「極上の微笑 1」
 関羽×劉備


 関羽が不機嫌だった。
 もっとも、それがわかりやすく表に出るようなことはないが、長い間を関羽の傍で過ごしている張飛は、僅かな表情や態度の変化で、察することが出来た。
 兵の調練も終わり、夕刻のことだ。
「なあ、雲長兄者。なんかあったのか? 今日は随分きびしい調練だったようじゃねえか」
 張飛は自分の馬を牽きながら、辺りに自分と関羽しかいないのを見計らって尋ねた。
 普段は粗暴で細やかな配慮など出来そうにない印象を与えている張飛だが、その実は人の心の機微に敏感なところがあり、気遣いがうまい。そのことを知っているのは関羽と、もう一人の義兄弟である劉備ぐらいだろう。
「趙雲のやつも驚いていたぜ。兄者があそこまでやるのは初めて見る、て」
「たまにはきびしくやらないと、兵の心は怠惰になる」
 関羽がいつもと変わらない、深く低い声で答える。
「それには俺も賛成だが、やっぱりおかしいぜ。なんか、怒ってるな?」
 いつもと同じ口調なのに、そこに不機嫌さが混じっていることに張飛は気付いてしまう。
 二人は馬の体を洗うために、いつもの小川の前で立ち止まる。関羽と張飛が二人きりでいるせいか、他の人間は遠慮して近づいてこない。二人とは距離を置いて、それぞれ馬の世話をしている。
 しばらく二人は黙々と馬の世話に明け暮れた。
「兄者も人間だしな。俺はいいことだと思うけどな」
 兵舎に戻る途中、張飛は独り言のように呟いた。言外に、俺は構わないから、話せる話ならいつでも聞くぞ、と張飛らしい気遣いが込められていた。
「うむ」
 関羽は微かに頷いた。
「なあ、少し兄者のところに寄っていかないか?」
 ふと思いついて、張飛は提案する。張飛は、劉備を「兄者」。関羽を「雲長兄者」と呼んでいる。

 ここのところ、つい先日迎えいれた軍師、諸葛亮による軍事や民政に対する意見を取り入れて行っているせいか、忙しい日々が続き、劉備とまともに言葉も交わしていない。
 今まで、こんなに近くにいるのに、これだけ長い間言葉を交わしていないのは、記憶にない。張飛は少々寂しさを感じていた。

「うむ、そうしよう」
 関羽の髭に隠れた口元が、微かに綻んだのを、張飛は見逃さなかった。
(なんだ、雲長兄者も兄者と話せなかったことを気にしていたのか。それで機嫌が悪かったのか?)
 二人は厩に馬を繋ぎ、劉備の館へと足を運ぶ。この時刻ならもう館へ戻っているだろう。
「申し訳ございません。まだ殿は戻っておりません。最近は城のほうに泊まるのも珍しくないようで。今日もこの時刻でお帰りにならないとすれば、おそらく城のほうに」
 出てきた侍女がそう頭を下げると、二人は顔を見合わせる。
 二人の知っている長兄は、必ずしも仕事好き、というわけではない。
 しなくてはいけないことは確実にするが、それ以外の、人に任せられるものはうまく任せてしまう、人を使うことがうまい人だった。任されたほうも、喜んで受けてしまう。劉備は相手をそういう気持ちにさせてしまうらしい。
 そういう所を見ていると、確かに劉備は人の上に立つ器量があるのだ、と確信する。
「どうする? 城まで行ってみるか?」
「しかし執務の途中ならば兄者の妨げになるしな」
「でもよ、兄者だって食事は取るんだし、それを一緒にするぐらい構わないんじゃないか?」
 諦め切れず、張飛は食い下がる。
「うむ、しかし」
 歯切れの悪い関羽に、張飛は呆れる。
 昔から、間羽にはそういうところがあった。普段は何事にも素早く決断を降し、自分の信義の下を揺らぐことなく進める男だ。
 しかし、戦や劉備の興隆に関わらないことになると、急に歩みが鈍る。事、劉備の私事に関わると特にそれが顕著だ。張飛は兄弟なのだから、妙な遠慮だとは思うのだが、関羽は違うらしい。
「そうだ、この間うまい酒を手に入れたんだ。一人で飲むのはもったいないからと、残してあるんだ。三人で飲もうぜ」
 張飛の館は近くだ。寄り道をして城に向かっても、夕餉には間に合うだろう。
 関羽の意見を聞くのが面倒になった張飛は、一人で先へ歩いていく。そうすれば、関羽もついていかざるをえない。それを見越してのことだった。
 二人が城に着く頃には、辺りは暗くなり始めていた。
 門兵が驚いて二人に拝礼し、門を開ける。
「兄者は居るか?」
 張飛が尋ねると、門兵はいらっしゃいます、と答えた。
 案内を付けようとする兵を、手で制し、二人は奥へと進む。この城も長い。案内など無くとも困りはしない。劉備が執務を行っている部屋も知っている。
「関羽殿、張飛殿。お二人が揃っていかがされました?」
 途中、通路で話し込んでいる二つの影が、驚いたように声をかけてきた。諸葛亮と、糜竺だ。声をかけたのは糜竺のほうだった。
「なぁに、兄者と食事でも、と思い立ってな。兄者はまだ執務の途中か?」
 張飛が聞き返すと、糜竺は頷いた。
「ええ。ですがもう少しで切りがつかれるかと思います。私たちも資料を探しに行く途中でして、それが終われば今日は仕舞いにしようと話していました」
「そうか、丁度よかったようだな」
「はい。殿は今日もこちらで食事を取られるそうですので、今用意させているところです。お二人の分も用意させるようにしましょう」
「手を煩わすな」
 関羽が言う。彼はどんな人間にも礼儀を忘れない。
「いえ、殿もお喜びになられます。このところ根を詰めていらっしゃいましたし、お二人がご一緒になられるのでしたら少し息抜きになるでしょう」
 糜竺は笑顔になる。糜竺はこの兄弟の仲の良さを良く知っている。今までは余ほどのことがない限りは、一緒に食事をしていたぐらいだ。糜竺も幾度も陪食している。
「殿とお二人は本当に仲が宜しいのですね」
 諸葛亮が柔らかな声で口を挟む。長身痩躯の端整な顔立ちに相応しい、柔らかでも凛とした声通りだ。もちろん、ただの優男ではないことは、先の戦で認めてはいるが、普段の姿を見ていると、想像するのが難しい。
「まあな」
 張飛は鼻の頭を指でこする。照れくささを隠すときの癖だ。
 初めは一番諸葛亮のことを不信がっていたのは張飛だが、彼の軍師としての力を見せ付けられてからは、一目置くようになっていた。
 その彼に張飛のもっとも誇りとする部分を認められ、嬉しさを堪え切れない。
「お主には中々理解できない絆だがな」
 関羽が言う。
 一瞬、張飛はおやっとなる。
(兄者がこんな素っ気無い言い方をするのは珍しいな)
 張飛ほどではないが、それなりに付き合いの長い糜竺も、微かに眉をひそめて不思議そうな顔になる。しかし、諸葛亮は何も感じないのか、微かに口元に浮かんでいる笑みは崩れない。
「そうですね。私にはまだそこまでの絆を持てそうな相手がいませんし。お二人が羨ましいです」
 その口調には素直な羨望が窺える。
「……」
 関羽は黙している。
 何となく、おかしな空気を感じ、張飛は背筋をむずむずさせる。
「兄者、早く劉備の兄者のところへ行こうぜ」
 この場を早く立ち去りたくなり、弟は兄を促す。察しの良い男も、それに続き、軍師に声をかける。
「私たちも行きましょう。急がないと資料を見つけ出せませんから」
「そうですね」
 諸葛亮は頷き、二人は兄弟に礼を取り、資料の置かれている部屋へ、足早に向かって行った。
 二人も、劉備の執務室に向かう。張飛は背中のむずむずが消え、ほっとする。関羽はむっつりと黙っていた。
 もともと饒舌なほうではないが、口のうまくない張飛に比べれば遥かに世知に長けている関羽が、今のような態度を取るのは不思議な気がした。
 特に諸葛亮はこれから劉備にとって大切な存在になるはずだ。それをあのような態度で接するとは、張飛は合点がいかない。
(やっぱり、虫の居所が悪いのか?)
 首をひねる。
「兄者」
 劉備の執務室を訪ねると、部屋には明かりが入れられていた。その中で、劉備が熱心に書簡を読んでいる。張飛が声をかけると、驚いたように顔を上げ、次の瞬間、破顔した。
「雲長、翼徳どうしたのだ?」
「久しぶりに兄者と食事でも、と思い立ったんだ。丁度うまい酒を手に入れたところだったし」
「そうか。そう言われれば、確かに久しぶりだな。最近はもっぱら机の前にいることが多いのだ。兵の調練にも立ち会えていない。お前たちに任せてある限り心配はしていないが、やはり自分の目でも確かめたいものだ」
「そうだぜ、兄者。体が鈍っちまうぜ。兵たちは俺や雲長兄者、趙雲がいるからいいけどよ、兄者の体を鍛えられるのは兄者自身なんだしよ」
「うむ。兄者も時折様子を見に来てくだされ。最近入った兵などもお目にかけていただきたい。まだまだこれからの者たちですが、頭角を現しているものもいます」
「そうか」
 二人の報告にいちいち頷きながら、劉備は嬉しそうだ。関羽も、先ほどまでのどこか不機嫌そうな気配は微塵もなくなり、劉備と話している。それを見て、張飛は自分の思い付きがいい方向に働いたことに喜ぶ。
「今日は雲長兄者、凄かったんだぜ。調練の仕方が俺並みに厳しくてさ。趙雲なんかすげぇ驚いてたし」
「なんと、雲長が? それは珍しいな」
 調練は関羽、張飛、趙雲の三人に任せてある。やり方もそれぞれだ。
 張飛はとにかく荒っぽい。だが、いざ戦になればもっとも勇敢に戦う軍になる。
 趙雲は丁寧だ。戦になれば素早く迷いの少ない動きをする。
 関羽は堅実だ。兵の士気は常に高い。それは関羽を心から信じているせいもあるし、決して理不尽な暴力を働かないせいもある。調練は確かに兵の限界を超えて行うが、そこに無意味な過重は枷ない。
 しかし、今日の調練は無意味なほどの厳しいものだったのだ。張飛や趙雲が驚くのも無理はなかった。
「たまには、兵に厳しくしないと調練にはなりませんから」
 劉備にも驚かれ、関羽は困ったらしい。指先が顎鬚の先を引っ張った。劉備と張飛の前だけで見せる、関羽の癖だった。
「それは正論だがな。私も見に行きたかったな、その雲長の調練を」
 ため息混じりに劉備が呟く。
「何せ事務的なことが大いに増えてしまってな。しばらくはここを動けそうもない」
「前みたいにさ、他の人間に任せちまえばいいんじゃないのか?」
 張飛がはた迷惑な提案をする。
「まあ、その手もあるのだが。諸葛亮が私以上に仕事をこなしているようで、そうなれば私もあまり手を抜いていられないだろう?」
 誠実な人間なのだ、劉備という男は。
「そうか。これをやり終えないと食事には出来ないのだった。少し待っていてくれ」
 どうやらやりかけだった仕事を思い出したようだ。劉備の視線が手元の竹簡に落ちる。
 二人は劉備の仕事をしている姿を、大人しく眺めていた。
 しかし、それも初めのうちだけで、元来体を動かしていないと落ち着かない張飛は、段々つまらなくなってきた。
「食事って、隣でするのか?」
「そうだが。どうした?」
 劉備が聞き返す。
「ちょっと暇だからさ。食事の用意を手伝ってくらあ」
 言うが早く、張飛の姿は消えていた。
「あいつ、侍女や厨房の者が驚くであろうに」
 落ち着きのない弟にあきれ、関羽は呟く。
「ふふ。翼徳らしいではないか」
 楽しそうに笑う劉備に、確かにそうですね、と同意した関羽だったが、しばらくすると、関羽もソワソワしだした。関羽も、何もしていないのが苦痛のようだ。ついに、
「兄者。拙者にも何か手伝えることはありませぬか?」
 仕事を求めはじめた。
「まったく。私の弟たちは兄に似ず、働き者だ」
 劉備が苦笑いし、関羽に仕事を分けた。



目次 次へ