「貰い火 1」
許チョ×曹操


 曹丕に年齢のことを口にされて、曹操は不機嫌そうだった。
 どうも曹操はこの長子を好きではないらしく、前線に出るのはやめて、政事(まつりごと)をしてほしいという進言にも耳を貸そうとはしない。許チョも、戦場に立たなくなった曹操を想像できなかった。
 戦よりも政事のほうが難しい、とあれこれ曹丕は理屈を並べていたが、曹操は部屋から追い出すようにした。そのあとすぐに曹植が顔を出し、詩の話などしていったが、曹操の顔は晴れなかった。
「許チョ」
 夏侯惇が現れた。曹操に呼ばれたという。拱手すると、左目に眼帯を巻いた顔に微かに笑みを浮かべた。曹操の軍の統括をしているが、夏侯惇の気質はどちらかといえば穏やかだ。どうして失った目玉を自ら飲み込んだ、という話が広まったのか、許チョはいつも不思議だった。
「機嫌が悪そうだな」
 許チョのことではない。部屋に居る曹操のことだ。長く許チョと行動を共にする曹操を除けば、どういうわけか夏侯惇だけは、表情の乏しい許チョから機微を察することが上手かった。今も、鬱屈している曹操のことを慮って僅かに沈んでいたのを見事に見抜かれた。
 黙って小さく顎を引いた許チョに、夏侯惇の口許に今度は苦笑が浮かんだ。
「丞相が私を呼ばれるときは大抵そうだ。人を何だと思っているのだろうな」
 冗談めいた口調はいつものことだ。夏侯惇の言うことは事実であるが、男は気にした風ではない。許チョが譲った戸の前に立ち、中へ声をかけた。入れ、という曹操の声に普段通りの調子で入っていった。
 先ほどの息子たちのときもそうだったが、耳をそばだてていたつもりは許チョにない。元々耳が良く、曹操の身を案じているせいか、切れ切れに聞こえる中の会話を勝手に耳が拾い上げていただけだ。
 孫呉を攻めるつもりで荊州、そして楊州へと軍を進ませていた。孫呉が全面対決を挑んできたのは、南郡と長砂郡の境、烏林だった。曹操は侵攻戦としては最後のつもりだったのだろう。曹操を守る、それだけが許チョの使命で、大勢(たいせい)にはあまり目を向けなかったが、それでも曹操がこの戦いに懸けている意気込みは伝わっていた。
 しかし――負けた。
 完膚なきまでに、と言ってもいいだろう。
 これまで長く許チョも曹操の身を守ってきたが、守り切れない、と思ったのはあれが初めてだった。
 生きて江陵へ連れていけ、という曹操の命令に「はい」と答えた。偽ったつもりはない。あの時は出来る、と信じていた。何より、絶対に曹操を死なせたくない、と許チョ自身が強く願っていた。
 だから、出来る、と言った。虚勢ではない。虎痴、と呼んだ声も、倒れかけた体も、間違いなく生きていたのだから、許チョはそれを江陵へ運ぶだけだった。逃げに逃げ、江陵まであと少し、となったところで追いつかれた。
 曹操を僅かな手勢に託し、自ら張飛たちに向かっていたとき、曹操が死ぬな、と言った。その時も「はい」と答えた。死ぬつもりはなかった。死んでたまるか、と思った。馬が潰れて張飛に負けた。首を貰うぞ、と言われても大人しくしていたが、死への覚悟があったからではない。不思議とまだ死なない、と考えていたからだ。実際、許チョは生きて曹操の下へ帰った。
 ただ、援軍の曹仁に迎えられ、鉛のように重い体を引き摺り、泥のように眠る曹操の顔だけ見に来たとき、曹操も、己も、生き残ったことが幸運だったのだ、と悟った。初めて、曹操の命を守り切れなかったかもしれない、と思ったのだ。
「派手な負け方をされましたしなあ」
 と夏侯惇の声が耳に届く。
「負けても、こうして生きている……」
 曹操の声が答えている。
 生きている。
 許チョの心にひっそりと影がさす。
 あの、あと。無事に曹操は生還し、江陵まで退いた。しかし、敗戦の影は色濃く曹操に覆い被さっていたようで、随分と心身を責め立てていた。
 誰が、ではない。曹操自身が自身を責めていた。いや、周りもまるで腫れ物に触れるかのように曹操に接した。それもまた、負担だったのかもしれない。
 眠れない、と。悪夢を見る、眠れない、食欲がない。そして痩せていく曹操を見て、許チョは己の無力さを感じていた。目に見える物からは守れるが、曹操の内側を蝕む影にはあまりにも無力だった。
 ある夜、いつになく派手にうなされていた曹操を、忍びなく起こした。曹操はいつものように大丈夫だ、と笑うだけだったが、ふとしたことから、曹操の内側で疼いた欲を許チョが処理しないか、と言われた。
 抱いてみないか、と訊いてきた。初めは冗談だと思った。曹操はそういうところがある。自分を驚かしてみたり、からかったりする場面はなかったわけではない。だが、その夜の曹操の瞳に浮かんでいたのは、純粋なる問いかけで、そして命令だ、と曹操は言った。
 許チョは従った。
 曹操を抱いた夜から一月も経っていないだろう。許チョはあまり過去のことを思い出す、懐かしむ、ということはない。だが、曹操を抱いた夜のことだけはなぜかしきりに思い出される。
 なんでもない、日常の隙間に落ちた、不意のひと時に、必ず思い出していた。
 曹操の、聞いたことのないような濡れた声や乱れた姿ではない。

『虎痴……っ』

 曹操だけが呼ぶ、と定められた、もう一つの自分の名。
 それを呼ぶ曹操の声に(ひそ)んだ願望、切望、渇望に、耳を塞ぎたくなるほど、胸が痛くなった。苦痛と暗い快楽に支配された声を、思い出してしまうのだ。
 死にたい、殺して欲しい、と曹操は叫んでいた。
 虎痴、と呼ぶ声の裏に、甘い蜜のように死への誘惑が広がっていて、曹操はそれを欲していた。
 虎痴、と呼ぶ声に返事をしていたら、きっと曹操は命令していた。
 自分を殺してくれないか。
 従えない。それだけには従えない。
 曹操の命を守ることが、曹操によって与えられた使命で、その命を奪うことがまた曹操の命令だとしても、絶対に従えなかった。
 だから、答えなかった。
 ただの一時の気の迷い。疲れて、深く眠ればきっと誘惑は文字通り一夜の夢だった、と曹操は笑う。笑ってくれるはずだ、と願って、答えなかった。
 事実、曹操を抱いた次の日、晴れやかな顔で許チョを招き入れた主は、いつも通りの主だった。安堵した。
 安堵したはずだが、こうして『声』を思い出すということは、まだ曹操は誘惑を断ち切れていなく、それを自分は本能で察しているのかもしれない。
 中の声は、合肥に兵を出す、など軍事のことへと話が移り、そして烏林での孫権との戦いは赤壁、と呼ばれている、と聞こえてきた。
 きっとこれからはそう呼ばれる、と曹操は言った。
 許チョは心にさしてきた影を追い払うようにして、警護に意識を集中させた。
 夏侯惇が帰り、しばらく曹操は一人で部屋に居た。外で警護しながら、許チョは傾き始めた夕陽を眺めていた。気配を感じ、視線だけ向けて得物の柄を握り直すが、すぐに緩めた。
「お久しぶりです、許チョ殿」
 一見すると笑って見える、その実は表情の乏しい顔は前のままだった。
石岐(せきき)
 成りは随分と縮まり、年老いたが、間違いなかった。殿に御用か、と訊くと、小さく頷いた。中に入り、ぼんやりしていた曹操へ声をかけた。今日の来訪者の中では一番曹操を喜ばせるだろう、と思い、許チョは珍しい方をお連れしました、と口にした。
 少しだけ、曹操の顔付きが和んで、石岐と話を始める。許チョは静かに部屋を出た。石岐の声は低く、部屋の外に出ると曹操の声が時折漏れるだけになる。
 何の話をしているのだろうか。死、という言葉が頻繁に聞こえ、今の時刻に合わせるように、長く細い影がまた許チョの心にさし込んでくる。
「丞相を、殿と呼んでおられるのか」
 話が終わったのか、戸も開いていないが石岐が庭先に佇み、問いかけてきた。年老いても五錮(ごこ)の身体能力は衰えが見えなかった。石岐の問いに対し、頷いた。
 烏林での大敗から逃げる途中、曹操がそう言った。
『私のことは殿、と呼べ』
 そして、曹操は許チョのことを『虎痴と呼ぶ』と決めた。
 許チョが曹操を『殿』と呼び、曹操が許チョのことを『虎痴』と呼ぶようになり、周りに人間はしばらく怪訝そうな顔をしていた。
「許チョ殿だけが『殿』と呼ぶのですか」
「そうだと、思う」
 実際に、他の人間が曹操を今の地位以外の名称で呼んだところは耳にしたことがない。また、愛着や畏怖を込めて少なくとも幾人かは許チョのことを『虎痴』と呼んでいたが、曹操が呼ぶようになってからは誰も呼ばなくなった。
「そうですか」
 呟く石岐は唇の端を持ち上げた。許チョが初めて見た、男の笑顔だった。
「まだ、丞相には生きていてもらいたい。どうか許チョ殿、丞相を守って差し上げてください」
 誰かが呼んでくれる名は力を持ちますゆえ。
 笑みを残すようにして、石岐はふっと姿を消した。許チョの目を持ってしても、どう去ったのか分からなかった。曹操の呼ぶ声がして、許チョは踵を返す。
 夕陽はもう稜線へと沈み切ろうとしていた。



 前を曹操が手綱を操りながら駆けている。まだ夏の名残がたっぷりと残っている時分であり、曹操は具足も付けずに軽装で馬に跨っていた。
 馬騰とやり取りをしたあと、曹操は急に巡察に出る、と言い出した。突然の行動には慣れていた許チョは手早く準備を整えて、麾下の三千で曹操を守るように巡察先へと馬を走らせている。
 涼州を束ねていた馬一族の長、馬騰は許都にて帝より何かを任されようとしていたらしい。獄へと捕らえていたのを、曹操が話をしたかったらしく連れ出した。
 帝のために働いている、と言い切る曹操へ、馬騰は帝を苦しめている、と詰る。曹操を罵倒する言葉に、壁際で馬騰の様子を窺っていた許チョは止めようとしたが、曹操は制した。二人の話は平行線を辿り、再び馬騰は獄へと繋がれた。
 その後すぐ、曹操は前触れをしない巡察に行こう、と言い出したのだ。
 気分転換のつもりなのだろうか。
 このところ、曹操の身辺は思い通りにならないことが多い。今までも決して順風満帆だったわけではないが、許チョから見ても曹操の表情が晴れる出来事は少ない。
 ただ今は、背中しか見えてないが、機嫌は悪くなさそうだ。馬騰とのやり取りも別段険悪な雰囲気ではなかったのだが、未だに曹操の『声』を思い出している許チョとしては、余計な気を回したくなったのだ。
 巡察の途中、司馬懿に出会った。
 共に回ることにした曹操は、司馬懿にあれこれと質問を投げかけては、返る答えに満足していたようだが、はっきりと罵られていた馬騰との会話よりも、曹操の機嫌が悪そうに思えた。
 曹操は司馬懿が嫌いなのかもしれない。
 各地を巡り、昆陽で宿を取ることになった。また曹操は司馬懿に質問をして、頷いていたがすぐに傍から離した。三千の兵を受け入れてごった返していた宿営地も、夜遅くなった今ではすっかり落ち着いている。
 寝衣に近い格好で曹操は外を歩き出した。城内、ということで護衛は許チョ一人だ。ふらり、と散歩のような気楽さで曹操は歩き、星空に近い城塔へと足を伸ばした。月が夜空を支配している、明るい夜だった。
 遥か地平線まで見通せる大地と輝く月を、何を思いながら曹操は眺めているのだろうか。
 曹操を抱いた夜から、許チョはこうして曹操の考えに思いを馳せる。以前はあまり考えなかった。考えなくとも曹操を守れたし、曹操がしたいことに従えば良かったのだ。必要がなかった。もちろん、曹操が人を近付けたくない、と思っていれば察して退き、近くに、と望めばその通りに動いた。それは経験であり、勘でもあり、曹操の考えを読んでのことではない。
 そもそも、人は違う。ひとりひとり違う。曹操は曹操にしかなれないし、許チョは許チョにしかなれない。理解しよう、というほうが難しい。特に曹操という男の考えることなど常人には測りづらい。許チョは曹操という男を仕える相手として慕っていたし、一人の人間としても好きだ。曹操の考えや思いが理解できるからではなく、曹操が曹操だから好きだった。
 それは相手が曹操に限らず、許チョは相手をそう見る。共感できるから、自分と似ているところがあるから、と人は必ず自分と同じところを相手に探し好意を抱くが、許チョは必要としなかった。本人が、本人として生きている姿に、許チョは好ましさを覚えたからだ。相手の生き方に決して自分が共感できずとも、嫌悪や好ましさは関係なかった。
 だからこうして相手の気持ちを推し量るような真似をするのは初めてで、そんな自分に戸惑っていた。
「私は、負けたのだな、虎痴」
 曹操が言った。
 何を、曹操は考えているのだろう。
 知りたかった。
 それは許チョにとって生まれて初めてとも言える、相手を知りたい、と望む心だった。
「負けの味は、よく知っているつもりだった。どれほど負けようと、立ち直れる。そう思ってきた。それは、ほんとうに負けていなかったのだ、という気がする」
 半歩先の曹操の肩に、月の光が降り注いでいた。空を見上げる曹操の横顔を青白い光が照らしているが、何を考えているのか分からない。ただ、なぜか許チョの心は震えた。
 泣きたくなった。
 白い光は曹操の存在を希薄にさせるようで、言葉がついて出た。
「殿は、生きておられます」
 自分も生きている。だから、曹操を守っていられる。曹操は、目の前に立っている。
「胡床をもて。酒を運ばせろ」
 命じられるままに許チョは階下へと降り、胡床と酒の用意をする。急いで戻ったときに変わらず曹操が佇んでいて、ほっとした。なぜか、曹操が居なくなってしまうような気がしていた。
 用意した胡床に腰かけ、台を傍に置き、上に乗せた酒を曹操は静かに飲み始める。無言だった。月を見上げながら、黙々と杯を重ねている。
 何を考えているのだろう。
 訊いたら、答えてくれるだろうか。
 殿、と呼びかける息が咽元まで出かかり、そして消える。何度繰り返しただろう。
 曹操の口から低く何かが溢れてきた。自然と、許チョは息を潜めた。
 歌だった。曹操は時々歌を詠う。良い声で、文官の前で政務を執るときの声とも違い、武官の前で号を発するときとも違う、良く響く沁みるような声で詠う。許チョはそれを聴くのが好きだった。
 詩の意味は分からずとも、詠う曹操の心は不思議と伝わる。
 政をしているときも、戦をしているときも、曹操は曹操であるが、許チョは詠っている曹操が好きだった。たぶん、一番曹操がしがらみなく時を過ごしているからかもしれない。
 今夜の歌は悲しかった。恐らく兵士の歌だろう、と察した。
 心が震える。
 戦に疲れ、それでも休まない兵士たちの歌は、曹操の声で悲しみに溢れる旋律を奏でている。詠っている曹操の瞳は光を注がれて乾いている。涙は浮かんでいない。
 許チョの胸は今までないほどに切なさを覚えた。
 こんなことは経験したことがない。曹操の歌を聴いて心を打たれることはあったが、ここまで揺さぶられたことはなかった。まるで自分ではない、誰かの心に共鳴しているかのようで、ああ、と許チョは悟った。
 曹操とだ。目の前の、胸に迫るほどの歌を詠い上げているにも関わらず、泣くような気配を仄かにも漂わせない男の心が、許チョに乗り移っているのだ。
 あの夜と同じだった。
 曹操に抱け、と命じられた。曹操に対し欲を覚えるか分からない、と答えた。嘘は言っていない。事実、繋がることまで出来るかどうか、自信はまったくなかった。それが抱き始めておかしなほどに欲情を覚えた。
 今夜と同じだ。
 男で、しかも曹操を相手に今までにないほど劣情を覚えたのはきっと、相手の劣情に共鳴したからだ。曹操の傍に常に身を置き続けたせいで、知らずに心まで寄り添っていた。理解しようと思ったことはないが、肌で感じ続けていた。
 だから、曹操が死なせて欲しい、と願っていたことも手に取るように理解できたのだろう。
 曹操の肩が滲んで見える。不意に立ち上がった曹操の体が揺れ、支える。
「虎痴か」
 返事が出来なかった。
 腕の中の曹操が歪み、頬を伝った熱い雫に、許チョは自分が泣いていることに気付く。
 懐に体を寄せるようにしている曹操が、胸元と腕で支えてくれてはいるが、無言の許チョを不審に思ったらしい。見上げて、頬を濡らしている涙に驚く。
「泣いているのか、虎痴」
「はっ」
 声が辛うじて漏れた。返事とは言いがたい、吐息のような声だ。
「泣きたくなる夜だな」
 しかしそう口にする曹操の目は乾いていて、代わりに許チョの目からはまた涙が溢れた。嗚咽がこぼれた。曹操の体を支えながらも、片手で顔を覆おうとしたが、曹操の手が伸びて頬を濡らした涙を拾った。
「と……の」
 嗚咽を堪えながら呼ぶ。指で掬った涙を曹操は舌を伸ばして舐めた。
「これが虎痴の涙の味か」
 体が熱くなった。羞恥だろうか。咄嗟に、曹操の顔を硬い鎧へと押し付け、自分の顔を隠した。小さく呻いた曹操にはっとして、急いで力を緩めて膝を折る。
「申し訳ありません」
 何とか言葉になった。俯いて、曹操の足元を見つめる。涙は辛うじて止まった。許チョという支えが無くなっても今度は、曹操はしっかり立っている。
「お前が泣いているところは、初めて見た」
 ますます顔を深く伏せる。もう沓の先しか見えなかった。曹操の影で月明かりは遮られ、視界は暗い。
「なぜ、泣いた」
「詩に、心打たれました」
「そうか、私が泣かしたのか」
「……」
 どう答えていいのか迷ったが、思ったままを口にした。
「殿が泣かれませんので」
「……私の代わりに、か?」
 面白いことを聞いた、とばかりに曹操の口調がからかいを帯びる。はい、と答える。気分を害しただろうか。許チョは心を偽り伝える(すべ)を持たない。思うままに答えるしかないのだ。
「虎痴」
 曹操しか呼ばない、許チョを表すもう一つの呼び名が耳を打つ。逆らうことを許さない、強い声音に、顔を上げろ、と言われる前に顔を上げた。曹操の肩越しに明るい月が見える。
 顔の半分ほどしか照らし出されていない曹操の表情は読みづらかったが、許チョには分かった。
「出来ません」
「まだ何も言っておらんが?」
 愉快そうに曹操は言う。
「殿を抱くことは、もうあれきりです」
「なぜだ? 好くなかったか」
 欲情、していただろう? と暗に問いかけられる。
「あれは、殿が望んでいたことに応えたためです」
「また、私のせいか?」
「……っ申し訳ありません」
 そういうつもりではなかったが、確かにそう取れる。顔を伏せようとしたが、曹操の腕が伸びて頬に添えられる。ゆっくりと曹操が膝を折り、許チョと視線の高さを合わせてきた。
 間近で合わさった視線に確信する。曹操の眼差しはあの夜と同じ、死への切望と、人肌が欲しい、という劣情に濡れていた。体の奥底に火が灯る。曹操の方寸に寄り添っている今、情炎は容易く許チョへと飛び火してしまう。
 視線をそらしたかったが、出来なかった。
「虎痴」
 有無を言わせない語調ではない。ただ、呼ばれただけだ。それが心地良く、とくん、と心臓を疼かせる。知らずに息を詰めていたらしく、引き絞っていた唇を緩めて短く息を吐き出すと、待っていたかのように曹操の唇が掠め取っていく。
 ()けられたはずだが、動けなかった。そんな許チョの心を読むように、曹操が言う。
「避けないな」
 視線を外した。伏せる瞬間に笑みを含んだ曹操の唇だけ目に入った。立ち上がる気配がして、曹操の声が頭上から降る。
「今夜は少し酔った。寝所へ連れて行け」
「はい」
 返事が出来たのは、今までのやり取りが嘘のように、曹操の声音が普段通りに戻っていたからだ。許チョも立ち上がり、曹操の体を支えるための腕を伸ばした。腕に寄りかかった体の重みと温かさに、一瞬だけ目を瞑り、支えながら歩き出す。
 急な巡察で用意された部屋ながら、室内の調度は上等だった。酔った、と言った曹操は、支える許チョの腕に安心したように身を預けている。牀台まで添い、腕の中の曹操へ声をかける。
「横になられますか」
 ん、と同意する声が聞こえたが、中々曹操の体は離れない。まるで離れがたい、と言われているようで、消したはずの『火』が再び灯りそうになる。仕方無しに半ば抱えるように横抱きにし、牀台の頭に背を預けるようにして下ろした。
 腕から重みと温かみが遠のいた途端、言いようのない寂しさが許チョを包む。そんな思いを抱いた自分を恥じ、いつものように退室しようと身を引きかけたが、曹操の指が許チョの袖を掴んだ。
「そんな顔をしてどこへ行く」
 顔を見た。明かりが灯っていない室内は、暑さを飛ばすためか煽り窓が開けられている。薄っすらと射す月明かりに照らされ、曹操の双眸は光っていた。射抜かれて、動けなくなる。袖を強く引かれて、体勢を崩すように牀台に手を付いた。
 曹操に半ば覆い被さるようにしていた。急いで身を引こうとしたが、やはり体は思うように動かない。
「虎痴」
 強い(めい)も含まれず、誘うような甘い声でもない。また、曹操はただ許チョを呼ぶ。心臓が疼いた。
「私を抱きたい、という顔をしている」
「そのようなことは」
「体がいつもより熱いぞ」
 牀台に付いた手の甲を曹操の手がなぞる。
「暑かったからでしょう」
 小さく、曹操が笑った。
「お前らしくない。先ほどから言い訳ばかりだ」
 羞恥で顔が熱くなった。
「抱きたければ抱けばいい。私は構わない」
「殿、それは」
 間近で、強い眼差しが光る。
「お前の言い訳など聞きたくない。是か否で答えろ」
 答えは『否』だ。出来ない、と答えるべきだ。しかし、声は中々溢れようとしない。欲しいのか、と許チョは初めて自問した。曹操の欲情に煽られているだけではないのか。許チョが許チョとして曹操を欲しているのか、そうではないのか。
 分からなかった。
「申し訳ありません」
「それは、どっちの意味だ」
 抱けないゆえの謝罪なのか、抱いてしまうための謝罪なのか。汗が頬を伝った。ふっと曹操の厳しかった眼差しが和らいだ。
「虎痴、命令だ。私を抱け」
 唇を吸われた。柔らかく熱い感触が唇に濃厚に残る。
「従います」
 押し殺した声で答えた。



目次 次へ