「めかくし鬼 1」 劉備×曹操 |
おにさん こちら てのなるほうへ おにさん こちら てのなるほうへ どこからか楽しそうな声がする。 めかくしおにさん てのなるほうへ 囃し立てる大勢の童たちの声々に、 右を向いたり左を向いたり。 こっち こっちだよ わたしはこっち おいかけてきていますか わたしをおってきていますか 童のはしゃぐ声の中に、 ひとつだけ、 聞き覚えのある男の声が混じる。 ねえ しっかりおってきて あなたにはわたしがひつようだから それにはあなたがわたしを ずっとずっと おいかけつづけるひつようがある おにさん こちら てのなるほうへ めかくしおにさん てのなるほうへ わたしは ここに いますよ わたしは ここに いますよ ずっとずっと あなたを みていますよ そうそうどの ※ ※ ※ 綺麗ですね、と劉備は笑った。 劉備にとっては自然な流れで口にしたのだが、言われた当人にとっては晴天の霹靂のように思えたのだろう。聡明な男にしては随分とぽかん、とした顔を劉備に晒した。 そんな顔もまた綺麗だ、と思ったが今度は口に出さずに、先ほどの言葉に男が反応を示すのをじっと待ち続けた。 呆気に取られた顔は次第にまさに霹靂、青い空にもくもくと立ち上った雷雲のように、男の顔を険しいものへと変えていく。 「わしに世辞は要らぬ、と言ったはずだが」 おや、感性豊かな貴方らしからぬつまらない答えだ。 劉備はまた笑ったが、今度は先ほどより小さく、やや厭味に似た笑みだった。些細な違いで、もう随分と長く傍で過ごすようになった義弟たちですら見抜けるかどうかの劉備の笑みの差異を、男はしっかりと見極めたらしく、切れ長の双眸に雷光が瞬くように剣呑さが煌めいた。 「何が可笑しい」 「なぜ世辞だとお思いに?」 問いかけには答えずに、自分の疑問だけをぶつけた。男は不機嫌そうに唇を尖らせ、そんな子供じみた仕草に、また劉備は笑った。 「今の言葉はわしに向けたものか」 「そうですよ、貴方以外のどなたに向けたとおっしゃるのですか?」 すると男は目を転じ、周りを指差しながら言い募る。 「このように美しいものが広がっておるというのにか」 言われて劉備は男の指先を追いながら辺りを見渡した。 二人が立っているのは見渡す限りの平原である。広く彼方が霞む先には、見る角度によってなだらかで柔らかい顔を見せたり、険しく切り立つ荘厳な顔を見せたりする山々の緑がかった姿。太陽の光を満身に浴びて身を飾り立て、輝く姿を悠然と横たえて流れる川面。足元には芽吹き始めた弱くも瑞々しく愛い姿を優しい風に揺らしている小さな花々。二人が乗ってきて、今は許?が手綱を取っている馬たちが食んでいる若い草も目に優しい。また空は深呼吸して全ての清い(空)気を我が内へと取り込みたくなるほど、新鮮であり青く透明だった。 そうやって男に説明されれば、劉備とて景色に潜む美を理解できなくはないが、自ら気付いてなおかつ男のように美辞で表現できる感性は持ち合わせていない。 むしろ、つらつらと唇から紡ぎ出された言葉の響きに、やっぱり綺麗だ、と思うばかりであった。 そのままそれを男に告げると、また男は呆れて、不機嫌そうになった。 「もしや、貴方はご自分のことを綺麗だと思っていないのですか?」 ようやくそのことに思い当たり、劉備は自分より下にある顔を覗き込むようにして尋ねた。 「……」 「……どうしました?」 黙り込んでしまった男へ、劉備は重ねて問いかけた。 「お世辞ではないのですけど?」 「ならばたわ言だ」 「違います」 「痴れ言」 「正常です」 「酔っているのだ」 「素面ですよ」 「お主は調子の良い男だ」 「ん〜、それは当たりです」 くつくつと笑う。笑って、すっかり不貞腐れたらしい男の顔をちらり、と見て、また可笑しくなって腹を抱えて笑い出す。どうやらそれですっかり男の機嫌は最下層まで沈み込んだらしく、ぷい、と一人ですたすたと歩き出してしまった。 「あれ、曹操殿? どちらへ行かれるのですか、曹操殿ー?」 劉備は男の名を呼びながら、急いで背中を追いかけた。 漢王朝皇帝、景帝の子、中山靖王劉勝が末裔、劉玄徳。 それが劉備の全てである。 たった、それだけを羅針盤に、乱世という大海原に桃園の下で契りを結んだ義弟二人と劉備を慕う少数の人間を引き連れて、ボロ船で漕ぎ出した。船は継ぎ接ぎだらけの二束三文で売っていそうなものだったわりに、中々順調な滑り出しだった。 一応は、太平道に傾倒する黄巾賊と呼ばれる輩を義弟二人の武勇と劉備のちょっとだけ回る知恵で倒して、僅かばかりだが国から少しだけ良い船を貰うことが出来た。 安熹県の県尉という船の名前は、しかしすぐに劉備が自ら壊すことになる。役人のケチがついた船などに用は無い、とばかりに再び義弟二人と大海へ身を躍らせた。泳ぎ疲れると誰それの船にしがみ付いて、しばらく乗せてもらった。 公孫サンであったり、陶謙という名であったり、ときに呂布という名の船にも振り落とされそうになりながらもへばり付いた。特に陶謙という船に一緒に乗っていた徐州という土地は、劉備が初めて手にした大きな大地であった。しかしながらすぐに呂布に奪われて、取り返そうにも呂布の船は暴れ船である。劉備は急いで曹操という名の船に飛び移った。 曹操という男とは初めてその時に顔を合わせた。曹操にとっても徐州という土地は魅力的だったようで、すぐに協定が結ばれた。ただし、劉備に舵取りの権限はない、客人という扱いであったが。 無事に呂布を討伐した曹操は、そのまま劉備を冷たい海へ放り出すことをせずに、都へ招いて厚遇してくれている。 義弟の一人である関羽が言うには、劉備の掲げた旗印が必要だからだ、ということらしい。 漢王朝、血筋の人間。 劉備が海原へ漕ぎ出すときに、景気づけにと帆にでかでかと書き殴った本当のような嘘の肩書き。口に出すと劉備の行うこと全てに意味があるように思えてくる、素敵な呪文だ。 『ふ〜ん、じゃあ曹操殿もこの呪文に興味を示しているってことか』 『そうです。曹操殿がいくら天子を奉戴していようとも、彼の強引な手段を快く思わぬ人間など掃いて捨てるほどおります。その逆風を兄者の掲げる帆で少しでも追い風にしたいのでしょう』 『他人の帆をあてにするなんぞ、曹操もちいせえ男だ』 もう一人の義弟、張飛が酔っ払いながら口を挟む。 『小さいのは本当だが、翼徳。他人の帆、などと言い出したら私も同類になるが?』 からかうと、うえっ、不味いことを口にした、と張飛は顔を歪めてごろん、と寝転がって、また酒をちびりちびりと飲み始めた。 『どうしようか、雲長』 『さて、それは兄者が決めること。拙者たちは兄者に従いますゆえ』 小言も苦言も多い弟であるが、最終決定権は常に劉備へと委ねる。時に面倒くさく思うこともあるが、劉備は自分で舵を取れなければ、海原に出る意味がないし、つまらないと考えている。だからこそ他人の船に長居が出来ない。だが今は少し様子が違い、舵を握れない今の状況を楽しむ気でいた。 今までの船主はいつもつまらない方角へしか進路を取らなかったり、乗っていてもいつ沈むか分からなかったりした船だった。だからすぐに飽きて降りた。ところが、今乗っている船主は、小さい体に見合わない大胆さで大きな船を操るのだ。それが傍で見ていて楽しい。 だから劉備は、許都での客将の立場に身を任せていた。 ゆさゆさと上下に小さく揺れる背を眺めながら、劉備はそっと隣の巨漢へと声をかける。 「私、何か曹操殿の気に障るようなことを言ったみたいなんですけど、なんだか分かります?」 声をかけられた巨漢――曹操をもっとも傍で守ることを任じられている許チョは、ん〜? と小さな目をしきりに瞬きながら曹操の背と劉備の顔を見比べた。 「おめぇ、曹操様を怒らせるようなことをしただかぁ? 悪い奴だ〜」 一人、馬に揺られて先を行く曹操の後ろを、劉備と許チョも同じように馬に乗りつつ追いかけていたが、近寄りづらい雰囲気を察して少し距離を置いていた。もっとも、許チョにしてみればいつもと同じ距離なのだろう。劉備をじろり、と睨み付けつつも曹操の周りに気を配る様子に緊張感はない。 「違います。いえ、怒らせたのはどうもそうみたいですけども、人間、誰しも失敗というものがあるでしょ? 将軍だってどうですか」 「おいらのことは許チョでいいだよ。……おいらが失敗?」 「そうです、許?殿。例えば、腹いっぱいご飯を食べ過ぎて、護衛のときに眠くなって仕方がなくなったとか」 「む〜、あるな。だからおいらはそれから、曹操様を守る前はあんまり食べ過ぎないようにしてるだよ」 「ほら、それですよ、それ。失敗しないと分からないこともあるでしょう。だから、私は今、どうも失敗してしまったみたいですから、なぜそうなってしまったのか、知りたいのです。許チョ殿だって、曹操殿がまた怒るのは嫌でしょう?」 んだ、と頷いてくれた許チョへ、劉備は先ほどのやり取りを聞かせた。すると普段は大人しそうな面容をしている男が、顔を曇らせた。 「それは駄目だー。それは曹操様、怒るだよ」 「どうしてですか。私は曹操殿を褒めたんです。なぜそれで機嫌を損ねるのです」 「おいらにも分かんねえ。だけども、曹操様は自分のことを綺麗だって言われるのが、大嫌いみたいなんだぁ」 「世辞じゃなくても、ですか」 「そうだよぉ。言った相手をだま〜ってすっごい目で睨むんだよぉ」 そんときの曹操様はほんっとうに怖いだ。 悲しそうに許チョは眦を下げる。ふ〜ん、と劉備は鼻を鳴らして、少し離れた先で揺れている背中を眺める。 曹操という男の風聞、そして許都へ来てから実際に曹操という男に触れての総評は、万事そつなく、それもその分野に特化している人並に物事をこなせる完璧に近い人物、というものだった。そんな人間が小さくまとまっているはずもなく、だからこそ彼の取る舵の行き先が面白そうだ、と劉備は留まっているのだが、そんな彼が褒められることを嫌うとは、おかしな話だ。 「世辞でもなく、心の底から褒めている人もきっといるだろうに」 何が気に食わないというのだろう。 綺麗だと思っていない、褒められるのに値しない、と思っているのだろうか。劉備が『貴方はご自分のことを綺麗だと思っていないのですか?』と尋ねたとき、黙り込んだ。つまりは肯定だ。 男に容姿のことで褒めたことがいけなかったのか。しかし綺麗なものを綺麗だと言って、何が悪いと言うのだろうか。 分からん。 劉備は一つのことに長いこと思考を巡らせておけない。大概、面倒くさくなって、今のように放り投げてしまう。直感的に動くので、失敗も多い。ただし、本人が気にしないところも特徴だ。 気分を害してしまったのなら、謝ればいい。 馬の腹を蹴って、曹操の近くへ馬を寄せる。 「曹操殿」 轡を並べて呼びかければ、鳳眼と呼ばれる眦が赤い双眸で、ちらりと劉備を見上げた。吸い込まれそうな深い紺の色をしている。夜明け前、それとも日が沈む直後だろうか。次の 「なんだ」 思わず見惚れていて、名を呼んだ後沈黙してしまっていた。不審に思った曹操が促してきた。その声は劉備の言葉に背を向けたときより柔らかい。機嫌を治したのか、と思い、なあんだ、と笑う。 気を揉んで損した。 「曹操殿」 なぜか嬉しくなってもう一度、呼ぶ。 「だからなんだ」 「今日はこうして曹操殿が遠乗りに誘ってくれました。ですから、今度は私が曹操殿をお招きいたします。と言っても、招く先は曹操殿に用意してもらった屋敷ですが」 いかがでしょう? 自分でも考えてもいなかった提案だった。口に出して驚いたが、もっと驚いたのは言われた当人だったらしい。 「わしが、お主のところへ?」 切れ長の双眼がまんまるになり、じぃっと劉備を見つめてくる。 「あー、えっと。そうです。お嫌でなければ」 思い付きで口にしただけあり、見透かすような眼差しに晒されれば自信を失いかけて口篭もる。しかしここは見栄と勢いで海原を渡って来た男だ。次の瞬間には、そこらを歩く面食いの男より女にもてる、と言われる仁徳の笑みを浮かべていた。 「もちろん、曹操殿のような豪華な宴会など設けられませんし、弟たちと近臣だけの慎ましいものです。それでも、普段曹操殿が味わえないこぢんまりとした宴の楽しさがあると思います」 どうしてこんなに熱心に曹操を誘うのか自分でも良く分からないが、勢いとは恐ろしいものである。 「中庭で作っている新鮮な野菜で料理を作りましょう。 「面白そうだな」 夜空に星が瞬き始めたようか、はたまた遥か地平線の向こうから太陽が顔を覗かせ、光の筋を空に走らせたようか。不機嫌だった様相が嘘のように、曹操の瞳が輝いた。 「ええ、きっと」 そんな童子のような面容が、劉備の曹操への印象をどんどんと変えていく。 気分屋でとっつき難くて扱いにくい? そうじゃない、この人はきっと……。 劉備は曹操の眼差しに、目を細めつつ感じていた。 |
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