「夏侯元譲の残暑報告書 1」
  夏侯惇×曹操


○年 夏

 先日の、荀尚書令が立案・計画、夏侯元譲が実行に移した、
「きたかぜとたいようの計」の報告書をここにまとめる。
 この報告書は荀尚書令宛に書かれたものであるが、念のため、成人していない者は閲覧禁止だ。ましてや購入などもってのほかであることを記しておく。

 最後に、この報告書内容は夏侯元譲×曹孟徳 である。
                          夏侯元譲 印


 ■□■


 まるで顔でも洗った後かのように、汗がこめかみや頬を伝い、顎から滴り落ちている。汗を拭おうにも、持っている手巾(てぬぐい)はびしょびしょで、もうその役目を初めのころに放棄していた。
 肩口の布を引っ張り、拭うが、すでにそこも全身から噴き出る汗で濡れている。あまり意味がなかったものの、幾分かましになった。目に入りかける汗を、瞼を閉じたり開いたりしながら誤魔化して、夏侯惇は手綱を握り直して、カンカンと照り付ける太陽を見上げた。
「暑いですね」
 隣で同じように汗を拭っていた韓浩が言う。ああ、と唸るように返事をして、振り返る。
 ゆらゆらと、地面から立ち上る熱気で視界が歪んで見える。その中を疲労困憊の態で歩んでいる兵の姿があり、叱咤しようか、と口を開いたがやめておいた。幸い、このうだるような日中、外で動いている者など皆無だ。覇気のない兵卒たちの姿を見られても、悪評が流れる可能性は限りなく低い。
 今年の暑さは異常だ。普通の暮らしをしているだけでも参るのに、この暑さの中を簡素ながらも鎧を着けて、ひたすら歩かされている。しかも、重労働の後だ。これからようやく許都へ帰れる、といえども、疲労を隠せないのは仕方がないだろう。
「脱落者が出ていないだけマシか」
 夏侯惇の呟きを耳にしたのか、韓浩が大きく頷いた。
「まったくです。死人が出てもおかしくない中での作業で、とりあえずは元気ですから、日頃の鍛錬の賜物です」
 夏侯惇が率いる部隊は、今年の異常な暑さで干上がりそうな田畑を見回り、近くの川から水を引く、という地味な任務を受け持っていた。農民ももちろん力を尽くしてくれたが、やはり主となる動力は普段から鍛えている兵たちで、夏侯惇も自ら土を掘り返し、土嚢を担いだ。
「だが、許都が近付いたら、もう少ししゃきっとした顔になってもらうからな。曹孟徳の軍が暑さにだらけていた、という風評を広めるわけにはいかない」
 誰も歩いていない道ならともかく、城郭に入れば衆目がある。各地からの商人も集まっている許都で気の緩んだ行動を取れば、すぐさま諸国に知れ渡ってしまう。
「その通りです」
 力強く頷く韓浩を、ぎろり、と夏侯惇は睨み付ける。
「その中に、お前も入っていること、分かっているのか」
「えー、何でですか。俺はいつでもきっちりと……」
「上半身裸の奴が何を言っても説得力ない」
「ああ、忘れてました」
 真顔で答えた副官に、まともそうに見えたが、こいつも相当暑さにやられているな、とため息混じりに思った。


 曹操が治める許都も変わらず、火鉢の中に放り込まれたような暑さであった。さすがに人出はあるものの、普段の賑わいに比べれば少ないほうだ。一日の中でもっとも暑くなる時間帯に外を歩くのは、暑さにやられた酔狂な人間か、どうしても出かけなくてはならない用事がある者ぐらいだろう。
 やっとの思いで到着した兵たちを労い、充分に休息を取るよう言い渡すと、体力に自信のある夏侯惇でさえ、どっと疲労感が押し寄せてきた。しかし夏侯惇は、前述での後者であったために、自宅へ取って返し、汗と埃を落として身支度を整えると、再び炎天下の中を歩き出した。
 水を被ってきたものの、少し歩くと再び汗まみれだ。やれやれ、と思いながらも地面から立ち上る熱気で揺れている景色の中で歩を進ませる。普段だったら賑やかな売り声が響く通りであり、顔見知りの人間から声がかかることもある場所でもあるが、今日はいたって静かなものだ。
 ようやく、許都の執政宮へ入るための門が見えてきた。この気が狂いそうな暑さの中、じっと立っている門番に労いの言葉をかける。
「夏侯将軍、いまお帰りですか」
「ああ、殿にご報告を、と思いな」
 暑さに溶けそうになっていた顔を引き締めつつ答えた門番に、無理し過ぎるなよ、ともう一度労いつつ、門をくぐった。
 さすがに人目が多く、中原の核となる場所だけあり、目に余るほどだらしの無い格好をした者も、暑さに参って引き篭もっている者も居なさそうだ。もちろん、ある程度の疲労は蓄積されているらしく足取りは重そうなものの、緊張感が漂う良い雰囲気だ。これも上に立つ人間の威厳が保たれ、隅々まで行き渡っている証拠だろう。
 夏侯惇が留守の間も、従兄の覇気に陰りはまったく見られなかった、ということだ。安心しながら執政宮のさらに中心、従兄が居るはずの執務室へと向かった。
 と、夏侯惇の前から長身の男が歩いてくるのが見えた。この暑さの中、朝服をまったく着崩さず、顔付きもその二つ名に相応しい涼やかさと怜悧さを保ち、まるで一人暑さとは無縁の場所に居るかのような男だ。
 向こうも、文官が目立つ執政宮の中で異彩を放っている風体の夏侯惇にはすぐ気付いたらしく、つかつかと歩み寄ってきた。
「よお、荀彧、いま戻」
「遅い、遅いのです、将軍!」
 帰還の挨拶をしようとした台詞に被さり、いきなり叱責を受けて、夏侯惇は残っている目玉側の瞼を大きく瞬かせた。
「なんだ、機嫌が悪いな。暑さとは関係なさそうな顔をしているが、結構参っている口か」
 しげ、と荀怜君と名高い男の顔を見つめるが、夏侯惇と違い汗一つ掻いた様子も無い、いつも通りの顔立ちである。これだけ着込んでいるのに、どういう体内構造だ、とも思った。
「このような暑さ、心頭滅却すれば火もまた涼しです」
「そうか」
 曹操の片腕と周りから言わしめる、優れたる執政官は根性論が意外と好きだった。
「で、じゃあ暑さのせいじゃなきゃなんだ」
「暑さのせいです」
「どっちだよ」
 暑い最中、つっこむのも体力を消耗するのだから、極力避けたいのだが、荀彧相手だとそうもいかない。つっこむことも出来るがボケることも可能な万能文官殿は、こういうときに厄介だ。
「こう見えても、私とて暑さに参っているのです。郭嘉など、この暑さでは生死に関わりますから、避暑地へ強制連行させました。本人は遊ぶところも何も無いところには行きたくない、と駄々を捏ねていましたが、案の定ぶっ倒れまして、一週間前に程昱殿と共に許都から追い出しました」
「うむ、病弱な奴と老人には堪えるからな」
 程昱が目の前にいたら書簡の角で思い切りぶん殴られそうなことを言い、夏侯惇は頷く。
「しかしおかげで政務が滞りまして」
「それで苛々していたのか」
「まさか。普段から仕事をしていない男が一人と、程昱殿が居なくなったぐらいの穴、埋められます。大きく滞ったのは初めのうちだけです」
「じゃあ何だ」
 何を荀彧が言いたいのか、察しはそこそこ良いはずの夏侯惇だったが、さっぱり察せない。やはり自分でも言ったとおり暑さで参っているのだろう。要領の良い説明が得意の荀彧が本筋に中々辿り着けないでいる。
「参っているのです」
「だから、暑さにだろう」
「違います、主公にです」
「……殿が倒れられたのかっ?」
 それは考え付くにいたるべき発想であった。
 夏侯惇の従兄は寒さにも暑さにも滅法弱い。ただ寒さは、良く動き回るせいかそのうち暖まるらしく、さほどでもなさそうだが、暑さだけはどうにも出来ない。その中でさらに精力的に動き回るのだ。暑くないわけがない。
 郭嘉や程昱のように避暑地へ旅立つ者や、暑さで倒れてしまったせいで人員が抜けた穴を埋めようと、無理をするであろうことも想像に難くない。
 荀彧の肩を掴んで揺さぶる。
「具合はっ? 命に別状は無いのか!」
「ちょ……しょ……ぐんっ、やめてっくだっさい……っ」
 揺さぶられ症候群も良いところの夏侯惇の力加減の無さに、さすがの怜君も悲鳴を上げる。
「どこにおられるのだ、殿は! 見舞いに行くぞ、ほら、連れて行け!」
「だっか……らっ、そう揺さぶ……っられる……っと」
 あいやー、と叫びながら、荀彧は手にした書簡で夏侯惇の頭をぶん殴った。何か別なものが乗り移った気がするが、それは置いていく。
「いい加減にしてください、将軍。主公はご無事です、ご無事どころかまったく困ったことになっております」
「無事なのに困っているとはどういうことだ」
 書簡の角が脳天を直撃し、涙目になりつつも聞き返す。本気で痛い。
「面倒くさいですから、ご自分の目で確かめて来てください。いつもの執務室におられます。それから対策を練りますから、私の執務室に後で顔を出してください」
 一方的に言い捨てて、荀彧は去っていく。政務は滞ってはいない、と言っていたが、忙しそうなのは相変わらずのようだ。この調子では、従兄も同じような状態だろう。荀彧にゆとりがあるときは、従兄ものんびりしている。また、その逆もしかりだ。
 結局、さっぱり要領を掴めなかったわけだが、従兄の身に何かあったことは確かなようで、足早に執務室へ向かうと、風通りを良くするためか戸が全開になっている。その中から、誰かが慌てて出てきた。
 これまた顔馴染みの文官だったが、顔がやけに赤い。暑さのせいにしてはどうも様子がおかしく、首を捻る。そんな夏侯惇を文官が見止めて、泣きそうに顔を歪めてきた。
「将軍ーーっ」
 縋られる。
「わたし、わたし……もう限界ですーー。嫁の、嫁の顔を見に帰らせていただきます!」
 意味不明である。疲れているなら、帰ったほうがいいぞ、ととりあえず宥めて、見送る。やはりみな、相当暑さにやられているな、と思いつつ、戸が開いているので、その少し手前で足を止めて、声を掛ける。
「殿、夏侯元譲、ただいま戻りました。帰還の挨拶に伺いましたが、よろしいでしょうか」
「おお、夏侯惇か、入れ入れ」
 間を空けず、中から従兄の声がした。声の調子だけ聞けば、少し暑さに参っているようだが元気そうである。ほっとしながら、夏侯惇は部屋の中へと足を踏み入れ、従兄の姿を探す。夏侯惇を見やって笑顔になった従兄の顔はいつも通りで、夏侯惇も笑みを返そうとしたが……固まった。
「はは、すっかり日に焼けたなあ、真っ黒ではないか。暑かっただろう、こっちで少し涼んでいけ」
 朗らかに告げる従兄に、夏侯惇の眉は吊り上がる。思い切り息を吸い込んだ。傍に立っていた許褚が慌てて耳を塞いで身を縮こませたのが目の端に映った。

「もーーとくーー!! なんだ、その格好はーーー!!」

 暑さにも負けない夏侯惇の大音声が執政宮に響き渡った――



 どすどす、と足音も荒く、夏侯惇は荀彧の部屋を訪れた。
「荀彧、俺だ、入る」
 主の許可も得ずに入室してきた夏侯惇を咎めることもせず、荀彧は顔を上げて、深く頷いて見せた。
「参りますでしょう」
「参るな……ってか、止めろよ、あれ」
「将軍こそ、止められましたか」
「……頑として着なかった」
 そうでしょうとも、とまた荀彧は深々と頷いた。筆を操っていた手を置いて、思案そうに眉根を寄せた荀彧の前にどかり、と座り、夏侯惇は腕を組んだ。
 夏侯惇の従兄、すなわち曹操は、この暑さに耐え切れず、まっぱで過ごしていた。いや、さすがに下穿きは身に付けていたものの、ほぼまっぱである。
 筋肉の付きづらい細身の身体や、内政が続いたせいか、夏なのに透き通るような白い肌を晒し、あまつさえ可愛らしい胸の尖りを惜しげもなく……。
「鼻血が出そうだ」
「押し倒したくなりますね」
 夏の暑さに脳みそが蕩けたような発言をした夏侯惇へ、間髪入れずに返した方も返した方だろう。
「本人がいたって気にしておられないところがまた困っているのです。『これだけ暑いのだ、わしだけでなく、皆も裸で過ごせば良いではないか。規律や風習に倣って倒れたのでは意味がない』とまでおっしゃり」
 荀彧は曹操そっくりの口調で再現してくれて、曹操がどんな顔でそう宣言してきたのかまざまざと目の前に見えてくるようだった。
「他の人間がいくらまっぱになろうとも知ったことではないが、孟徳が裸になるのだけは阻止するべきだっただろう。まったくお前らしくない」
「それをおっしゃらないでください。これでも反省しているのです。あの時は私も暑さでどうかしていたのです」
 美麗な顔の眉間に、深々と皺が刻まれる。
「おかげで、主公の下へ行きたがらない者が続出して、政務の進みが芳しくありません」
 そりゃあそうだろう。
 途中で行き会った馴染みの文官の様子を思い出す。
 曹操の裸を目の保養だ、と言い切れる豪胆な人間は、残念ながら郭嘉と程昱ぐらいだ。郭嘉は純粋に楽しんでいる、ということと、程昱はもう完全に曹操を息子か孫ぐらいにしか思っていないからで、普通の人間は平常心ではいられない。嫁の顔でも見て、自分の神経がまともか否か、確かめに行きたくなるのが当然だ。
「あいつは自分の裸がどれだけ人を誘惑するか理解しておらん」
 そういう意味で平気なのは、単純に曹操という人柄を好んでいる許褚も当てはまる。荀彧や夏侯惇はほとんど気合で自分を制しているだけだ。
「お前、よく毎日顔を突き合わせていて平気だったな」
「……平気だとお思いですか」
「いや、すまん、愚問だった」
 こうして落ち着いて荀彧の様子を窺えば、相当に参っていることが分かった。暑さだけでなく、人員不足を補うために方々を駆け回り、体力的にもきつい日常に、曹操のところへ報告に行けば誘惑を跳ね除けるための精神力が欲しくなる。主君の裸に誘惑されるとは、という己の弱さを叱咤するのもまた、疲労感が増す要因だろう。
 夏侯惇などは従兄に欲情する己の感情ととっとと折り合いを付けてしまったがために、早い段階から楽になったものだが、筆頭文官殿は未だに己の気持ちを認めようとせず、気合と根性で忠実なる臣の地位を保っていた。
 その強情さと純粋に曹操を敬う姿勢に敬意を抱き、夏侯惇は曹操と従兄弟、主従という枠も超えた関係を持とうと決意したときも、荀彧に許可を申し出たぐらいだ(ほとんど、娘さんを僕にください、と言い出した男と、娘の父、のような関係だ)。
「とにかく、このまま主公があのような格好でいらっしゃる、というのでしたら、早急に手を打たなければ、許都は内部から瓦解してしまいます」
 荀彧の言葉はおおげさではない、と疲労感が色濃く漂う目許が雄弁に語っていた。最後の牙城は他でもなくこの男、荀文若だ。男が倒れてしまえば、いくら曹操が踏ん張った所で無駄だ。一人の人間が補える労力は、大勢の力の前ではあまりにも小さい。
「手はあるのか」
 暑さでどうかしていた、と本人は弁明しているが、荀彧が曹操の状態を放置したはずはない。正論から屁理屈まで、ありとあらゆる手を尽くして説得したのだろうが、未だにあの周りに示しがつかない格好でいる、ということは失敗に終わっている、ということだ。曹操に力ずくで服を着させるには、立場が立場だ。嫌だ、とごねられればお終いだ。
「個人的には下の下の策ですが。そのために、貴方の帰りを待っていたのです、将軍」
 どういうことだ、と目で先を促す。
「北風と太陽、という童話をご存知ですか」
「いや、知らん……てか、それ時代考証的に無理な」
「しゃらっぷ」
「はい」
 無表情に『だまらっしゃい』と言われた夏侯惇は、大人しく荀彧の話に耳を傾けた。


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