「秋空、蜻蛉 5」
劉備×曹操



   ※※※


 聞き慣れた嘶きが聞こえ、劉備は振り返った。
「おお、的盧か。無事であったのだな。……しかしお前は薄情な奴だ。わたしが捕まった途端、ちゃっかり逃げおって」
 苦笑しながら、駆け寄ってきた愛馬の鼻面を撫でてやると、
「殿」
 冷え冷えとした声が劉備を呼んだ。
 首を竦めて声のするほうを見やれば、冴え冴えとした表情を浮かべた長身の男が立っている。
「出迎え、すまんな、諸葛亮」
 刻限どおり、約束した場所にきっちり違えることなく現れた男を、劉備は労った。
 じっと、整った男の顔が劉備を見下ろす。
 それを見上げてにこり、と笑えば、諸葛亮は諦めたような大きなため息をつき、くるり、と背を向けた。
「みなが待っております。急ぎお戻りください」
「ああ」
 歩き出す背中を追いかける。
「すまん」
「……謝るぐらいなら、あのようなこと、二度となさらないでください。いくら民を守るためとはいえ、御身を囮に使うなどと。必ず生きて戻れる保証などどこにもないでしょうに、信じろ、とだけおっしゃられ勝手に」
「そう言うな。全く保証がなかったわけではなかったのだ」
「それは、どういった理屈ですか」
 理屈か、と劉備は小さく笑う。
「そうだな、お前には理解は難しいかもしれないが、勘というやつだ」
 曹操ならば、すぐに切り捨てる、などということはしないだろう、という、敵対する相手に抱く思いとしては不思議だが、信用していた。
 しかし案の定、諸葛亮は全く納得できない、という顔をして嘆く。
「勘などと。そのようなあやふやなものでご決断なされたのですか。これであなたの身に何かあれば本末転倒もいいところ。末代までの恥です」
「そう言うな。第一、あのときはこれが最善、と思って行動したまでだ。そのあとのことなど考えなかったのだ」
 それに、それだけが目的ではなかったし。
 心の中で呟く。
「これからは、そういうわけには参りません。あなたの行動、言葉ひとつひとつが人の口、書の中へと受け継がれていくとお考え下さい。そういった自覚を持っていただけなければ、あなたは無謀ともいえる行動を慎まれませんでしょう」
「お前は本当に、理屈でものを考えるな」
 苛めたくなるぞ。
「何かおっしゃいましたか」
「いいや。しかし、お前はわたしを信頼していないのか。ならば、呆れて見放すか?」
「また意地の悪いことを。拠り所がないようなあなたをお仕えする方、と見定めたときより信じております」
「そうか」
 まだ年若い、臣に成り立ての男を見やる。丁寧に拱手する男に、ふとあの策士の顔が過ぎる。
 こやつも、あの男と同じように自分の選択に悔やむときが来るかもしれぬな。
 しかしそれを、自分のものとして受け止められればいい、と劉備は思う。
 決して人は同じ景色を眺められない。喜びも、後悔も全て自分のものだ。
 だからこんなにも、生きていくことは辛くて面白い。
 鼻先を、赤い虫が横切った。
「もう秋か」
 明けていく空を見上げながら、劉備は蜻蛉の後ろ姿を眼で追った。


   ※※※


「今ならまだ間に合うぞ」
 薄暗い紺の空を見上げる曹操に、夏侯惇が声をかけてきた。
 振り返る。
「よい」
「そうか」
 逃がした劉備は、一度だけはっきりと曹操へ笑いかけ、また、とだけ告げた。それに対して曹操は小さく頷き返した。
 それで十分だろうと。
「後悔は、あのときだけで十分だ」
「ん?」
「子供のころ、わしはこの時期になると空を飛んでいる蜻蛉が大好きだった。いつも夢中で追い駆け回し、あるとき、どうしても手元に置いておきたくて、捕まえたことがあった」
 しかし子供の力加減だ。
 容赦なく掴んだそれは、手の中で翅がもげ、飛べなくなってしまった。
「それがひどく悲しくてな。わんわん泣いたものだ」
 空を翔る姿に焦がれたのなら、決して地上に引き摺り下ろしてはならない。もし、どうしてもその姿を近くでみたいのなら、自分も一緒に飛べばいい。
 あるがままの姿が愛しい。
「そうか」
 呟いた夏侯惇はまた、曹操の肩を叩き、大きな手で軽く揺すった。
 その手の暖かさが心地良く、曹操は明け始めた空を見上げる。
 真っ白に染まり始めた辺りの空を、真っ赤な蜻蛉が一匹過ぎる。
 人差し指を差し出した。
 今度は、蜻蛉は止まらずに、明けていく空目がけてつ、つっと滑るように飛んでいった。
「もう、休息は十分だったか」
 頬を撫でた風は冷たく、秋の深まりを届けてきた。
 秋空へ舞い上がった蜻蛉に、
「また」
 とだけ、曹操は声をかけた――



 終劇





 あとがき

 ここまでいかがだったでしょうか。同人誌よりの再録になります。
 すっかり劉操にハマって、がつがつ劉操書きまくっていたころです。まあ、今でも同じですが(笑)。
 このときの裏話、といえば、同時に曹操×劉備を出したのですが、同じぐらいに売り上げた、という点でしょうか。
 二徳の力を思い知りましたよ。

 それから、やっぱり賈クでしょうか。
 今は別方向から賈クに嵌っていますが、この賈クも自分なりに掘り下げて書いたのだなあ、と読みながら思ってみたりして。
 それから惇の存在。相変わらず劉操を書いているときは大変なる障害です(笑)。惇操でいいんじゃない、と何度も思いながら書いたことを思い出しました。

 では、少しでも読んだ方が楽しんでいただければ、幸いです。

 2008年11月16日 発行
 ↓
 2010年9月 再録




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