「刻印 1」 許チョ×曹操 |
苦しい。 何かに縋るように差し出した手はただ泥を掴み、指から抜け落ちていく。 口に泥水が入る。吐き出せずに半分ほど飲み込んでしまい、むせる。 目を見開いた。 闇が、 果てしなく続く闇の向こうで、一つの灯りが見えた気がした。 あれは。 船団の燃える灯りだ。自軍の誇る大軍勢の水軍が、岸壁を赤く染め上げ盛大に燃えていた。 声にならない慟哭が咽奥から絞り出される。 そしてしこたま泥水を飲み込み、またむせる。 これで、大陸を制すことが出来るはずだった。宦官の孫、と嘲笑われた自分がここまできた。漢王朝に取って代わる新たな国を起こし、大陸を制すことが出来た。 そう確信すらしていた。 しかし、伸ばされた手は泥すら掴めない。 ただ、指から滑り落ちる。何に縋ることも出来ずに、滑り落ちていった。 「丞相、しっかりしてください。丞相!」 水を介して聞こえるような、漠々とした声が泥に漂う曹操の耳に届いた。 途端に、曹操の無意識に伸ばした指先に触れたものがあった。それをしっかりと掴み、跳ね起きた。 「あ……?」 跳ね起きた拍子に首筋を汗が流れていった。まだ真冬の寒い時期だと言うのに、曹操は全身に寝汗を掻いていた。 「申し訳ありません。ご無礼を承知で起こしました」 ぼんやりと、曹操は自分が掴んだものに目を落とし、手繰るように視線を上げた。 部屋は闇が深く身を沈めて暗かったが、近くにしゃがむものの姿は辛うじて見て取れた。 掴んだものは鍛えられた腕で、自分を見下ろしているのは、微かに眉をひそめている男だ。男の名を口にした。 「許チョ、か」 「はい」 短い返答に、ようやくここが炎の渦巻く船の上でもなく、骨まで凍らすような泥水の中でもないことに気付く。 「そうか、私は助かったのだったな」 全身を濡らす汗は不快だったが、自分が生きている実感を与えてくれているようで、安堵した。 静かに頷いた許チョの存在もまた、曹操に生への実感を確かなものにしていた。 後に赤壁、と呼ばれる石頭関、烏林付近の崖が赤々と炎に照らされる様は、未だに曹操の脳裏、全身に刻み込まれていた。 恐らく、一生忘れることは出来ないだろう。 生き残った、という思いと共に、それもまた曹操の胸へ確信と共に刻まれていた。 今、こうして燃え上がる船団から逃れ、迫る劉備軍の追撃をかわした後も、悪夢のように毎夜現れて、曹操を苛ます。 江陵へ入り十日が過ぎた今夜もまた、寝汗を掻くほどに曹操を苦しめ、縛っていた。 「丞相?」 身内の声に長く耳を傾けていたつもりはないが、この寡黙な男を不安にさせるほど、自分は沈黙していたようだ。 「許チョ、いや、虎痴。私のことは殿、と呼べと言っただろう」 虎痴の不安を消すためにも、小さな笑みを浮かべて言った。 「はい、殿。……大丈夫でございますか?」 従順に答えてくれる男を好ましく思いながらも、痛心を感じる物言いに、自分の顔がよほどひどい顔をしていることを察した。 「そんなに、私の様子はおかしかったか?」 一瞬だけ口篭もる気配を見せたが、虎痴は首を縦に振った。 「とてもうなされておりました。礼を欠くことを承知で殿を」 曹操の身に危険が迫らぬ限り、寝所への出入りは極力しない虎痴が、ましてや眠りまで妨げるような真似をしたのだ。よほどひどい有様だったのだろう。 「そうか。いや、大丈夫だ。助かった」 実際、嫌な夢だったのだから。いや、夢ではなく現実にあったことを反芻しているだけだが。 労いの言葉を掛けながら、曹操は表には見せずに失笑した。 また、お前に助けられたのだな。 虎痴が、この男が居なければ、間違いなく自分は生きてはいなかった。あの、生死の境を彷徨う行軍は、虎痴が居なければ黄泉への行軍となっていた。 最後、身を挺して張飛と趙雲を止めに駆けていった虎痴の後ろ姿は、虎痴の無事に帰還した姿を目にしても、しばらく瞼の裏に焼きついていた。 急に汗が引き、寒気を感じた。身を震わした曹操の様子に気付いたらしい虎痴が気遣った。 「殿、そのまま眠られましたらお風邪を召します。湯を用意させますので、お体を拭かれてから眠られた方がよいでしょう」 「そうだな」 汗で張りつく衣も不快だった。曹操は虎痴の言葉に素直に頷いた。 侍女に湯の支度を頼みに消えた虎痴を見送ると、曹操は自ら燭台に火を入れた。 闇を退けた炎の揺らめきに、ささくれ立った心が和んだ。 不思議だ。我が軍を壊滅させ、私を苦しめるのも炎なら、その心を安らがせるのも同じ炎なのだからな。 目を細めて、時を忘れるほどに炎を眺める。 体が疲れきっているのを感じる。 あれだけの強行軍をやってのけたのだ。なおかつ、若い時分ならともかく、曹操も歳を重ねている。疲労が抜け切らないのは当然だった。 しかし、それだけのせいではない。 この、毎夜のように繰り返される悪夢が、曹操の回復を妨げているのだ。深く眠れるのならば、きっと夢など見ないだろう。 だが、体の疲れ、敗北への悔しさが困難なものにしていた。結果、心身の回復がはかどらず、また夢を見させる。 悪循環だった。 疲労の滲んだ嘆息がこぼれ落ちた。 「殿」 丁度部屋に入ってきた虎痴に聞かれてしまった。 「お疲れですか?」 「分かるか」 「お顔の色が優れぬままでございます。江陵へ来てからも」 「そうか」 また、ぼんやりと炎を見つめる。 「お眠りください。そうすれば少しは」 「眠るとうなされる。そして眠れなくなる。その繰り返しだ」 目を伏せる虎痴に、曹操は笑い掛けた。 「案ずるな。私は平気だ。このぐらいの負け戦で折れたりはしない」 静かに頷く虎痴は、それでも気遣う雰囲気を醸し出していた。 侍女の声がして、湯が用意できたことが伝えられた。部屋へ入るように言うと、桶に並々と湯を湛えて侍女が入ってきた。 体を拭こうとする侍女を、しかし曹操は断った。 「自分でやる」 しかし、と戸惑う侍女に、曹操はさらに言った。 「よい」 侍女は頭を下げて退室した。 今は、あまり人と触れ合いたくない気分だった。 その心持ちが伝わったのか、虎痴も退室を願い出た。 「殿、私も失礼いたします」 桶に添えられた布を湯に浸した曹操は、まだ虎痴が部屋にいたことを思い出す。 虎痴は大柄な四肢に似合わず、影のように曹操の傍にいる。そのため、時々存在を忘れることがある。しかし、曹操が望めばすぐに姿を現し、気配を生み出してくれた。 「そうか、虎痴、お前が拭いてくれないか」 虎痴ならば、傍にいても煩わしくない。 「私でよろしければ」 先ほどの侍女よりも戸惑いが濃かった虎痴だったが、曹操の命を断るようなことはしない。渡された布を受け取った。 湯桶の中で固く絞られた手拭いを手にして、虎痴が曹操の傍らに立った。曹操は汗に濡れた衣を脱いだ。 燭台の明かりが、曹操の裸体を照らし出した。すでに自ら剣を取ることも少なくなったが、若い頃から体を鍛えることを欠かしたことはなかった。 そのため、未だ引き締まった肢体を保ってはいたが、肉の付いていたはずの体は、細く見えるほど削げていた。 「お痩せになられましたね」 虎痴は常に曹操の傍らにいる。時に曹操の体を自らで庇い、支えることもしている。家族よりも曹操の変化に敏い存在になっていた。 「そうだな。あまり食も進んでいないしな」 他人事のように呟いた。 何かを言いたそうに虎痴の口元が動くが、そこから声が漏れることはなかった。 あまり出過ぎたことを言うこともなく、ただ黙して従う男のこういうところが、曹操は好きで、心地良く思っていた。 手拭いは程よい力加減で首筋から肩、腕、と下り、脇や胸、背など、余すことなくなぞられる。女がやる微妙に優しすぎる拭き方ではない、少し強く、しかし加減を知った拭き方に、気持ち良くなる。 黙々と体を清めていく虎痴の、ごつごつとした手を眺める。 あの手に支えられて、私は生き延びたのだな。あの手が私を泥の中から引き上げ、そして支え続けた。 唐突に曹操を、強烈なまでの生への喜び、執着、とさえ言える思いが襲った。 今まで、生き延びたことへの喜びと、死んだほうが楽だったのではないか、という相反する思いの狭間にいた。恐らくそうした揺れ動く心境も、悪夢を見続けている因の一つではないか、と思った。 これ以上生きていても辛いだけではないか。あの炎に身を焼かれてしまったほうが良かったのではないか。いや、それでも生きたい。何としても生き延びたい。 揺さ振られる生と死への強烈な誘惑。 しかし今は、虎痴の無骨な指のわりに器用に自分の体を拭くそれを見ているうち、曹操は、強烈なまでに生への妄執を覚えた。 生き延びたのだ。生きていて良かった。生きたい。 そう、強く胸の奥底で叫ぶ声が聞こえた。 そして同時に、体の奥底からも疼くような熱が込み上げた。 昔は良く感じていた感覚だった。 人は生死の境を越えた時、猛烈に餓えるのだ、という。その餓えは食物に対してではない。自分を残したい、自分が生きた証をどこかへ刻みたい。そう願うがゆえの渇き、餓えなのだ、という。 精を放ちたい、女を抱きたい、自分の子を残したい、生きた証、生き延びた喜びを感じたい。 戦を一つ終えるたびに、曹操は渇きを覚え、女を抱いた。 今は、すっかりそんな渇きがあったことさえ忘れていた。しかし、久しぶりに強烈な渇きを感じていた。 懐かしい、とさえ思えた。 餓えははっきりと体にも現れたようで、しゃがみ込んでいた虎痴の手が止まった。 「女をご用意しましょうか?」 尋ねてきた。 曹操は下穿きすら着けていない。我知らずに中心が昂ぶっていることは、燭台の灯りで虎痴にもすぐに分かったようだ。 「いや、よい」 しかし、やはり誰とも触れ合いたくない気分だけは変わらず、昂ぶる熱は持て余すほどなのに、女を抱く気にはなれなかった。 虎痴が問うような眼をした。 主の言うことに疑念を抱く素振りはほとんど見せない男にしては、珍しかった。 「そのような気分になれない。誰も傍に置きたくない」 頭を振り、無言の問いに答えた。 「では、私も下がったほうが」 曹操から離れようとする虎痴へ、また頭を振って止めた。 「それならば、このような真似はさせない。お前は別だ、虎痴」 「しかし、熱を冷まさねばお辛いでしょう」 女を抱かぬなら、一人で吐き出すしかない。邪魔しないためにも切り出したようだ。 どこまでも主の意を汲み取る男に、口元が綻んだ。同時に、小さな悪戯心も湧いた。 少し、男の忠義心を試したくなった。 曹操は、何気なく訊いてみた。 「ならば、お前が冷ましてくれぬか、虎痴」 滅多に表情の変わらない虎痴の面容が、驚きに彩られた。 その貴重な表情に、自分の悪戯心は満足した。後は、忠義のほどだ。 自分でも、中々に底意地の悪い問いだ、とは思った。普段の自分ならばこのような真似までして臣下の忠義を試すような真似はしない。 だが、今は肢体を脅かす疼きと、先ほどまで縛りつけられていた悪夢の残留が、心を曇らせていた。 「……」 虎痴の驚きの顔はすぐにいつもの無表情へと戻りはしたが、瞳だけは戸惑ったような色を浮かべ、沈黙を持って曹操を見上げていた。 「嫌か」 重ねて訊いてみた。 ゆっくりと、虎痴の瞼が下りた。それからそれが上がるまで、ずいぶん時間が掛かったような気がした。 虎痴の口からどのような答えがこぼれるのか、曹操は計れなかった。 断るなら構わなかったし、受けても面白い、とも思った。ただ、どういう顔で、どういう言葉で虎痴が受けるのか、それだけが気になった。 虎痴の瞼が上がったとき、瞳から戸惑いが消えうせていた。 「私でよければ」 そう答えた虎痴の声は、曹操の命に答えるときの声と同じ、短く、低い声で、確固たる意志を感じる普段と何一つ変わらなかった。 曹操は目を細めて虎痴を見下ろした。 また、体を苛ます疼きが強くなった気がした。 静かに、虎痴の手から手拭いが落ち、湯桶の中へ沈む。湯を揺らしながら手拭いが底へと下りた。 「どのように、冷ましてくれる」 問う自分の声が、桶の湯を揺らす。 「私の手は女のように柔らかくありません。殿がお嫌でなければ、口で致します」 「構わない」 大きく、湯が波紋を作った。 「寝台へお座りになってください」 言われるままに、曹操は寝台へ腰を下ろして、前に虎痴が跪いた。 「失礼します」 節くれ立った手が、曹操の内股に手を掛け、左右に開いた。虎痴の眼前に晒された曹操の下肢は屹立し、存在を主張していた。 虎痴の手が添えられ、先端から一気に、躊躇いもなく深く銜えられた。 「……っは」 短く息が落ちた。 雄に絡みつく熱い口腔が、曹操の頭を痺れさせた。熱の中で、さらに雄は屹立した。 眼下で、自分の雄を銜える虎痴の口元が燭台によって照らされている。 背骨が甘い痛みを伴わせるほど、痺れた。 男に銜えられて好くなれるかとも思ったが、女と変わらないのだな。 頭まで痺れさす雄からの熱に思考を乱されながら、曹操はまた、吐息をこぼした。 深く銜えられ、強く吸われながら先端まで戻る口腔の妖しい動きに、息が上がった。 世の中で、男同士で寝る者がいる、と聞いたことはある。何が良いのか分からなかったが、あまり変わらないのかもしれないな。 漠然とそんなことも思った。 舌が、先端の割れ目を柔らかく侵しに掛かった。 「虎、痴……」 息を乱し、自分の雄を銜えている男の名を呼んだ。 「お辛いなら、私の肩へ」 くぐもった声で虎痴が言った。声を発するたびに、咽奥から熱い息が吹きかかる。それに感じ入りながら、曹操は前屈みに虎痴の逞しい両肩に手を置いた。 舌先が、割れ目の奥を脅かす。 「んんっ」 堪らず、声が濡れた。 仕込まれた女の 先端から欲が溢れ出した。舐め取る虎痴の舌が、先端から根元へ下がり、また上がった。唇に括れを挟み込まれ、上下に揺すられると、欲がさらに溢れた。 「は、あっ」 きつく眉根をよせ、虎痴の肩を覆う布を強く掴んだ。それでも、虎痴の鍛え抜かれた体は揺るがず、微動だにしなかった。 薄く開いた目が、ゆらり、と歪む視界を映す。 深い闇が支配する夜は、どこまでも静かだった。耳を打つのは、虎痴の口から発せられる欲に塗れた音と、自分の荒い息遣いだけだ。 根元までまたしっかりと銜え込まれた。そのまま唇と舌が密着したまま、精を絞り出そうとしているかのように、ねっとりと先端まで這い上がった。 「……くぅっ」 歪んだ視界が、色を失っていくようだった。色を失っていく景色を瞼で消し去り、虎痴の舌に神経を集中させた。 競り上がる吐精感に、身が震えた。 「虎痴、もう、いい。離せ……っ」 限界を感じ取り、離すように虎痴に伝えるが、なぜか虎痴はそのまま舌戯を続ける。 「虎、痴?」 名前を呼ぶが、いつもは必ずあるはずの返事がない。蠢く口腔で、曹操の雄はさらに昂ぶっていく。 「そのまま、では、お前の口に……ふぅ」 仕込まれている女相手なら気にもしないが、相手はこのような真似をするのも初めてだろうし、男で、しかもただの戯れのつもりで頼んだだけだ。 曹操の熱くなりきれていない部分の頭が、躊躇っていた。 「構いません」 口を離し、短く答えた虎痴は、すぐにまた しかし、と未だに躊躇を見せる曹操を促すように、虎痴の口腔が強く吸い付いてきた。 「……んんっ」 下腹が強張り、足先が丸まった。 虎痴の口へ、精を吐き出していた。口の中で幾度か身を震わして吐き出す己を意識しながら、解放感に酔う。 薄っすらと目を開くと、虎痴は曹操から口を離すところだった。口元から、一筋だけ白い雫がこぼれた。それを肩に置いた手を滑らして、指先で拭った。 虎痴が小さく驚いた顔をした。 「飲んだのか?」 それ以上、自分の精が落ちないのを見て、曹操は確認する。 「はい」 自分を見上げる虎痴の目に、行為に対しての気負いも 何とはなしに嬉しく思いつつ、指先に付いた自分の欲を舐め取ってみた。 「美味くはないな」 正直に感想を口にした。さすがにそれには答えられなかったのか、虎痴は黙っている。 耐え難いほどの熱は、少し治まっていた。だが奥底で じじ、と燭台に置かれた芯が燃える音が耳に入った。 「虎痴、お前は男を抱いたことはあるのか?」 静かに、曹操から一歩下がった虎痴が、跪いたまま問い掛けに首を横へ振った。 「いえ」 「戦の最中の陣営では、女を抱けない代わりに男を抱く輩もいる、と聞くが、お前はないか」 眠るための寝物語のような、 「いえ。そのような気になったことはありません」 「しかし、戦となれば血も昂ぶるだろう。それを晴らす為にも人肌を求めることもあるのではないか?」 「私にとって戦とは、そのときが来るまで静かに待つものです。ときが来るまでは昂ぶりません」 「そうか。お前らしいな」 ひとたび戟を振るえば、虎が暴れだした、と恐れられる男も、確かに戦場に立つまでは影のように、曹操の傍で息も殺しているかのように佇んでいる。 動く 「それでも、戦が終われば女を抱きに行くこともあるだろう」 「はい」 「虎痴はどのような女が好みだ」 虎痴は未だに妻を娶(めと)ってはいない。 「特には」 「好みがないのか? 見目が麗しいだとか、床が上手だとか、従順であるとか」 虎痴と、こうして他愛もない会話をするのは久しぶりのような気がした。そもそも、虎痴は口が重い。しかし、曹操は虎痴の無駄のない答え方が好きだったし、美辞麗句で飾られる都の人間より素朴で、楽しかった。 「いえ、あまり。私に言い寄る女はいませんし」 「そうなのか? 確かに強面だが、男としての魅力に欠けているようには思えないが」 半ば本気で言うが、珍しく虎痴が唇を綻ばした。 「そのようなことをおっしゃるのは殿ぐらいです。女は、私が何を考えているのか分からないようで、気味悪がります」 「なるほど。女どもは見る目がないようだな」 冬の静かな夜が、二人を饒舌にさせているようだ。 「男も言い寄ってきません」 虎痴が慣れない 曹操の、男は抱かないのか、という問いへの虎痴なりの返答だろう。 小さく笑い声を立てた曹操だった。 「さあ、殿。そろそろお召し物を。冷えます」 虎痴が促した。 気付けば、燻ぶっていた熱が冷めていた。その隙を狙うように、寒が曹操の身を凍らせようと忍び寄っている。 じじ、とまた燭台が身じろいだ。 虎痴が新しい衣を取りに行くつもりか、立ち上がった。不意に奪われた人肌の温もりが、曹操の心をさざめかせた。 自分に背を向けた男へ、声を掛けた。 「虎痴、お前は本当に男は抱けないか?」 「男に欲情を抱いた覚えはありませんから」 部屋の隅に置かれた物入れから、衣を取り出そうとしている虎痴に歩み寄る。振り返った虎痴が持つ衣を取り上げ……。 床に落とす。 「殿?」 「私の命でも抱けないか?」 さざめく心が、人肌を恋しがっていた。 それは身を蝕む寒さのせいではなく、この人の心を解す静かな夜のせいでもない。 「私を抱け、と言ったら、抱けるか?」 奪われた人肌へ、曹操は身をすり寄せた。 「殿、お体が冷え切っております。お早くお召し物を」 人肌の暖かさを心地良い、と感じる間もなく、虎痴にやんわりと引き剥がされてしまう。 「答えろ、虎痴」 傍に立つ虎痴は、見上げないと顔が窺えないほど大柄だ。無表情のはずの顔が、困惑を宿して炎に照らされていた。 「熱が冷めないのでしたら、やはり女を」 「虎痴」 遮り、言葉を重ねる。そこへ強い命を含ませて。 「分かりません」 肯定、否定、以外の返事をその口から聞くのは初めてかもしれない。 「男に欲を抱いたことはありません。殿の命といえども、出来るかどうかは答えられません」 「やり方は知っているか」 「一通りは」 知識としてはある、と言う。 「試してみないか」 困惑が、無表情に覆い隠された。横顔を照らす炎さえも暴けないほどに、表情が読めなくなった。 「それは、命令ですか」 「そうだ。曹操孟徳の命だ」 「では、従います」 ゆっくりと、頭が下がった。 |
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