「主従関係に10のお題」
  曹操と許チョ 1〜5


1 いつでもどこでも



 おいらが曹操さまの親衛隊になってから、もう一月が経つだ。初めて曹操さまと会ったときから、おいらはずぅっとずぅっと曹操さまの傍にいたけども、この間から本当にずぅっと居てもいいことになっただよ。
 それがおいらはとっても嬉しいだけども、曹操さまはそうでもなさそうなんだな。
 なんでって、だって曹操さまは時々、おいらを置いてどこかへふらぁっと出て行っちまうだよ。曹操さまを守るのがおいらの仕事なのに、曹操さまがいなくなっちまったらみんなに怒られるし、何より曹操さま自身が心配だ。
 曹操さまは確かに強いし、頭も良いし、おいらと違ってすばしっこいからそう簡単に悪い奴らにやられたりしないけんども、時々、う〜ん、本当に時々だけども、失敗しちまうこともあるんだ。
 それがあるから、おいらは心配で片時も離れたくないのに、曹操さまはそんなおいらや将軍たちの気持ちをからかう様に、一人で出かけちまうんだよ。
 今日も、おいらがちょっと目を離した隙に、どこかへ行っちまって、必死で探し回っている最中だ。おいらは走り回るのはあんまり得意でないけれど、そんなことを言っている場合じゃないだよ。
 それでも、目に入る汗が痛くて、ちょっと立ち止まって汗を拭っていたら、庭の隅にある木の枝で、鳥が妙に騒いでいるのに気付いただよ。もしかして、と思って近づいてみると……。
(しー、静かにしろ! そんなに騒ぐとみなに見つかるではないか! ここがお前たちの巣なのは知っているが、少し邪魔しているだけだ。何も取って食おうと言うのではない)
 真剣な顔で騒ぎ立てる鳥に向かって説明している曹操さまの姿があっただよ。器用に張り出した枝に腰掛けているけども、場所が悪かったのか鳥の巣があったらしいだな。
 おいらは曹操さまを木の下から呼んだだ。
「曹操さま!」
「――! うわっ!」
 鳥を追い払うのに夢中だったらしい曹操さまは、おいらに気が付かなかったらしいだ(こういうところが、時々、なんだけどな)。驚いて体勢を崩しただよ。
 枝から落ちてきた曹操さまを、おいらは受け止める。曹操さまは小さいから軽いだよ。おいらは簡単に受け止めて笑いかける。
「見つけただよ」
「……何だ、虎痴ではないか。驚かすな!」
 腕の中で曹操さまが不満そうに文句をつける。降りたいのか、ジタバタと腕の中で暴れるので、おいらは困ってしまった。
「曹操さま、そんなにおいらが嫌いか?」
 ぴたり、と曹操さまの動きが止まり、怪訝そうにおいらを見上げてくる。
「なぜそんなことを聞く」
「だって、おいらを置いてどこかへ行くなんて、おいらが嫌いだからだろう?」
 自分で説明すると、その悲しさがこみ上げてきて、おいらの目ん玉が熱くなる。曹操さまはなぜか慌て出して、おいらの頭を叩いた。
「馬鹿者! そんなことあるはずがないだろう。ちょっとした気晴らしだ。そんなときは一人のほうが良い」
「だけども、一人だと危ないだよ。もし曹操さまに何かあって、それがおいらのせいだったら、おいら、おいら……」
 目ん玉の熱はどんどん上がっていって、ついにぽろぽろぽろぽろと水を流し始めちまっただよ。
「えぇい、泣くな! お前に泣かれるとわしが完全に悪者になった気になるではないか!」
 曹操さまは怒りながらも自分の袖でおいらの涙をせっせと拭うだよ。それが何だか嬉しくて、ますますおいらの目ん玉からこぼれちまう。
「おいら、曹操さまと、いつでもどこでも一緒だ。だから、だから一人でどっかへ行かないでくれ」
「〜〜っっ」
 何かを言いたそうに曹操さまの髭が揺れる。
「分かった……」
 渋々、という感じで曹操さまが答えただよ。それがおいらは嬉しくて、ほっぺが緩んじまった。
「泣きながら笑うなんぞ、器用な真似をしおって」
 困った顔で笑う曹操さまも、充分に器用だとおいらは思っただよ。



 おしまい





2 呼称



 昔から、おかしなあだ名で呼ばれることは多かった。

「木偶の坊」
「昼行灯」
「案山子」
「遅鈍」

 上げれば切りがないが、とにかく他の人間から見れば、どうやら自分は何を考えているのか分からない、大きな物体に見えるらしい。
 そんなことはないのだが、確かに自分の思っていることを伝えることは苦手であるし、努力して伝えようとしても、誰も最後までまともに聞いていくれるものはいなかった。
 だから何時しか言葉ではなく、行動で意思を示すようになった。幸いにも、腕っ節は口ほどに弱くなく、次第に周りの人間はそれを認めるようになった。
 それでも、やはり言葉数が少ないのは不気味に思うらしく、自分では正当な理由があって力を振るっても、それが突然の行動に見えるらしく、最後に付いたあだ名は、

「虎痴」

 だった。

 普段は大人しくぼんやりしているが、ひとたび何かがあれば、虎が暴れだしたように手が付けられなくなる、という意味らしい。
 それもあまり嬉しくはないあだ名ではあったが、それを不満だ、と口にするほど器用でもなく、甘受していた。
 ただ時折、からかう様に何度も何度も呼ぶ相手には、力で不満を表していた。それは曹操の下に付いてからも変わらずに、先日も同僚を殴り倒したばかりだった。
「なあ、許チョ。そのように黙っていては分からんぞ。何か申すことはないのか?」
 呆れたように自分を見下ろす曹操へ、床を見つめたまま許チョは無言で答えた。
 分かっている。いくら自分が口を開こうとも、上手く説明は出来ないし、誤解を生むだけだ。これまでの経験から、下手に理由を語るよりは相手に判断を任せたほうがマシなのだ。
「私も、自分の親衛隊が問題ばかり起こしていると困る。特にお前は人一倍力もあるしな。聞いたか? お前に殴り倒された奴らは一月は寝ていないといけないらしい」
 もうすぐ戦が始まるというのに、貴重な戦力が、とため息まじりに曹操が呟く。
「申し訳ありません」
 決して曹操を困らせるつもりはなかったのだが、結果的にはそうなってしまったのだ。それだけは辛かった。
「謝るぐらいなら、理由を知りたいものだ」
「申し訳ありません」
 それこそ、昔付いていたあだ名のように、同じ言葉を繰り返す痴者のようだった。
「やれやれ……」
 すっかり呆れ切ったらしい曹操は、三日間の謹慎を言い渡して去っていった。曹操の足音が遠ざかるまで、身動き一つしなかった。



 それがほんの何月か前のこと。
 決して倒れることはない、と信じていた人の体が、今は痩せ細って自分に凭れかかっている。それを支える自分の腕も、だいぶ力が抜けかかってる。しかし、完全にそれが抜けることはないだろう。
 支えるべき人がそこにいるのだ。その体温が、呼吸が確かなうちは、決して自分が先に倒れることはない。
 燃え上がった船から脱出し、援軍のある江陵を目指している。
 追っ手はその息遣いが聞こえそうな距離まで迫っているはずだ。

「虎痴」

 突然、言葉を発する力さえなくなっている、と思っていた人から、そのあだ名が呼ばれた。
「虎痴、そう呼んではいかんか」
「いえ、丞相」
「虎痴、と呼ばれることを嫌っていた、と聞くが」
 こんなときだというのに、曹操の声はどこか楽しそうだ。
「そのようなことは」
「だが、あのときお前が暴れたのは、散々にからかわれたからだ、と聞いている」
「知っておいででしたか」
 何ヶ月も前のことを持ち出されて、戸惑いを隠せない。
「虎痴、悪い名ではない、と私は思う」
「はっ」
 そうだ。
 曹操に言われると、なぜかそういう気になる。
 それはとても不思議だった。
「これからは、私だけがお前をそう呼ぶ。それなら構わないか?」
「はい」
 力が失われていたはずの腕に力が籠もった。
 死地を抜け出すための案を、曹操に告げた……。



 終





3 口ごたえ



 そもそも、出会ったときの印象が、いや、出会ったときの状況が悪かったのだ。
 こちらは鐘泥棒を追い駆けていて必死だったし、向こうはそんなこちらの状況など省みずに訳の分からないことをしゃべっている。自分の力が人より優れていることを知っていた自分は、そこに関係のない人間がいることが邪魔だった。
 うるさく囀る鳥は閉じ込めて殺してしまえ、と鐘を持ち上げて押し込めた。一仕事を終えて程よい疲労感に任せて荷車の上で寝てしまうころには、そのうるさい鳥のことなど忘れていた。
 しかし鳥は生き延びて、それどころか自分を恐れることなく一喝した。
(違うんだ、こいつは。雀なんかじゃねえ。大鷲だ。いんや、もしかしたら昔和尚から聞いた竜って生き物かもしれねえ)
 そう息を呑んだのもつかの間、また囀り始めた鳥の声は意味がよく分からず、しかし気が付くとその囀りに従っている自分がいて、むぅむぅと唸るのだった。

   ※

「おぉい、許チョ〜!」
 薄暗い中で、自分を呼ぶ声に振り返る。本当は振り返る前から、その人が近付いていることは知っていた。何せ目立つ人だ。何より、自分には目を瞑ってもその人のいる場所が分かる。
(眩しいだなあ)
 ちょっとだけ目を細めて、その人を目の中へ捉える。あの頃と変わらずに、無邪気に大きく手を振っている姿を見ると、囀る雀を思わせるのに、その眩しさは決してそれではなく。
「今日はお前、非番だろ」
 駆け寄ってきたその人は、にかっと笑ってみせる。身辺警護を任されている自分が休みのときぐらいは、なるべく宮廷から出て欲しくないのだが、この空を駆け回ることが大好きな人に通じるはずがない。
「ちょっと付き合え」
「いいけども、それならおいらが休みじゃないときにすればいいじゃねえか」
 いつものように、一言付け加えてしまう。決してしゃべるのが好き、というわけではないのだが、なぜかこの人を前にすると色々話してしまうらしい。
「そうすれば、おいらは絶対に付いていくんだしよ」
「それじゃあ意味がない」
 呆れたように、しかし大きく腕を広げる。その腕を今度は真っ直ぐに鼻先に突きつけてくる。
「お前は真面目だから、警護中は俺を自由にはさせんだろ。だから、今がいい。お前は俺の親衛隊ではなく、昔から俺の傍にいた友人として付いてくるんだ」
 その指先にちょっとだけ怯み、それでも「友人」という言葉に少しばかり照れる。膨れながら、口ごたえだ。
「そんでも、危ない目には合わせないだ。あんたはおいらにとって大事な人だからな」
「おう!」
 天下一品の笑顔を浮かべて、その人は自分の肩を叩く。
「それで、どこへ行くんだ?」
「月」
 腕は真っ直ぐ上を指す。
「月を見に行こう。今日は丸い月が昇る日だからな」
「ああ、今日はそいつの当番かあ」
「そうだな、そいつの出番だ」
 自分がそう言うと、なぜかにやにやするその人の顔が分からずに、ちょっとだけ首を傾ける。
「何か、嫌な顔だ。厭らしい狸みたいな顔だ」
「そんなことはないぞ。月はたくさんある。交互に上れば疲れんからな」
 はっはっは、と大笑いしながらずんずんと歩いていく背中を、自分は何だか釈然としない気分で追い駆ける。
「月は、でも、あんたみたいだな」

 雀だったり、竜だったり、狸だったり。
 幾つも姿を隠し持っている。
 それでも、天下の目だけはいつでもキラキラと輝いている。
 だからきっと自分はこの背中を見失わずについていけるのだ。

「殿、おいらから離れんな!」
「なら、早く追い駆けてこい、許チョ!」

 東の空に、ぽっかりまあるいお月様。



 おしまい





4 何様?



 身体の芯が熱く脈打っている。
 息が上がり、視界はひどく狭い。
 掛けられた縄が食い込んで、それが引きずられるたびに痛んで、悔しさも込めて低く唸った。
 誇りがあるのだ。
 俺は小さい頃から村では一番身体が大きく、そしてそれに見合うだけの力を持っていて、誰も敵うものはいなかった。子供だった時分はそのせいで、周りの子供たちに怪我を負わせないように気を遣わなくてはならなくて、ひどく疲れた。
 だからいつもぼんやりと空を見上げたり、一人で遊ぶことが多く、それを大人たちは変わった子だ、という目で見たりもしていた。
 別に、そのことに対しては特に感情を動かされることはなかったが、常に抑圧されたような息苦しさはあった。
 だからだろうか。
 時々、そういうことを無神経にからかってくる輩がいると、持て余した力が吐き出されてしまう。
 そしていつも後悔してしまう。
 しかしそれも歳を重ねるごとに治まってきて、今では逆に持て余していたはずの力を頼られる世の中となった。それはあまり喜ばれることではないのだろうが、俺の心の平穏は保たれた。
 村から賊を守るための砦を建て、それを守る日々は俺の力を持ってすればさほど難しいことではなかった。何より、ひと時は俺の過ぎる力を疎ましそうにしていた村人たちの態度が違った。
 疎遠の眼差しが期待へと変わり、尊敬へ変わるまではさして時間は必要ではなかった。

 誇りだった。

 しかし、その誇りは今、地に叩き伏せられようとしていた。
 かつてないほどの強敵に出会った。
 そいつらはある日突然やってきたようで、俺がいつものように賊を退けようとその頭を捕らえたところ、「俺の獲物だ」と横から口を挟んできた男がいた。
 初めは何を、と思い軽くあしらうつもりで戟を合わせたが、強い。
 幾度も火花を散らしたが決着がつかず、双方引き際を見取ってその日は別れた。

 そしてあくる日だ。
 まだ挑んできたその男と交わり、肩で息をするほどに打ち合い、まだ行ける、と思っていたところへ、ひらり、とその男は身を翻したのだ。
 疲れて思考は乱れ、視界も狭くなっていた頃だ。
 俺は疑問にも思わずに追い駆け、そして罠に掛かった。

 屈辱だ。易々と罠に掛かった己もそうだが、卑劣な罠を使って勝ちをもぎ取った男も憎かった。
「どこへ連れて行く!」
 吼える俺に、男は振り返って大声で返した。
「殿の下だ!」
「殿とは何だ!」
「曹操孟徳様だ! 知らんのか!」
「知らん、何様だか知らんが、お前のような卑怯な男を部下にしているぐらいだ。たかが知れよう!」
「貴様!!」
 己の主を愚弄されたことに腹を立てたのか、縄がきつく引かれ、俺はもんどりうった。そのまま転がされて引きずられた。痛みに耐えながらも、巨漢である自分をこうも容易く引きずれる男の力にも感心していた。
(このような凄い男を臣にしているのだ。曹操という男はどれほどの者だろうか)
 憤っていたはずの心に、好奇心が僅かに勝る。
 無惨に転がされて突き出された先は、赤い軍袍も眼に痛い、小柄な男の前だった。
「お前たち、何ということをしている!」
 しかしその細身の身体から発せられた声は威厳を含み、そして手ずから俺の身体を拘束していた熊手やら縄を解いてくれた。
 呆然と見上げる俺に、その男は席まで用意し、座らせてくれた。
「儂の部下たちが無礼を働いた」
 男は非礼を侘び、そして名乗った。
 曹操だという。
 初めて会う俺に対し、なぜかその男はひどく熱い眼差しを送っている。掛けられる言葉も態度も、慈愛に満ちている。
 その男の前にいると、自然と己を鼓舞して良く見せたくなる、そんな気分になった。
 普段なら口にもしない自慢話などを口走り、一人で照れた。しかし曹操は熱心に耳を傾けてくれて、それがひどく誇らしかった。

 誇りがあった。

 しかしどうやら、その誇りはさらなる高みを求めているようで。
 首を差し出す、と言ったものの、ここでこの男と別れるには余りにも惜しい、と心が叫んでいた。
「儂についてはくれないか」
 喜んで、と答えたとき、身体の芯は熱かった。



 了





5 我慢、我慢、我慢



 いい加減、呆れている。
 いや、むしろ我慢の限界だ。
 気が短いとは思っていない。それどころか、ぼんやりしているのは好きだし、非番である日は農民に混ざって畑を耕してみたり、ぼーっと空を一日中眺めているのが何よりも癒される。
 だからきっと、気は長いほうだ。
 そう自覚がある許チョではあったが、さすがに堪忍袋の緒が切れそうだった。
「殿、いい加減になさってください。何時までこうしているおつもりですか」
「何がだ」
 分かっているだろうに。この人は自分には考え付かないようなことを始めたり、思わぬ発想をしてみたり、大胆なことをしてみたり。
 常人とはかけ離れているくせに、詩を嗜み、士を愛することを知っている何よりも人臭い人だ。
 だから許チョが何に苛立ち、何を急かしているかなどお見通しのはずだ。それなのに、とぼけて聞き返す。
 同僚であった典韋が曹操を守り死ぬ前に、笑いながら許チョに漏らしたことがあった。

『あの方の傍にいるとな、自分が聖人君子であるような気になるし、だけども小さい人でもあるような気になる。おかしな気分になるんだ』

 そのときはその相反する感情が同席する意味が分からなかった。今も分からない。だが、聖人君子であるような気にはなる。
 とにかく忍耐力が必要だ。曹操は何かを思い付けばすぐに行動したくなるらしく、それが東で調練を見ている最中で、西の市場へ向かうことになったとしても、構わない。また、北で屯田の成果の報告を受けていても、南で開墾が進まない、と聞けば自ら飛んでいく。
 意欲的であることは美徳であると思うが、従わされる方は苦労が多い。特に四六時中警護に勤めている許チョはもっとも振り回されるのだ。
(大事な体であることの自覚があるのだろうか)
 憤りも半分、案じる気持ちも半分。
 複雑な気分で日々を送っている。
 それでも、不平は漏らさず従っているのは、尊敬していた同僚から引き継いだ任務であるからだし、やはり許チョにとっても曹操という人間は守るに値する人であった。
(典韋は、ちゃんと我慢していたのだろうな。殿を守れることを誇りにしていた)
 許チョの記憶に残っているのは、満身矢に射抜かれて絶命して運ばれてきた典韋の姿ではなく、

『俺は殿を守れることが嬉しいんだ』

 と誇らしそうに笑う姿だった。
(我慢、我慢、我慢)
 そう言い聞かせ、あの姿を思い描き、それでもやはりいい加減にしてもらいたい、と曹操へ口を開く。
「このような場所に何刻立っておられるおつもりですか」
 今日の曹操の行動は、何時にも増して許チョには理解出来なかった。振り返れば朝から妙ではあった。いつもは精力的にこなす政務も、どこか心ここにあらず、の様子で、荀ケたちに心配されていた。
『大事無い』
 と答える曹操は確かにいつも通りだが、ふとした瞬間にぼんやりしている。傍で控えている許チョだけが、それに気が付いていた。
 そしてとうとう、夕方も色濃くなった頃、遠駆けをする、と言い出して、都を離れたのだ。そうして小高い丘の上に立ち、ひたすらどこか遠くを見ている。
「危のうございます。いくら見晴らしの良い場所とはいえ、夜も更けています。お命を狙う輩は常に機会を窺っているのですよ?」
「ああ、そうだな」
 またとぼけようとする曹操へ、許チョの最後の緒が切れた。
「殿!」
 咄嗟のときに守れるほどに近く、しかし存在は意識させないほどに遠くにいた許チョは、その距離を詰めた。まるでそれを待っていたかのように、曹操は振り返った。
「腹、減っただろう? だからそんなに怒りっぽい」
 ひょいっと突き出された握り飯に、許チョは目を剥いた。
 いったいどこから、と思ったが、どうやら懐に忍ばせておいたらしい。もう一つの握り飯を、包んであった葉を剥いて曹操は頬張った。
「食わんのか」
「いえ、まだ服務中ですから……」
 その拒否を裏切ったのは、他でもなく自分の腹の音で、頬が熱くなるのが分かった。
「ほらな」
 暗闇の中で曹操が笑う気配がした。
「食え、命令だ」
「はっ」
 そうまで言われれば従うしかなく、渋々許チョは握り飯を頬張るが、やはり腹が空いていたのは確かで、あっという間に食べ終わった。
「一年か」
「はっ?」
 見れば、まだ曹操は握り飯の半分も食べていない。
「あいつよりもお前は気が長いな」
(あいつ?)
「あいつは三月で私に文句を付け、そして二刻で音を上げた。お前は未だに不平を漏らさないし、四刻も耐えた。もっとも、腹の虫はお前のほうが正直者らしい。それでも忠義心は、どちらも比べられぬほどなのは、間違いない」
 懐かしそうにする曹操は、許チョに背を向けて、また先ほどまで眺めていた方向を見つめた。
「殿?」
「お前の役目は何だ」
 唐突の問い掛けに、許チョは躊躇わずに答えた。
「殿をお守りすることです」
「なら、私の役目は何だと思う」
「……?」
 答えられない許チョは無言になる。
「お前が私を守らなくともすむ世を作ることだと思っている」

『あの方の傍にいるとな、自分が聖人君子であるような気になるし、だけども小さい人でもあるような気になる。おかしな気分になるんだ』

(小さいな、確かに)
 蘇った典韋の言葉に、許チョも納得する。
 大きすぎて測れない曹操の心情に、許チョはそう感じる。

『でも、それは悪い気分じゃない。不思議と悪い気分じゃないんだ』

 続いた言葉の先を思い出す。
(今日はやけにあいつのことを思い出す)
 許チョは曹操の視線の先を追うように、闇が広がる風景へと目を向ける。
「お前の役目は私を守ることだ。だが、死ぬな」
 呟くように曹操が言う。あまりに小さな声にそれは命令なのか独り言なのか分からずに、返事が出来なかった。
 そして思い出す。
(一年……。今日は典韋の……!)
 そして眺める方角は典韋が命を落とした宛城のある方角だ。
「御意」
 短く答えた。それから、ゆっくりといつもの距離へと離れる。
 曹操の肩の震えが収まるまで、その距離が詰まることはなかった……。



 終



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