと頭も働かない性質であるため、いつもと同じ結論に達し、互いの得物を構えなおすことになった。

 ――悲しいかな、肉体労働者の性、であった……。



「はふぅ……」
 関羽はらしくもなく重い溜め息を吐いてしまっていた。自分でもそのらしくなさを自覚し、一人で苦い笑いを浮かべた。
 先ほどまで、義息子むすこである関平と食事をしていたが、関平が碁の話を持ち出したので熱が入った。
 気遣わせてしまっていることを、関羽は悟っていた。わざとらしく明るく振舞い、自分の好む話題を提供してきた息子を、心苦しい、と思う反面、嬉しくもあり、話題に乗った。
 その間だけでも、心が晴れるのは確かだからだ。
 それでも、関平も去り、一人で雑務に取り掛かり始めると、知らずに溜め息を吐いている自分がいて、自嘲めいた苦笑いを浮かべてしまうのだ。
(何と女々しいことだ)
 戦場では鬼神だ、軍神だ、と恐れられる自分も、息子や腹心の部下に打ち沈んでいる、と悟られてしまうほど、自分を律していられないようだ。
 まだまだ鍛錬が足らぬな。
 しかも、沈んでいる理由が理由なだけに、またしても関羽は苦笑してしまう。
 卓上の隅に置いてある、いつでも目に入るようにしてあるふみへ、関羽は手を伸ばした。内容などは、すでに諳んじられるほど頭に入っている。何度も読み返したのだから当たり前だ。
 それでも、また広げて読み始めている自分がいた。
 一つは、長兄が懇願して迎え入れた、臥龍と呼ばれる軍師から。そしてもう一つは、その、関羽の義兄からの文だった。
 諸葛亮からはいつも通り、軍備の整い具合や蜀での民政の浸透。呉の動静や荊州での情勢はいかがか、という伺いなど、事務的なもの。それでも、彼らしい几帳面な字と言葉遣いが文面から伝わってきて、好ましい。
 彼の手紙はいつも『髯殿ひげどの』から始まり、それが何とはなしに楽しかったりする。
 そして、いつまで経っても余り上手くならない、くせのある字で書かれている、もう一つの文が、劉備からだった。

『雲長、元気か?
 こちらではようやく桃が咲き始めたぞ。やはり荊州に比べて成都は少し寒いようで、桃が咲くのが遅いな。この間はまだ蕾だ、というのに、翼徳のやつが一人で花見酒を始めてしまってな。あいつは花より団子。団子よりも酒だ。酒が飲める口実が欲しいだけだものな。通りかかった馬超にからかわれながら、盛り上がり始めたのだ。
 そうしたら、いつの間にかその馬超も隣で飲み始めていて、なぜか簡雍や黄忠も一緒に輪の中にいたのだ。そうすると、やはり黙っていられなくなって、私も混ざってしまった。もちろん、後で諸葛亮に大目玉だ』

 その光景がありありと目の前で描かれるようで、関羽は小さく笑ってしまう。

『だけどな、ずるいのだぞ。叱られるのは私だけで、後の皆はいつの間にか姿が見えなくなっていた。
 諸葛亮に、気が早いにもほどがあります、と呆れながら怒られて。趙雲が間に入ってくれなければ、朝まで説教だったところだ。
 雲長とは久しく酒を酌み交わしていないな。荊州の桃は散ってしまっているのだろうか。あの、契りを交わしたときの桃は美しかったな。
 またあのときと同じように、三人で桃を愛でながら酒を飲みたいものだ……』

 などなど……。
 諸葛亮の文と違い、内容は日常の、いたって他愛ないものがほとんどを占めている。それでも、関羽にとっては何よりも大事なものだった。
 窓の外を望めば、中庭の隅にある桃は当に散り終えて、桜さえも葉桜へと衣替えをしている。この景色を、もう一人で何度見たことか。
 ようやくの天下への展望だ。そしてここ荊州は、魏や呉への取っ掛かりである、重要な土地だ。任せられるのは関羽しかいない。
 諸葛亮の下した判断だった。
 だからこそ、義兄弟と遠く離れようとも、自分がここへ留まることは道理である、と認識している。不満もない。
 だが、と続けようとする声が聞こえた気がして、関羽は文を巻いて、声を文と一緒に丁寧に封じた。
 それでも、木簡の表面を撫でると、遠く離れた地にいるはずの義兄の温もりが、残り香のように伝わってくるようで、関羽は心持ち口角を上げる。
(女々しいな。困ったものだ)
 気を取り直すように、置いた筆を取り上げた。
 関羽にはやることがある。それこそ義兄のために荊州を守り、強固な軍を作り上げ、地盤を固めなくてはならない。
 彼の兄が、いや、義兄だけでない。自分や弟が、長い間空に描いていた夢を地に下ろし、形にする、その日のために。
 集中すれば、少しでも憂いを忘れることが出来る。関羽の耳は、中庭から聞こえる関平と周倉の鋭い掛け声を捉えていた。それすらも遠くに聞こえるほどに、集中力を高め、目の前の木簡へ筆を走らせた。


 どれくらい経っただろうか。窓から差し込む光が、どことはなしに赤い色を含み始めていた。出来上がった書面を使いの者へ持たせ、関羽は気付いた。
 まだ、中庭からは息子と腹心の部下の声が聞こえている。随分と熱心だ。良いことだ、と思いながら関羽は次の木簡へ取り掛かる。
 不意に、廊下を慌ただしく駆ける息子の足音がした。先ほどまで中庭にいたはずだが、どうしたことか。
 しかし、その騒々しさといったら。
 どこかに蹴躓いているのか、何かにぶつかっているのか、とにかく城を破壊するかの勢いで、関羽の執務室へ向かってきているようだ。
「ち、父上〜!!」
 その騒がしさだけでも、関羽の眉を吊り上げるのに充分だったが、遠くから見苦しくも大声で呼び立てる有り様。
(これは小言の一つも必要であろう)
 そう思い、伺いも立てずに開けられた戸から現れた息子へ、関羽は大喝声する。
「関平! それでも将の一人であるか! 軍の上に立つものがそのような醜態を晒すなど、言語道断の振る舞いだぞ!!」
「申し訳ありません!」
 さすがにその一喝は効いたようで、関平は入り口で直立不動になって立ち竦んだ。しかし、すぐに自分が慌てていた理由を思い出したようで、堰を切ったようにしゃべりだす。
「あ、あのですね、来てしまったのです。いや、来られてしまった……いえ、その。来られたのですけども、どうしましょう……。ああ、違います! 歓迎すべきことだと思うのですけど。ですが報告もなかったですし……。それをお訪ねしたく父上のところへ来たのですが……」
 だが、相当に慌てているのか、どうにも要領の得ない内容で、関羽は段々苛立ってきた。
「平!」
 もう一度一喝した。
 また、関平は背筋を伸ばしてしゃちこばった。
「報告は端的に要領よく、が鉄則ぞ」
「はっ」
 自分を落ち着かせようと、関平は腕を大きく広げて深呼吸を繰り返して、述べた。
「父上にご報告があって参りました」
「何だ」
「殿が来られたのですが、いかがいたしますか?」
「…………?」
 長い沈黙が二人の間に流れた。
 関羽は、眉をひそめながら、
「復唱せよ」
 とだけ言った。
「はっ。殿が、劉備様が来られたのですが、いかがいたしますか? そのような先触れもなかったものですから、取りあえず、周倉殿がお相手をしているのですが……」
 生真面目に、関平は先ほどよりも詳しく復唱してくれた。それでも、関羽は首を傾げて聞き返した。
「いずこに?」
「城の中庭ですが……」
 関羽の質問に、関平は固い声でしっかりと答えた。
「どこの?」
「ここの、ですが……」
「こことは、ここか?」
「はい、ここの、です」
 傍から見ればかなり馬鹿馬鹿しいやり取りではあったが、当人同士は真剣そのものだった。
『…………』
 二人の間に、また沈黙が落ちた。まるで手巾が落ちたことを知らずに通り過ぎてしまった女のように、ただ沈黙だけが道端に落ちていた。それを拾い上げて差し出した、あわよくばその女とお近付きに、などという下心のある男が現れたのは、もう少し経ってからだった。
 下心丸出しの男(関羽の状況把握力)は唐突に現れて、関羽へニヤけながらも手巾(自我)を渡した。関羽はそれを凄まじい形相で受け取って、礼を言うこともなく立ち上がり、部屋から飛び出した。
 途中で段差に蹴躓いたり、隅に飾られている置物を倒したりしながら、騒々しく駆けていく父親の姿を、関平は呆然と見送る。

 その、荊州を預かる将の身としては有るまじき振る舞いに、関平は決して、言語道断の振る舞いだ、と思わなかったはずだ。
 ……恐らくは。


 一方中庭では、周倉が弱りきった顔で、主君と対峙していた。
「あの、殿。どうしてここにいらっしゃるのでしょうか?」
「だから、先ほどから言っておるだろ? ちょっと近くまできたから寄ったのだ」
「近くっておっしゃいますが」
 近所の親戚の家へ寄るのではあるまいし、その言い分はどうなのだ、と思ったが、いくらこの目の前の主君より関羽を慕っている周倉といえども、口に出せはしなかった。
(どんな近くの用事を済ませてきたのだ、殿は)
 そう言い返したい気持ちをぐっと堪えて、馬から降りた、本来ならば成都に居なくてはならない人を見つめた。

 関平と、休憩を挟みながらも長い間手合わせをしていた周倉も、夕刻も近付いたことだし、そろそろ切り上げようと思い始めていた。
 そんなとき、門番をしている兵が血相を変えて二人に駆け寄ってきたのだ。
 その慌てぶりに、実は関羽と関平のやり取りと似たようなことがあったのだが、そこは割愛するとして、最後の展開だけ違った。
「ここって、ここの門にか?」
「はい、ここの、です」
 ようやく、周倉と門番の意思の疎通がはかられたとき、問題の人物が向こうからやってきたのだ。
「お〜い、なかなか誰も戻ってこないから入ってきてしまったぞ。無用心だな、大丈夫か?」
 入ってきた人間の言うことではないが、馬に揺られながら朗らかに言われ、その場の全員が脱力感を覚えた。

 それから関平が我に返って関羽の下へ走り、残された周倉が相手をしているのだが……。
「供の者はどうされたのですか」
 疑問をぶつければ、人の良さそうな笑みで答える。
「いないぞ、そんな煩わしいものは」
 周倉は目を剥いた。
「では、お一人で?」
「うん」
 まるで童のような返事に、数々の修羅場を越えてきた、さしもの猛者も目眩を覚えた。
 にこにこと笑っている主を見つめ、そうだった、この方はこういう人だった、と思い出す。
 久しく会わないうちに、すっかり忘れていた。この、人の良さそうな笑みも、無邪気な受け答えも、意外に計算されている、という認識と、自分の立場の重さに無頓着なところがある、ということを。
「ところで雲長はどこにいるのだ?」
「関羽殿は……」
 それでも周倉が目眩を抑え込んで、忠実に主君の問いに答えようとしたとき、当人がやってきた。それこそ、門番の兵よりも血相を変えて。
「兄者っ?」
 いつもの低く重々しく響く、一軍を率いるに相応しい声音も、内面の動揺を如実に表して裏返った。
「おお、雲長!」
 しかし主君――劉備は、そんな関羽へ、破顔して駆け寄り、体当たりでもするのか、という勢いでぶつかった。そこはしかし相手は関羽なので、難なく受け止めたのだが、むしろ外側の衝撃よりも内側の衝撃が大きかったらしい。
「ど、どうして……?」
 ここにいるのですか、と続くであろう言葉を発せないでいるほど、関羽の狼狽ぶりは激しかった。
「雲長にな、会いに来た」
 屈託なく、てらいもなく発せられた言葉に、周倉は、
「やっぱりそうか」
 と、呟いた。
 だが、当の本人たちは、特に関羽は元から赤い顔がさらに赤くなって、劉備を見つめ返していた。何かを言いたいのだろうが、綺麗に蓄えられた髯に縁取られた口元が虚しく開け閉めされるだけで、言葉が出てこない。
 劉備は劉備で、そんな関羽を楽しげに見上げているだけで、何も言わない。
「あの、関羽殿?」
 仕方なく、周倉が口火を切った。その声に、ようやく関羽は自分を取り戻したらしい。
「供のものはどうされたのですかっ?」
 周倉と同じ設問が繰り返される。
「いないぞ。ちょっと雲長の顔が見たくなってな。来てしまった」
 ちょっと、とか、来てしまった、とか。
 果たしてそんな言葉で片付けていいのか、とまたしても周倉は言い返したくなる。
「誰かに言伝はしてあるのでしょうな」
 だが、さすが関羽は、周倉より劉備との付き合いが長いだけあった。そこは食い下がっても仕方がない、と判断したのだろう。それよりも、居るべき人が居なくなっている首都の心配をしたようだ。
 どうやら、だいぶ冷静さを取り戻してきたようだ。
 何せ成都から公安まで、直線にして二百里余り(約八百キロ)あるのだ。間に険しい山もその身を横たえている。どう考えても、近所の親戚の家へ遊びに行く、という気軽さで行ける距離ではない。
「言伝か。文は置いてきたが」
「何と?」
 頬が引きつった顔で関羽が聞き返した。
「ちょっと花見酒をしてくる、とな。しかし失敗だったようだな」
「当たり前です! そんな短い書置きでは皆が納得しておりませぬ。今頃は大騒ぎですぞ!」
 周倉の心の代弁をしてくれた関羽へ、周倉は勢いよく首を縦に振る。だが、劉備は小首を傾げて、心痛を露わにした顔で続けた。
「いやな、……荊州ではすでに葉桜になっておったのか、と思ってな。もう少し早くに来ればよかったようだ。これは失敗だった」
『そっちですかっ?』
 遠慮を無くした関羽と周倉の息の合ったつっこみが、虚しく中庭に響いたのだった……。



目次 次へ