「荀彧文若の苦労日誌 2」 夏侯惇×曹操 |
そわそわと膝を揺すりながら、青空が広がる窓の外や人が行き交っている扉の向こうを窺う曹操を横目で観察していた荀彧は、小さく笑みを浮かべて質問した。 「主公、昨日の面接で候補に挙げられていたこの人物とこの人物ですが、技能と能力的には大司農府の大倉令(地方の穀物輸送の管理を行う部署)が適任ですが、むしろ私はあえて全く違う都水台(河水、運河の保守を任されている役所)の下官からやらせてみるのが良いと思うのですが」 「うむ、わしもそう思っておった。任せる」 「それから、先日の徐州における反乱の鎮圧ですが、張郃将軍が初手柄を上げましたが、報奨はいかほどにいたしましょう」 「うむ、それが良いだろう」 「……今日は雨が降り、湿っぽいですね」 「その通りだと思う」 「……最近、主公の背が縮んだような気がするのです」 「良いことだな」 荀彧文若は公私を 「何が可笑しいのだ?」 「いえ、失礼しました」 すかさず笑いを収めて元の怜悧な顔を作れたのは、さすが荀彧文若である。ただ口許に微かに残った笑みだけは消さずに、聞き返した。 「主公こそ、朝から落ち着きませんね。何か気にかかることでも?」 「ん~、いや、なに、ほらな」 ゆったりと笑みを広げて、歯切れの悪い曹操の言葉を待つ。 「報告書が届いてからもう十日経つだろう? そろそろか、と思っての」 「ああ、梅の便りですか。そうですね、そのような時季ですね。今年も梅祭りをなさいますか?」 「うむ! いいな!」 目を輝かす曹操は、しかしすぐにはっとして、違う違う、と言った。 「おや。では……ああ、もうすぐ新しい軍船が完成するのでしたね。ご安心ください、お披露目の時には主公も呼びますから」 「おお、もうか! それは楽しみじゃ……って、だから違う!」 「これでもありませんか。あとは……天子様の開かれる宮廷楽祭の準備でしょうか。それとも、歌会のこと……ああ、もしかして今評判の飯屋の新メニューが今日完成でしたっけ?」 「それもどれも楽しみだが、どれも違う!」 「では、先ほど書簡を届けてくれた侍従の誕生日?」 「お主は、ここで働く者たち全員の誕生日を知っておるのか!」 「当然です」 「ピンクの服を着た夫婦かっ? というかそんなことにお主の大事な脳みその容量を使わんでくれ!」 「大丈夫です、USB(F)に繋がっております」 「外付けハードディスクじゃとっ?」 「ギガ褒めてください」 「VIP(ビッパー)っ? てかちょっと古い!」 「じゃあギザ褒めてください」 「しょこたんか!」 「夏侯将軍はもうすぐお帰りだと思いますよ」 「…………」 時々、お主と言う男が分からなくなる時があるのだが、わしはどうしたらいいのだろうな。 なぜか窓辺に佇んで黄昏始める曹操の背中へ、まだ真昼間ですよ、主公、と平然とした顔で荀彧は声をかけた。 「それほど気になるのなら、迎えに行ったらよろしいではありませんか」 「いや、それは出来ぬ。夏侯惇は従弟とはいえ、わしの臣下の一人であることには変わりない。特別に接することは他に対する示しが付かぬ。わしが直々に迎えることにより、優遇されている、と見なされることは夏侯惇にとっても軍内での立場が悪くなるだろう」 真正面からのまともな意見に荀彧はコンマ数秒悩み、咳払いした。 「『俺はそんなこと気にする男ではないがな、孟徳』」 「激似!」 「『俺もそう思うよ。大体、旦那の人気っぷり、お主公知らないでしょう? 少しぐらい贔屓したって、誰も何も言わないって』」 「ちょ、文若、それ今度の梅祭りのとき、余興でやってくれ! 絶対に馬鹿ウケする! あと、誰と誰が出来るのだ」 「特徴あるしゃべり方をするのでしたら、誰でも。劉備とかも出来ます」 「マジで! やってやって!」 「『曹操殿、私を徳の将軍だとお思いでしたら大間違いですよ?』」 「うわ、そのちょっと腹黒さが滲んでいるところ、腹立たしいぐらいじゃ!」 「『曹操~、我が名族の誇りにかけて、貴様を倒す!』」 「あっはっは、袁紹じゃな。これは裏声を出せば誰でも出来るのではないか?」 「『ふっ……父よ、いい加減に遊んでいないで、早く行かれるが良い』」 「お主の声帯はどうなっておるのだ?」 「初音ミク仕様ですが」 「歌も歌えるっ?」 「で、迎えに行かれないのですか?」 「……時々、お主と言う男が分からなくなる時があるのだが」 「寂しいなら早く会いに行かれればよろしいのです」 「寂しいとか、そういうのではなくてだな」 「先日、私のことをお笑いになったので、意地を張られているのでしょう。男女の様な恋仲、という関係は置いておくにしても、寂しいことは寂しいのでしょう?」 「うむ……」 「将軍に話したいことがあるのでしょう?」 「そうじゃ」 「逆に将軍の話も聞きたい」 「うむ」 「会えなかった間のことを話して、傍で笑い合って、お互いを労って、それがとても幸せなのでしょう?」 「不思議と癒される」 「この人の傍に居ると安心できる、お互いが居なくなることなど考えられない」 「そう思うの」 限りなく恋情だと思う。男女でない、異性ではないことなど関係ないほどに、曹操と夏侯惇の関係は従兄弟という血族、主従という絆、その他にもう一つの関係を築いていてもいいはずだ。 郭嘉の言う通り、今のままでも充分に曹操は夏侯惇との関係に満足しているだろう。不幸せなどと思っていない。それでも、こうして夏侯惇の話をするときの曹操の柔らかな表情を見てしまうと、もう少しだけ、自分の気持ちに気付いて欲しい、と思ってしまう。ましてや、想う相手も同じ気持ちであるのだから。 「行ってきてください」 背中を押す。小さな身体で乱世を御そうとする大きな背中を荀彧はぐっと押して、耳元で囁く。聞き取れるかどうか分からない、小さな小さな声で告げる。 「私は将軍の隣にいる貴方の顔が大好きですから」 返事はなかった。ただ、戸を開けた曹操は少しだけ振り返って、照れ臭そうに笑い返してくれた。それだけで、荀彧は幸せだった。 後ろから許褚付いてくる。トタトタと走る曹操に遅れまいと巨体を揺らしているが、駆け出し始めた曹操に焦りの顔を浮かべている。急げー、虎痴、と後ろを振り返りつつ曹操が励ます。 許褚を置き去りにしたまま夏侯惇に会いに行くと、従弟は鬼のような形相で怒るのだ。護衛も付けずに出歩くな、といつも言っているだろう、とそれはもう凄まじい剣幕だ。だから今も全速力で走りたい気持ちを抑えつつ、許褚を引き離さないように気を付けている。 執務府が立ち並ぶ区画は広く、ようやく夏侯惇が帰ってくるときに必ず通る門の前まで辿り着く頃には、許褚は可哀想に肉まんを頬張っていた。 「体力が減るぐらい辛かったのか、虎痴よ」 しかしなぜか同情できない光景だったのは言うまでもない。ただ許褚の足に合わせて走ったおかげかタイミング良く、遠目に夏侯惇らしき人影を目にすることが出来た。誰かと話している最中らしく、シルエットから想像するに郭嘉のようだった。話は終ったらしく、郭嘉がひらひらっと手を振って、なぜか夏侯惇が踵を返して戻ろうとしてしまう。 慌てて曹操は声を張り上げて呼び止めようとしたが、もう一度夏侯惇は振り返った。以心伝心、と思ったのは一瞬で、なぜか夏侯惇は郭嘉を横抱きにして、自分の馬に乗せてしまう。遠くからも郭嘉の慌てた何かを喚いている声が聞こえたが、夏侯惇の声は届かない。 まるで壊れ物を扱うかのように郭嘉を前に乗せて、自分も馬に乗った夏侯惇は、思わぬ光景に呆然としている曹操に気付かないで去っていってしまう。 「虎痴……」 「んだ」 「あと肉まん何個残っている」 「…………二つ」 「厩までわしとお主の馬を大急ぎで取って来い」 「分かっただぁ」 悲壮な決意を滲ませた顔で、許褚はドタドタと厩のある方向へと駆けていく。 一人になった途端、曹操は胸を押さえて蹲る。 何だ、これは? 不可解な胸の痛みに、眉をぎゅっとしかめたものの、痛みはしばらく消えなかった。 夏侯惇が郭嘉を連れて(というよりも強制連行だ)自宅へ帰ると、年老いた女中が出迎えてくれた。もう長いこと夏侯家の家政を取り仕切っている女性で、細い体には不釣合いなほどてきぱきと良く働いてくれる。おかげで質素を地で行く夏侯惇だから、ということもあるが、家の事はこの女中だけで事足りている。 今も突然主人が連れ帰った痩せこけた野良犬を「まあまあ」と可笑しそうに笑いながら、居間へと案内してくれた。馬に乗せられて、長椅子に寝かされるまで片時も口を閉じずに文句を言い続けていた郭嘉だったが、寝かされた途端にぐったりとした。 「ほれ、見たことか。慣れんことをするな」 風呂を沸かしてもらえるか? と頼みながら夏侯惇は郭嘉の額に手を当てた。胼胝や肉刺だらけの皮膚を通しても伝わる体温の高さに目付きが自然と険しくなる。 「何の用で、どれだけあそこに立っていたか知らんが、用があるなら俺から訪ねてやるから、もうあんなことはやめておけ」 「旦那は心配性過ぎる……っていうかむしろ過保護だよね。ちょっと今日の俺の体調が悪かっただけで、あれぐらいで普段はへたれないよ。そも、俺の人生の最大の目標は、モブ文官を脱出して、イベントで郭嘉×曹操のぷちオンリーを開くことなんだぜ?」 憎まれ口に変化はないものの(しかも後半部分は意味不明だ、というか小さくないか、その目標? いやむしろでかいというべきか?)、一息しゃべると一息休む、といった具合で、いつもの立て板に水、渓流に葉が流れるような勢いでは舌が動かないようだ。それだけでも郭嘉の体調が芳しくないのは分かるが、口がある程度回るのならさほど心配はないのかもしれない。 「しっかし、旦那は勘だけはほんと獣並だよね。俺が体調悪いのなんか、主公だって文若だってそう簡単に気付かないのに。三回に一回ぐらいかなぁ。でも旦那は勝率十割だもん」 「身近に具合が悪いことを隠そうとする奴がいるとな、自然と鍛えられるもんだ」 「……それって主公?」 「普段はころころ顔を変えてしゃべりまくるくせに、そういうことは隠そうとするんだから、仕様のない奴だ」 「最近、頭痛が酷いらしいね」 「そうみたいだな。隠そうとしているみたいだが」 無駄なことを、と顔をしかめる夏侯惇だったが、女中が具合の悪い人に長話をさせないでください、と注意されて口を噤む。つい、郭嘉相手だとどうでも良いことまで口にしてしまう傾向がある。無駄話をしているうちに口が軽くなるらしい。 「湯殿が整いましたから、どうぞお入りになってくださいませ」 「用意がいいな」 随分と早い準備に驚く夏侯惇だが、女中は先ほど町の者が、元譲様がお帰りになられた、と噂していたものですから、準備しておいたのです、と種明かしされた。 「旦那、有名人だもん」 そんな自覚はまったくない夏侯惇は、女中と郭嘉の言葉に首を捻りつつも当初の目的どおり、曹操に会う身支度を整えるべく湯殿へと向かった。 孟徳に会ったら何を話そうか。まずは治水工事の最終報告は欠かせないにしても、報告書には私的すぎて書けなかったことも話したい。例えば孟徳に薦められて持っていった書物の感想だとか、時折勉学を見てもらった講師の解釈を元に考えた俺の解釈が合っているのか、とか。 話したいことは次から次へと思い浮かぶのだが、実際に曹操に会えば夏侯惇はそれだけで満足してしまい、もっぱら曹操の語る言葉に耳を傾けるだけになってしまう。曹操も曹操で、夏侯惇に話したいことは山ほどあるらしく、いつも遠征から戻って幾日かは曹操のしゃべり場だ。 きっと今回も同じような展開になるのだろうが、夏侯惇はそれを楽しみに遠征から戻ってくるのだ。離れている間、時折無性に寂しくなるものの、再会したときに味わう喜びを深くするためのスパイスだと、何時からか夏侯惇は割り切るようになっていた。 ざばざばと湯を被り、汗や垢、泥や郭嘉の指摘した肥やしの臭いやらを洗い落として、夏侯惇は良い湯だった、と腰にタオルを巻いただけの格好で居間に戻る。当然、この後は湯上りのビール、と行きたいところだが、まだ曹操に会う、という一大イベントが残っている。心得ている女中は冷えたビン牛乳を渡してくれて、それを夏侯惇は腰に手を当てて一気飲みをした。 「……くぅ~、この一杯のために生きてるな!」 「旦那ってベタなこと大好きだね」 「うおっ、そうか、お前居たんだったな」 「忘れてたの。てか、白髭になってるよ、どこまでベタなの」 牛乳が付着して白くなってしまった口許をぐいっと拭って、夏侯惇は郭嘉の様子を見やった。 「少しマシな顔になったな」 「うん、女中さんが生姜湯出してくれた。民間療法って馬鹿に出来ないね」 「はは、そうだろう。お前も牛乳飲んだらどうだ?」 「その民間療法だけは信用できないんだよね。だって、お主公毎日毎日、それはもう牛乳大嫌いなのに欠かさず飲んでいるじゃん。なのに……ねえ?」 「それには触れてくれるな」 「ま、俺としてはあの小ささがまた可愛いなぁって思うんだけどね」 「……男にそれは褒め言葉じゃないぞ。第一、傷付く」 「でもさ~、旦那だって思わない? 主公が膝の上に正面から乗って来て、ちんまり座って旦那を見上げてさ『惇、こんなわしは嫌いか?』と小首傾げて聞いてきたらさ、どう?」 「……どうって、お前、物真似下手くそだな。第一、嫌いも何も俺は孟徳の見た目など気にしていない。中身だ、中身」 「俺に文若ほどの才能がないことが悔やまれるけども、ちょっと旦那、察しも悪ければ想像力も欠如してるよ。どうして今ので萌えないわけ?」 「萌えってなんだ」 「途端にこれだ。主公に対してアンテナ張ってるなら、どうして肝心なところで鈍いの~。もしかして、どっかで遠慮してるのかな? ああ、それなら納得できるかも。ってことはそのストッパーを外せばいいわけか」 ぶつぶつと呟き始めた郭嘉から視線を外して、ふと窓から庭先を見やった。つかつかと歩いて軒下に立つと口を開いた。 「何してんだ、孟徳」 「……にゃ、にゃあ~」 「いや、見えてるから、許褚の尻が」 「くそ、わしに文若ほどの才能があれば!」 何が悔しいのか、実に口惜しそうに庭木の隙間から出てくる曹操を、呆れて夏侯惇は見守るが、ふと思い付いて言った。 「ちょっと語尾にさっきの『にゃあ』を付けてしゃべってくれないか」 「どういう意味だにゃあ」 「…………」 無言で蹲った夏侯惇を案じてか、焦った顔で曹操が駆け寄ってきた。 「どうした、惇。大丈夫かにゃあ」 「旦那、それが『萌え』って奴だよ」 いつの間にか傍に居た郭嘉に肩を叩かれて説明され、夏侯惇は「恐るべし」と呟いた。 「お主公、どうしてここに居るのか訊く前に忠告しておくけども、語尾に何か付けるのやめたほうがいいよ」 「どうしてだにゃあ」 「国中の人間腑抜けにしたいなら良いけど……」 特にこの人、と床に這いつくばっている男を指しながら、郭嘉はかつてないほど真剣な顔で進言した。 「い、いや大丈夫だ。なんの、これしきのことでこの夏侯元譲、孟徳の覇道に従う決意をした男。折れるようなことは……」 満身創痍の思いで起き上がった夏侯惇は、ニヒルな笑いを浮かべて郭嘉を制した。そして曹操に心配を掛けまいとすっくと立ち上がり、 「今、戻ったぞ、孟徳」 と満面の笑みで帰った宣言をしたものの、足元には一枚の布切れが落ちていた。 「全裸で何を格好つけておるのだ、馬鹿者!」 頬を染めて、曹操は真昼間、自宅の庭先へ向かって仁王立ちして良い顔で笑っているマッパの従弟を怒鳴りつけたのだった。 「……それで、怒鳴るだけ怒鳴って、戻ってこられたのですか」 ああ、眩暈が、と頭を押さえながら荀彧は、暗い顔をしてひたすら硯の中の墨を筆でぐちゃぐちゃ掻き混ぜている主君の顔を眺めた。 「……だって、なんか良く分からなくなってだな。わしに会いに来るよりも早く奉孝と遊ぼうとしたし、思わず腹が立って追い駆けて見たものの、二人は仲良さそうにしゃべっているわ。しまいにとどめは惇のでかくなりおった一物を見せられるわで」 「男同士でしょう」 「だが、小さい頃はともかくとして、大人になってから股間など見ないし、あんなに立派になっているのをぶら下げているなどと、惇のくせに生意気だし」 「ようするに混乱なされた、ということですね」 「……そうだ」 郭嘉は恐らく曹操ではなくて、夏侯惇から攻略しようとして接触を図ったのだろうが、偶然が重なり悪い結果へと導かれてしまったようだ。むっつりと不機嫌そうな曹操の視線の先に、泡立ってしまった無残な墨が広がっている。まるで主公の心のよう……か、と思いながら荀彧は考えた。 結論が出て、はっきりと荀彧は告げた。 「主公」 「何だ」 「私は猫派ですから、やはり語尾はぜひとも『にゃあ』がいいです」 「にゃに馬鹿にゃことを言っているにゃあ!」 「ぐっじょぶです」 改心のボケに対して改心のボケで返した曹操に、荀彧は満面の笑みで親指を突き立てた。荀彧文若、実はシリアスモードになれない人であった。 「お主と話していると、妙なことで悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しくなるぞ」 「お役に立てて光栄です」 「奉孝のことはわしの勘違いだったことは分かるのだ。夏侯惇は具合の悪くなったあやつを介抱していただけで、他意はないのだろう。……やはりもう一度、夏侯惇に会ってくる」 「決意なされたのは結構ですが、まだご自分の気持ちに整理が付いてないのでしたら、少し間を置かれるのも策ですよ?」 今にも飛び出しそうな曹操を引き止めて、換言する。このまま行かせたら恐らくあっさりとお互いの誤解は解けて、元通り、仲の良い主従であり従兄弟に戻ってしまう。それでは荀彧のじれったさは一向に解消されないし、主君の幸せも叶わない。 「整理も何も、会ってみないことには分からん」 素晴らしい行動力には感心するが、今回に限り困りものである。しかし有能なる文官筆頭、荀彧文若は慌てなかった。 「では、一つお尋ねしたいのですが、主公は同性を好きになったことはございますか?」 「随分と唐突だな。……それはもちろん、恋慕という意味だろうな」 「ええ、お決まりのボケがなくて何よりです」 「どうも文若はこの間からわしと夏侯惇の仲を恋情と結び付けたいらしいの。そりゃあ確かにわしより奉孝を優先させた夏侯惇に寂しくなったのは事実であるし、後を付けたのも気になったからだ。当然だろう。せっかくわしが出迎えようとしたのに引き返したのだ。事実関係を調べたくなるのが道理だ」 頭が切れる人間は、他人にも自分にも嘘をつくのが上手いものだ。もっともらしい事を口にした曹操は、うん、そうだ、何もおかしいことはない、と自分の言葉に納得させられている。 荀彧は微かな笑みを口許に刷いて、いいえ、と首を横へ振った。遠くから賑やかな足音が近付いてくる。タイミングは頃合だろう。 夏侯惇殿の主公への忠義心と親愛、私の想像通りで感謝いたします。 「主公と将軍をくっつけたいのではありません」 「……? 違うのか」 「確認しているのです。もしも主公の将軍への想いがただの臣下への、従弟への愛情であるなら、私が割り込んでもよろしいですか、という確認です」 「……文若、何を申しておるのだ」 「本当に主公は不思議な方です。普段はあれほどに聡明でいらっしゃるのに、どうして身近な人間の機微には気付いてくださらないのか」 文卓を回り込んで、椅子に腰掛けている曹操の脇に立つ。座ったまま振り仰ぐ曹操へ、にっこりと笑みを落とした。荀彧は自分が美貌であるという自覚は持っている。見た目が重視される世の中に、この持って生まれた『才能』を活かさない手はないと思っている。だから、己がどんな表情を作れば人の気持ちを動かせるかも研究してきた。それは長年傍に居る主君であろうとも、対象だ。 「ぶ、んじゃく?」 変に上ずった声になった曹操は、まるで美女に見入られ国を傾けさせてしまう愚かなる王の様に、荀彧から目を離せなくなったらしい。息がかかるほど顔を寄せてもぴくりとも動かない。 「試してみたいのです。貴方に対する敬愛が、それ以上のものであるかどうか。分からないときは行動する、それは貴方が実践していらっしゃることでしょう?」 囁くように、甘い声で曹操に語る。 「目を、瞑っていただけますか。口付けづらいです」 はっきりとこれからする行動を示しても、曹操はやはり身じろぎ一つしなかった。それどころか荀彧の言葉に操られるかのように瞼を落としてしまう。貴方という方は時々不安に駆られるほど素直でいらっしゃる、と胸のうちで苦笑して、荀彧は卓上に手を付いて唇を曹操のそれへと近付けた。 「も~とく!! すまん、さっきのは事故だ!! 謝る、この通りだ、許してくれ!!」 その時だ。許可も得ずに執務室の戸を開けて飛び込んで来たのは、恐らく曹操が怒って帰ってから、急いで着替えて追って来たのだろう。着乱れた姿の夏侯惇だった。入るなり頭を下げたものの、頭を下げる前に視界に飛び込んで来た光景にすぐに頭を上げる羽目になる。 「う……な……あ……と」 衝撃映像に言葉にならない呻き声を上げる夏侯惇に、荀彧はまだ感触の残る唇をそっと撫でてから、身を正して叱った。 「親しき仲にも礼儀あり、という言葉を将軍はご存じないようですね。ノックぐらいしてください」 「ノックとか!」 夏侯惇は反射的につっこんできたが、すぐに視線を逸らしてしまった。 「……あ、その。すまん、出直す」 「大丈夫です、もう済みましたから」 「済んだとか!」 これはつっこみというよりは夏侯惇の悲痛な叫びだったかもしれない。 「今のは、役得、ということでいただいておきます」 にこやかに毒のある笑みを浮かべて荀彧は、では、と硬直している夏侯惇の脇をすり抜けて、くるり、と振り返り、教科書に載せたいぐらいの模範的な拱手をして、退室した。出たところで、郭嘉をおぶって肉まんを食べながら走っている許褚、という珍妙な光景に出くわした。 ありがとう、仲康と礼を言いながら郭嘉が許褚の背中から下りると、許褚はその場にひっくり返って、ぜえぜえと息を切らしていた。それでも肉まんだけは食べ切っていたので、さすがである。 「よお、文若」 「やあ、郭嘉」 平然と声を交わしてから、二人は揃って回廊の端に腰掛けた。 「お前が動いてくれていたとは意外だった」 へへ、と郭嘉は笑う。 「主公が追っかけてきたのは想定外だったけど、必要なことは旦那に吹き込めたと思うよ。追い駆けながらだったから、ちょっと不安だけど」 「こっちも仕込みは済んだ」 「じゃあ後は結果待ちってことね」 「 「でも、旦那の甲斐性次第でしょう……てか、何だか文若妙な顔してる。嬉しそうな寂しそうな。やっぱり主公と旦那がくっつくの複雑?」 「実はあのヤキモキ感が癖になりそうだった」 「それだけじゃないでしょう」 「『戦況を見定めるため、守りに専念します』」 「ちょ、いきなりモブ軍師(若)の真似始めないでよ」 「『戦には、頭も必要ですよ』」 「だからやめてよ、俺誰と話しているか分からなくなる」 「『その首、もらい受けます』」 「つまり、何も訊くなってこと?」 分かりづらいなぁ、と郭嘉は肩を窄めて、 「『お見事! 策など不要ですかな?』」 と呟いた。 「今のは、かなり似ていたな、郭嘉」 「まあね」 郭嘉はうへへ、と笑ったのだった。 |
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