「主従関係に10のお題」
  曹操と許チョ 6〜10


6 誓い立て



 目をこする。
 それから頭を揉む。
 いつもこのぐらいになると痛み出す、憎らしい頭痛だ。
 疲れが溜まっているのは分かっている。ここ最近は激務だ。激務を激務とも思わない曹操であったが、その曹操にしてもそう思うほどの煩雑さだった。
 周りの人間も精一杯やっているし、むしろ周りの人間がこうも優秀でなかったら、当に曹操も音を上げていただろう。それでも、睡眠時間は最低限で、食事すらままならない。
 こんなとき、恐ろしい考えが曹操の底から湧き上がろうとして、その恐怖に身を震わす。

『どうしてわしがこんなに苦労をしているのだろうか』

 迷ったわけでも、嫌になったわけでもない。自分自身で望み、選び、もぎ取った地位であり、目標だ。
 だからこそ、そう考えてしまう自分が恐ろしくなるのだ。
 疲れているせいだ、と言い聞かせ、気休め程度にしかならない頭を揉み解す行為をやめて、また書簡に手を伸ばした。
 しかし限界だったのだろう。
 治まったかのように思えた頭痛がぶり返り、耐え難い痛みになって曹操を襲い、低く呻いた。目の前が歪み、視界が闇に閉ざされていくのを見た。
 それが、曹操の最後の記憶だった。



 次に気が付いたとき、ゆらゆらと体が揺れているのが伝わった。体が重く、まるで自分のものではないかのように動かない。
 目を開けることさえかなわず、辛うじて外界からの情報を伝えてくるのはその一定の揺れと、聴覚が拾うサクサク、という音だった。
(馬か)
 どうやら自分は誰かに担がれて馬に乗せられているらしい。泥を全身に被ったように、明晰に働かない頭でそれだけ理解した。
 その規則正しい揺れと、暖かで広い誰かの背はひどく曹操を穏やかにさせる。浮かんだはずの意識がまた緩やかに眠りへ落ちていくのにさほど時間は必要ではなかった。



 次に気が付いたとき、鼻をくすぐる香ばしい匂いがした。香草が入れられた煮出し飯のようで、曹操は腹の虫と共に身じろぎした。
「ああ、起きただなぁ、曹操さま。ぐっすり寝ていたからもう起きなくなっちまうんじゃないかと、ちょっと心配だったぞ」
 のんびりした、親しみを感じる特徴のある声。聞き間違えるはずもない。
「虎痴?」
 いつも呼んでいる愛称を口にすれば、すっと瞼が持ち上がった。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からずに何度か瞬きを繰り返した。
「どこだ、ここは? わしの執務室……ではないな」
「当たり前だぁ。ここはお城からちょ〜っと離れたところにあるのっぱらだぞ」
 楽しそうに許チョが説明する。
 青々とした草が目に痛く、頬を撫でる風が曹操の中に残っていた眠気を運んでいく。背中には堅い幹の感触がして、上を見上げれば葉の隙間から日が落ちている。
「何をしているのだ?」
 いまいち状況が把握できず、曹操はぼんやりと聞く。
「ご飯を作ってるだよ。もう出来るからちょっと待っててくれぇ」
 柔らかい頬が嬉しそうに持ち上がり、大きく太い指が器用に鍋をかき混ぜている。
 説明する許チョの前には、確かに曹操を目覚めさせた香草入りの煮出し飯(雑炊)があった。いつもながら綺麗な釜戸が作られており、鍋も使い込まれたいい色をしている。
「出来ただよ。あっついからな、気を付けて食べないとダメだぞ?」
 渡された器には、湯気を立てたトロトロに煮込まれた飯が艶を放っていた。思わずごくり、と唾を飲み込み、冷ますのもそこそこに口に入れた。
「おいしいだか?」
「……は、ふっ、うむ、美味い……」
「そうか、それは良かっただぁ」
 器に盛られた分はあっという間に腹に消え、おかわりを申し入れて、ようやく曹操は我に返った。
「確か、わしは執務室にいたと思うのだが……。そうだ、それで誰かに馬に乗せられて。虎痴、お前か?」
 状況的にはそれしか考えられない。
 またモリモリと飯が盛られた器を受け取り、かっ込みながら尋ねる。
「そうだぞ。曹操さまがあんまり無理するから、みんながおいらにどっかに連れて行けって言うんだ。だから、おいらは曹操さまをおんぶして、散歩だ」
 なるほど、と曹操はそれで全てを察する。
 過労で倒れた曹操は、下手なところへ寝かせてしまえばまた政務をし出すだろう、いうことで無理やりこんなところまで連れ出させたのだ。
「すぐ戻るぞ」
 器を置いて立ち上がろうとした曹操を、許チョが余りある力で押し留める。
「ダメだ。ご飯は落ち着いて、しっかり食べて、それからゆっくり休まないと体に良くないだ」
「しかしだな」
「曹操さま、ご飯を食べないと力が出ないんだぞ。知らないのか?」
「そんなことは知っておる」
 むっとして言い返すと、
「だけど、最近曹操さまがご飯を食べているところをあんまり見ないだよ。だから倒れるんだ。みんながどれだけ心配したか、曹操さまは寝てたから知らないだよ」
 珍しく許チョも怒ったように言い返してきた。
「おいらだってずっと心配してたんだぞぉ」
 言葉に詰まる。
「曹操さまが倒れたら何にもならないってことぐらい、おいらにだって分かるだよ。だから、曹操さまは少し休むだぁ」
 許チョの真剣な顔に、曹操は折れる。
 話を聞くに臣下がみなで送り出したのだ。しばらくは休んでいても大丈夫だ、ということなのだろう。
「分かった。わしは腹が減っているからな。おかわりするぞ」
「大丈夫だ、たくさん作ったから何回でも出来るぞ?」
「ああ、そうする。お前の作る飯は美味いからな」
 そう言って褒めると、許チョは嬉しそうに頬を緩めた。それから少し照れ臭そうにして、おずおずと言い出した。
「おいらも食っていいか?」
「もちろんだ」
 可笑しくなって曹操は笑いながら頷いた。許チョはぱぁっと顔を明るくさせて、自分用の特大の器を取り出してよそう。それから、いただきますだぁ、と一礼して勢いよく食べ始める。
「おいおい、わしの分は残しておけよ」
 呆れながらも笑みがこぼれる。
(幸せそうな顔で食べおる)
 ふと思う。こんな世でなければ、許チョはこうして毎日ご飯を作り誰かに振る舞い、そして笑顔を振りまいていたのだろうか、と。
「ああ、早く執務に戻らんとな」
「曹操さま!」
 頬にご飯粒を付けながらも、許チョが睨む。
「違う違う。もちろん休む。休むがな、早く治世を迎えれば、お前とこうして楽しく飯を食える時間が増えるのだな、と思ってな。そうなると、早く執務がしたくてならなくなる」
「大丈夫だ。曹操さまなら出来るだよ。おいらはそれまでちゃんと曹操さまを守るし、ご飯も作るだよ」
「ああ、そうだな。わしはお前のその笑顔のために頑張るとする」

『わしがこのために苦労をしているなら、それも良い』

 許チョの頬に付いていたご飯粒を取りながら、散歩日和の誓い立て。



 おしまい





7 弱み



 しげしげと男の姿を観察する。それに気付いたらしい男が何か? という風にこちらを見たので、曹操は気にするな、と目配せして男を納得させる。
 男は姿勢を正して、また元の佇まいを取り戻す。
 表情は一見してうっそりした印象を与えるが、眼光は鋭く隙はない。かといって威圧感があるわけでもなく、うっかりすればそこに居ることすら気が付かないほど気配は微弱だ。
 それで曹操も熱心に書簡へ目を通していたわけだが、大柄で、部屋の片隅を陣取っているわりに、その存在感の希薄さに目が引かれた。
(いつからこのような立ち振る舞いが出来るようになった)
 先日の合議で提出された案件の最終確認をしながら、頭の片隅で男のことを考える。
 初めは、曹操の護衛すら覚束なかった。自分の身を守ることやがむしゃらに戟を振るうことに長けてはいても、要人の警護などしたことがなかったのだろう。
 幾度も距離感を間違えては曹操に叱られていた。それでも、曹操は男を傍から離さなかった。男は指摘された過ちは二度と起こさない聡さを持っていた、という以上に、向いていると感じていたからだ。
 典韋と同じ匂いがあった。
 余分なことは話さず、しかし主を守ることに関しては身を盾にすることを決して躊躇わない。
 鮑信の使者として訪れたとき、鮑信の下へ戻れるか、と尋ねたならば、戻れる、と断言した意思を貫く確かさも好きだった。
 その期待に応えるように、男は身辺を守る者として無くてはならない存在へとなった。こうして、曹操自身さえも男の存在を失念するほどに。
 言葉少なく、腕も立つ。聡さもある。立派な体躯を持つが、細やかさも持っている。そうでなくては護衛は出来ない。
(完璧なる人などおりはしない、が……)
(許チョ)
 声に出さずに、呼気と共に微かに唇を動かす。決して聞こえるはずがないのだが、部屋の片隅にいた許チョは身じろぎした。
「どうした?」
 伝わったのか、と微かな驚きを隠して曹操は聞いた。
「いえ」
 表情のないその顔からは何も読み取れないが、亡羊とした顔つきが色濃くなった。その様がどことなく可笑しくて、曹操は読み終わった竹簡を巻き、今度こそはっきりと呼んだ。
「許チョ」
「はっ」
 短い返事と共に、それが傍へ、との意を含んでいることをちゃんと察して、静かに歩んでくる。
 座したまま、許チョを見る。その場に跪いている許チョだったが、それでも曹操と視線は同じだ。そのまましばらく許チョを眺める。
「……」
 曹操の口が開かれるのを大人しく待っている許チョだったが、あまりに長い沈黙が続くことが不思議でならないのだろう。僅かに目が伏せられた。
「私が何を考えているか、分かるか?」
「……それは」
 質問の意味をどう捉えるべきか、逡巡が見られたが、許チョは答える。
「分かりかねます」
「正直だな」
 こういうところも、曹操は好きだった。無理をして飾ることをしない。言い訳もしない。味気ない、と人は言うかもしれないが、曹操は好きだった。普段、曹操自身が言葉を巧みに操り、飾り立てている反動なのかもしれない。
「全く分からないか」
 そんなことはないだろう、と曹操は言い募る。これだけ傍に置いているのだ。少しは曹操の考えを汲めるはずだ。
「分かりません」
「なぜだ」
 同じ答えにすかさず返す。
「人の心を見透かす力は持っておりません」
「そういうことではなく、私がなぜこのような話をしているか、ということを考えろ、と言っている」
「はい」
 なぜか許チョは目を深く伏せてしまう。
「どうした」
「目を閉じていただいたなら、お答えできるかと」
「ほお……?」
 意図が分からず、曹操は首を傾げる。
「決して目を開けないでいただけるなら……」
「良かろう」
 何をする気なのか興味が湧く。二つ返事で受けた。
 瞼を閉じて許チョの無表情な顔を消し去る。
「失礼いたします」
 許チョの声と共に、体が抱きかかえられたのが分かった。思わず目を開けようとするが、約束を思い出して堪える。代わりに不安定な体勢のため、許チョの袍を掴んだ。
「どういうことだ?」
「お疲れでしょう」
 許チョは淡々と返す。
「寝所までお運びします」
「なぜそう思う」
「丞相のお顔を見れば分かります」
(見透かされていたか)
 最後の案件はあまり良い内容ではなかった。だからこそ、集中力も続かずに、普段なら気にも留めない許チョを眺めてみたり、からかってみたりした。
 疲れていることを察して休みを取らせようとする許チョは正しいのだろう。目を瞑らせたのも寝させるためか。
「お前は良い護衛だ」
「…………」
 返事がない。
 約束は覚えていたが、目を開けた。
「お前のそんな顔、初めて見たな」
「…………」
(弱み、か。完璧な人などいないな)
 にやり、とする曹操から目を逸らした許チョが無言で足を運ぶ。その頬は、なぜか少し赤らんでいた。



 おしまい





8 下克上



 憂鬱だ。
 しとしとと音も無しに降り続く雨を横目に見て、曹操はこめかみを揉む。
 雨は頭痛をひどくする。じくじくと鈍痛を訴える頭を抱えて執務を行うのはいつもの何倍も苦労する。
 それでも実は、曹操は雨が嫌いではない。
 風情がある。
 雨が上がった後の生き物たちの清々しい姿もまた輝いていて好きだ。
 しかし、今日はいけない。
 頭痛もさることながら、約束があった。
 だがこの雨では延期にせざるを得ない。それが憂鬱だ。
 楽しみにこの日を待っていた。それは自分もだが、それ以上に相手もであることを、曹操はよく知っていた。
 きっと、あからさまにがっかりと肩を落とすことはしないし、文句を付けることもない。残念だ、と口にすることもないかもしれない。
 普段はちょこちょこと口答えや軽口を叩くくせに、やっても良さそうな場面では決して我を通そうとしない。最後は曹操を想って行動を共にして、己を殺す。
 今回もきっと、そうした態度を取ってしまえば、曹操が引け目を感じるかもしれない、などと考えて、気にしていないという態度を取るに違いない。
 出会った頃や再会したときなど、むしろ嫌ってさえいた風なのに、何時の間にだろうか。
 筆を置いた。
 傍らで書簡が出来上がるのを待っていた文官に、出来上がったそれを放り投げ、曹操は衣の裾を翻す。
「ど、どちらへ?」
 あたふたした様子で、文官が行き先を訪ねてくる。
「ちょっと天の奴と勝負してくる」
「はっ?」
 顎が外れかけた間抜けな面をした文官を振り返ることなく、曹操はずんずんと回廊を歩き始める。後ろから衛兵が付いてきている気配がするので、振り返って追い払う。
「必要ない」
「しかし……」
 隊長格が反論しようとする。
「本日は許将軍が非番であります。なおのこと御身は……」
「その許チョのところへ行くのだ。問題あるか?」
「は、はぁ」
 再度拒絶をするが、衛兵たちは少し距離を取りつつ、その言葉の虚実を確かめるためか、離れようとしない。
 職務熱心なのは、上司(許チョ)の教育の賜物か。
 呆れつつうんざりしつつ、曹操は大股で許チョの屋敷へ向かう。そうして、屋敷の敷居を跨いだところで衛兵たちは納得したのか、ようやく一礼をして離れていった。
「おい、許チョ」
 軒先でぼんやりしていた許チョを見つけ、曹操は声をかける。そのぼんやりした様子のまま、許チョは曹操を捉えた。
「殿? どうしたんだ」
「どうした、じゃない。今日は約束していただろうが。釣りだ、釣り」
「だけど、この雨じゃ魚はかからねえぞ」
 予想通り、約束を違えることになるのに、許チョの口調に残念そうな調子は微塵も無かった。
「俺が雨ごときで諦めると思ったか?」
「お天道様には誰も勝てないぞ」
 淡々としている許チョの頬を、曹操は両手でむにっと掴んだ。
「ほ、ほの?(と、殿?)」
 頬の肉を引っ張られ、許チョの顔が面白く歪む。
「お前、俺の言ったこと覚えていないだろう」
「は、はにをだ?(な、何をだ?)」
「お前とこうしている時間が好きだ、と言っただろう」
 あれは馬超との戦のときだ。
 馬孟起という闘気に中てられた曹操が我を忘れた後、諌めるために許チョが聞いてきた。

『大事なものはなんだ』

 曹操の答えは、許チョといる時間だった。

「本気だったのか?」
 曹操が離した頬を撫でながら、許チョは聞き返す。
「俺はいつでも本気だ」
 するとなぜか許チョは口のなかで、あ〜、とかむ〜、とかもごもご唸ってから、こくん、と頷いた。
「じゃあ、行くか」
 ようやく許チョから色よい返事が貰え、曹操はにっと笑った。
 二人でがさごそと準備をしていると、いつの間にか雨が小降りになっている。
「ほらな、この曇り空なら魚の奴もかかりやすいだろう?」
 得意げになる曹操に、許チョは空を見上げる。
「殿は、お天道様にも勝っちまうのか」
「下克上成功、だな」
「なんだ、ゲコクジョウって」
「お前には縁がないことだ」
「そうか〜」
「ほれほれ、急げ。釣り立ての焼き魚を食うぞ」
「もう生魚は御免だしな」
「その話はするな!」
 嫌なことを思い出した曹操は思い切り顔をしかめる。それを見た許チョは、大笑いする。

 天気は薄曇。しかし二人の心はいつでもお天道様が味方をしているようだ。



 おしまい





9 支配する者される者



「おぉうい、許チョ〜」
 傍らを歩く男の名を呼ぶ声を耳にして、曹操は足を止めた。合わせるように、名を呼ばれた男も足を止めた。しかし、呼ばれたはずの男は声の主を振り返ろうともしない。
「許チョ〜」
 曹操はちらり、と傍の男を見やってから呼び続けている声の主を探した。
 探せば、道の反対側。田畑が並ぶそこを突き抜けるように走っているあぜ道の、曹操が立っているところから畑を挟んださほど遠くないところから、その男はこちらへ手を振っていた。
「呼んでおるぞ」
「はい」
 曹操が言えば、呼ばれた男――許チョは返事をするが、やはり呼んでいる男へ見向きもしない。
「知り合いではないのか」
「恐らく、私が住んでいた村人の一人だったと思います」
 姿も見ていないのに、許チョははっきりと答える。許チョが村を離れてもう十数年が過ぎている。それでも、すぐにどこの者か分かったのだ。世話になった人物なのだろう。
「私のことは気にするな。会いに行ってやれ」
「しかし、丞相をお守りすることが疎かになります」
「お前だけが私を守っているわけではないだろう」
 生真面目に答える男に、曹操は小さな苦笑を浮かべる。
 今は地方の視察巡回の真っ最中だ。許チョだけでなく、地方役人や土地の兵たちも周りにいる。何よりこの辺りは許チョと出会った場所に近く、治安も安定しているところだ。
 許チョが心配するようなことは起きない。
「先に戻っている。お前は後から追い付け。何なら、一晩暇を与えてもよい」
「いえ、そういうわけには。……後から追います。申し訳ありません」
 律儀に礼を取り、許チョはようやく村人に向き直り、足早に駆けていった。その後ろ姿は珍しくも弾むようで、旧知の友に出会った喜びに溢れていた。
「あのような許将軍の姿、私は初めて目にしました」
 驚いた様子で、隣に立っていた文官が言う。
 ほとんどを無愛想に、もしくはぼんやりとしている許チョの姿しか知らないのだろう。
「私も久しぶりに見た」
 口の中だけで呟き、なぜか少し苦くなる。
「行くぞ」
 その苦さに我に返り、曹操は促した。視察はまだ残っているのだ。今日の宿舎に辿り着くまでに見回りたいところは山ほどある。
 ちらり、と後ろを見やれば、いつになく寛いだ様子で知人と話をしている許チョの横顔が目に入り、曹操は口の苦さに顔を僅かにしかめた。



 予定通り今日予定していた視察を終え、改善点を竹簡にしたため終わった曹操は、ゆっくりと伸びをした。
「許……、そうか」
 許チョ、と呼ぼうとして、未だに帰ってきていないことを思い出し、曹操は肩を竦めた。
 許チョの代わりに警護している男を呼んで、茶を頼んだ。しばらくして運ばれてきた茶を口にして、曹操は眉をひそめる。
「温い」
 ここまでの行程で、酒や女にはそろそろ飽きている。そもそも執務の一環なのだ。あまり羽目も外せない。こういうときは熱いお茶を飲んで寝るのが曹操の習慣なのだが。
「面倒くさいな」
 頼んだ相手が許チョでないことを失念していた。許チョなら何も言わずとも曹操の望んだものを用意している。しかし頼み直すのも面倒だった。諦めて寝ようかとも思うが、習慣を省くとなかなか落ち着かない。
 どうしたものか、と思案すると、部屋の外から聞き覚えのある声がした。
「丞相、ただいま戻りました」
「入れ」
 許チョだった。その片手には盆があり、上には湯気を出している茶器が乗っている。
「任務を放棄して申し訳ございませんでした」
「気にするな。それよりもそれは?」
「はい、帰り際、知人から茶葉を。とても美味でありましたので、無理を言って分けてもらいました」
 受け取り、口を付ける。しっかり、熱めのお茶で、風味も損なわれることなく口に広がっていく。
「美味いな」
「はい」
 微笑んだ許チョの顔をしげしげと見やり、曹操は言う。
「お前の笑った顔など、久しぶりに見たな」
「そうでしょうか」
 途端、戸惑ったようにする許チョに、曹操はそうだ、と首を縦に振る。
「昔馴染みにあって、寛いだせいか?」
 だとしたら、やはり悔しいな。
 別れ際に口の中に湧いた苦さが、茶の風味と共に曹操の咽元を落ちていく。
 人を支配することに慣れていた。だから、麻痺していたのだ。心から従わせ、その者を自分だけの存在にすることがどれだけ大変なことなのか。
「そうかもしれません。知人にも言われました。変わったな、と」
「どのように?」
 昔ほど闊達でなくなったとか、そういう類だろうか。だとしたら、それは悲しい。
「昔はその、恥ずかしい話ですが風に流されている、宛所の無い葉のようだった、と。ただ日々を生きるだけに満足していたのに、今は違う、と申しました。あるべき場所、根を張る場所を見つけた大木のようだ、と」
 その知人が言うには、ですが。
 そう言って、許チョは照れ臭そうにした。
「無表情でいることが、か?」
 少し意地悪く問うてみる。
「はっ? あ、ああ……、申し訳ありません。どうもこういう顔つきでして、真剣になればなるほどそういう顔つきになるようです。昔、典韋に笑われたことがありました。その反動でぼーっとしているように見えることもあるようで。中間がないようです」
 ますます照れ臭そうにする許チョを見て、曹操は段々可笑しくなる。
「そうか、そういうことか」
 はっはっはっ、と曹操はひとしきり笑う。
「丞相?」
 支配したつもりでも、分からないことはたくさんある。
 配下のことだけでも一喜一憂するのだ。この世はなんと広いものか。
 何やら楽しくなってきた。
「お前、今私が何を考えているか分かるか?」
「いえ、私には丞相のお考えなど到底」
「それがいい。そのほうが世の中面白い」
「はあ……」
 熱いお茶を口に含めば、香り高い風味と甘さを、曹操へ届けてくれた。



 終わり





10 もう手放せない



 出会った時から知っていた。
 敵を躊躇いもなく倒す双眸の中に、常に悲しさがあることも。
 自分を守る腕が確かであり、そして優しさが込められていることも。
 同僚が亡くなり、辺りを憚らずに大粒の涙を流して悼むその心根も。
 きっと乱世という今の世の中では生き辛いのだろう。
 それでも男は自分を守ることに全身全霊を傾けて、そのためには相手の命を絶つことに躊躇することはしない。
 守る腕が鈍ることも決してない。
 それでも、やはり戦で流れた血を、敵を倒す鋭い眼差し、その同じ瞳から涙を零して悲しむのだ。
 それを見るたびに、己の心は逸り立てられた。

 そんな彼が心から楽しそうにしている場面に居合わせた。
 それはほんの偶然で、片時も自分の傍を離れない彼が、それでも定期的に休みは取らなくてはならない、そんな日。曹操はいつになく厳重に周囲を固められながら、それでも都の外まで足を伸ばしていた。
(許チョの奴がいないと、すぐにこれだ。普段ならあやつと数名の警護で済むところを……)
 許チョが不在となると、その穴を埋めるように常の数倍の人数に、警護兵は膨れ上がるのだ。
 それだけ許チョの腕が信頼されている証ではあるわけだし、それを補うには仕方がないことだ、と何より曹操自身が良く理解している。だが、それでもこの鬱陶しさがなくなるわけでもなく、思わずため息などこぼしてしまう。
「虎痴〜」
 そんな中で、とある村を抜けるときだ。時折耳にする呼び名を、村の子供が口にしていた。
 その呼び声に釣られて振り返れば、いつも目にしている大柄な体が目に入る。その男は子供の声に振り返り、手を振った。それからすぐに曹操に気が付いて、目を丸くした。
 急いで駆け寄ろうとした許チョを、手で制した。休みの日まで拘束するつもりはない。それでは何のための休暇だか分からない。
 畏まって、遠くから拱手した許チョは、子供の下へ走っていった。
「どうした」
「あっちで、父ちゃんが呼んでる。手伝って欲しいことがあるって」
「よし」
 そんな会話が切れ切れに聞こえる。
 さっと、許チョは子供を肩車して、指し示す方へ駆け出していく。
 憂いも悲しみもない、ただ穏やかで優しげな男の横顔に、曹操はまた己を逸り立てる疼きを覚える。
「急ぐぞ」
 曹操は周りの部下たちに声をかけて、その場を後にした。

   ※

 大きな戦がまた一つ終わった。
 いつまで続くのだろう、と曹操自身も憂える。書簡で渡される戦果報告には、無表情な文字が死者の数を知らせている。
「殿」
 出仕する時間きっちりに、許チョが部屋へやってくる。その顔をちらり、と見やれば、やはりいつもと同じ僅かに赤い目元がある。
 ため息を吐きそうになるのを堪える。
(そう言えば、こたびの戦はあの村の近くだったな)
 許チョの憂いのない横顔を発見した、あの小さな村は、ほぼ壊滅状態だ、と書簡に記されている。よりにもよって、とも思うが、それが今の世だ。
 それでも気が滅入る。
「少し、散歩する」
 言って、庭へ下りる。許チョは黙って付いてくる。
 庭は美しく花を咲かせている。その花々の傍で膝を折り、その花弁を指先で撫でる。
「許チョ、知っておるか。こうして花が美しく咲き誇れるのは、幼い芽である頃より、周りの雑草を引き抜いているからだ、ということを」
「はい」
「しかし勝手だとも思う。こやつらの生きる権利など、誰が決められるものでもないのにな」
 美しく咲くから残され、それに害をなすから間引かれる。それはしかし人間の勝手な選別だ。
 今、己がしていることも大して変わらないのかもしれない。
「それでも、必要なときもあると、私は信じています」
 思わぬ肯定を聞いて、曹操は許チョを振り返る。
 悲しみを湛えた瞳の中に、確かな意思と穏やかさがある。
「私は野菜を育てています。間引きしていかねば、栄養を互いに吸い、結局は上手く育つことなく共倒れになります。それは確かに勝手なのだろうとも思います。それでも、誰かがやらねばなりません」
「許チョ、お前……」
「私は信じていますから」
「例え、それがお前の心を苦しめる日々だとしても?」
「はい」
 迷いのない答えだ。
「この先、お前がどれだけ苦しもうとも、決して手放さないぞ?」
「はい」
「分かった。ならば私のやることは一つだ」
 立ち上がり、山積まれた書簡が残る執務室へ戻ために踵を返す。
 逸り立てる心は曹操を焦らせる。
 それでも決意は揺るがない。

 私にはお前が必要で、お前にもきっと私が必要だから。
 そう信じている。

 もう、手放せない……。



 終





 あとがき

 前半許チョ視点、後半曹操さま視点でお送りしました。
 無双→北方→蒼天→吉川→ベースなしでした。
 日記で連載していたものを、まとめてUPしたものです。完全に趣味に走っております(笑)。小話ごとのあとがき(言い訳?)は日記でしているので、省略させてもらいました。あしからず。



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