「荀彧文若の苦労日誌 1」
  夏侯惇×曹操


 荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)、163年生まれ、出身は潁川(えいせん)潁陰(えいいん)県。目下、曹孟徳という優れたる上司を見つけて、若い頃に言われた「あんたぁ、絶対に将来偉い人を横で支える人になるよ~」という言葉通りの人生を歩んでいた。
 荀家は元々潁川でも名のある名族である。すなわち彼はいいとこの坊ちゃんであるのだが、何せ世の中、明日の米もどうなるか分からない世情である。名族だと持て囃されようとも落ちぶれるのは簡単だ。
 おかげさまで荀彧文若は買ってもいないのに苦労が出血大サービス大安売りをしているものだからいつの間にか大量に押し付けられて背負わされる羽目になった。潁川など四方八方から攻められやすい土地にしがみ付く村人や一族の皆を、尻を叩いて冀州へ民族大移動させ、移動させたはいいが、頼りにしていた韓馥(かんぷく)は袁紹に州牧の地位を譲ってただのおっさんになっているしで、苦労は後から後から雑草のごとく生えてきた。
 しばらく袁紹の下で手腕を揮ってみたものの、どうもこの名族の坊ちゃん(自分のことは置いておく)は天下を掴める器ではなさそうだ、これでも私は王佐の才を持つと呼ばれる男だ、こんな男に従うべきではない、と冷静に判断。
 また移動するのかよ~、とぶぅ垂れる親類一同、村人衆を冷たく睨み、ええ、ええ。では私一人で行きますので、皆さんはここで名族の庇護下でのんびりまったり過ごすといいでしょう。私は行きます、さようなら、と未練もへったくれもなく袁紹の下を去っていった。
 そして向かった先は、兗州東郡に居た、曹操の下だった。どうして彼を選んだかって、荀彧は将来良く聞かれることになるのだが、簡単だ。東郡が冀州に近かったから。バイトの面接で面接官が一番相槌に困る理由で選んだことが一つ。もう一つはやや真っ当だ。皮肉なことに、一時は仕えていた袁紹が、事あるごとに『知り合いの孟徳が、孟徳が、孟徳が』と盛りの付いた猫のように叫んでいたからである、もちろん裏声で。おかげでどんな奴だ、そいつは、と興味を持ったのだ。
 ただしそれは荀彧文若の心に秘めておけば良い事で、曹操に逢ったらこう言おう、と中学校の進路指導の先生が考えたような志望動機を暗記どころか自己流にアレンジして自分らしい言葉に飾り立てて説明しよう、と準備立てていたわけだが、その必要は全くなかった。結局その出番が訪れたのは、荀彧が曹操の片腕として無くてはならない存在になったとき、後輩諸君から聞かれたときの模範解答として語るときだった。
 その時荀彧は用意された椅子に直角九十℃という重ね言葉を使いたくなるほど姿勢良く腰掛けていたわけだが、小柄な男が飛び込んで来た途端、衣擦れの音も爽やかに立ち上がり、接客セミナーの講師に呼びたいぐらいの鮮やかな拱手をしてみせた。
 長身美丈夫、涼しげな目許は夏では涼を、冬では陽だまりを呼び寄せる、と評判である荀彧文若なものだから、老若男女問わず、ほぉっとため息を吐いて見惚れる上品さが漂ったものだ。
「荀彧だ! 荀文若だ!! 間違いない……!」
 案の定、飛び込んで来た男も興奮に我を忘れたらしく、今思い返しても恥ずかしくなるほどの美辞麗句を浴びせ掛けて来て、金輪際、荀彧が自分の容姿で誰にどんな褒め言葉を掛けられても眉筋一つ動かさなくなった原因になってしまったぐらいだ。
 しかし良く回る舌だ、と早口で捲くし立てる言葉を一言一句拾い上げつつも、荀彧は目まぐるしく動く唇を眺めていた。自分も弁が立つほう、という自覚はあるものの、この人とは種類が違うし、第一、そんな自分が口を挟む暇がない。
 ようやく名乗ることが出来たのは、彼が息を切らして口を噤んだ僅かな隙を縫ってのときだった。
「申し遅れました、潁川郡潁陰県の姓は荀、名は彧、(あざな)は文若と申します。曹将軍、でよろしいでしょうか」
「あ、ああ、そうです! 私が曹操です。曹孟徳です、よろしくお願いいたします、荀先生!」
 ようやく名乗りもせずに話しかけていた非礼に気付いたらしく、丁寧な口調で接してきた曹操に、荀彧は珍しくもクスクスと忍び笑った。笑われたのが恥ずかしかったのか、曹操は頬を染めてしまうが、童のように珍しい宝物でも眺めるかのように見上げてくる眼差しに荀彧は改めて、今度は臣下の礼を取った。
「曹孟徳殿、私をどうか貴方の臣にしていただきたい。貴方が目指すものを教えていただきたい。貴方のために道を拓きたいのです」
 よくよく内容も確かめずに雇用契約を結ぶなど、慎重な荀彧文若らしくないかもしれないが、彼はインスピレーションというものを大事にする男であった。事実、荀彧の言葉に目玉がこぼれ落ちそうなほど驚きを露わにした曹操は、次の瞬間に破顔して、そして泣き出してしまって、濡れた頬を洗い立てのハンカチで拭うのが、荀彧の初仕事になってしまった。仕方が無いなぁ、この人は、と思ったときにはすでに自分の感覚に間違いはなかったと断定していたし、
「文若は、わしの張子房だ……っ」
 泣きながら言われた日には、この可愛いらしい生き物が生まれた時代に良くぞ我が身を同じくさせてくれた、神よ(荀彧は無神論者である)、と思わず呟いたとか、呟かないとか。
 とにかくこの瞬間から荀彧は曹操の臣下になり、曹操と共にさらに苦労を背負い込む人生を歩むことになるのだが、彼はいたって幸せだったので、もしかしたら彼はマゾヒスト……いやいや相当なポジティブシンキングであったに違いない。
 そして何よりも「この人には一等幸せになって貰いたい」と強く強く願ったという。
 だからこそ、この状態にもどかしさを覚えずにはいられなかった。
 そこら辺を死にかけた面容でほっつき歩いていた野良犬……もとい郭嘉奉孝は、荀彧が拾い上げたから、というのもあるかもしれないが、荀彧の良き理解者である。ゆえに、まあまあ、といつものヘラヘラした笑いで荀彧を宥めてくれるが、それで荀彧のもどかしさが失せる訳ではなかった。
「懸念であった多雨の時節に間に合ったか。さすがは夏侯惇だ」
 本人より早く送られてきた報告書に目を通した曹操は、口許を緩めて誇らしげに七歳下の従弟を褒め称える。曹操の従弟の一人である夏侯惇は現在、北方の地域での治水工事の現場監督をしていた。
 夏侯惇の職業欄は実に多彩で、まずは大きく前科付き、と書かれるのは置いておくとして、将軍から始まり軍事統括、屯田開拓主任、治水工事監督兼労働者、食料対策実行委員、兼業農家、留守番、誰が書いたか人質、という職種まである(恐らく書き加えたのは韓浩(かんこう)辺りかと思われる)。
 次回採用面接日の打ち合わせを兼ねて執務室に訪れていた荀彧は、曹操の言葉に相槌を打った。
「夏侯将軍のおっしゃるように、早めに取り掛かり正解でした」
「ねえ~。あの人地面と話でも出来るんじゃないかって感じだよね。『孟徳、少しここの地域の地盤が気になるのだが』とか巡察の帰りに言い出したときには、どうしたの、この人、とか思ったけど」
 こちらは休憩に入るおやつタイムをちゃっかり見越して訪ねてきた郭嘉だ。椅子の上で膝を抱えて丸くなりながら、全く似ていない夏侯惇の口真似をしてみせた。春麗らかな日和の中で、郭嘉が居る場所は特に暖かそうだ。もちろん、それに比例して本人も実に眠そうに柔らかい日差しを浴びていた。
 しかしそれも侍女がおやつを運んでくるまでで、本日のメニューは多彩な色を盛り込んで作られた、食べるのがもったいないほどの綺麗な飴菓子である。明るい日の下でキラキラと輝く菓子たちを見て、郭嘉の眼も同じぐらいに輝き出す。
 ねえ、食べて良い? 食べても良いよね、お主公? とばかりに菓子と曹操の顔を交互に見やる郭嘉は童そのもので、お預けを食らっている犬のように辛うじて椅子の上で留まっているだけで、主人の許可が下りればすぐにでも貪りたい、という食欲に満ち満ちている。
 そんな郭嘉を愛しいものでも眺める眼差しで見た曹操は、いいぞ、奉孝、と言う。すぐさま郭嘉は椅子からひょろ長い腕を伸ばして皿の上に盛り付けられた菓子を摘んで、口に放り込んだ。
「――~~~んんーー」
 椅子をがたがた鳴らしながら、頬を両手で挟んで幸せそうに唸る。どうやらお気に召したらしい。
「行儀が悪い、郭嘉」
 注意するが、当たり前のように聞いちゃいない。主公、主公、これ、これ美味しいよ、すごく美味しい、とニコニコしながら曹操に勧めてくる。てか、それはそもそも主公のための菓子だからな、郭嘉、と重ねた荀彧の言葉も再びスルーした上に、
「はい、あ~ん」
 郭嘉が菓子を摘んで曹操の口許に運ぼうとするものだから、荀彧は軽い眩暈を覚えた。しかも曹操も曹操で嬉しそうに口を開けて郭嘉の指から菓子をもらってしまうではないか。そして面白いぐらいにそっくりな動作で曹操もじたばたしながら唸り、満面の笑顔を浮かべる。
「美味いぞ、文若。お主も食べていけ」
 荀彧としては大きなため息しか出ないところだが、慎み深く、あとで頂戴いたします、と答えた。
 曹操と郭嘉は下手な親子ほども歳が離れているくせに、行動や考え方に至るまで、実に良く似ている。曹操に会うまで、荀彧が郭嘉を呼び出して曹操に引き合わせるまで、誰にも懐かなかった野良犬であったのに、俺、お主公に仕える、紹介してくれてありがとう、文若、と眼を細めて笑顔を向けられたときには、うっかり感動してしまったものだ。
 もっとも、三つ子の魂百まで、という言葉を体現している男で、曹操に仕えるようになってもフラフラと放浪するところや、限られた人以外に懐かないのは変わらなかった。
「それで、いつ旦那は戻ってくるの?」
 郭嘉は夏侯惇のことを旦那、と呼んでいて、すっかり指と口の周りをベタベタにしながら訊いてきた。
「あと十日ほどで帰れるだろう、と書いてあった」
「そー、あと十日かぁ。寂しいねー、主公」
 郭嘉のおかげですっかりおやつタイムに強制移行したものだから、荀彧も椅子を持ち出して飴菓子を相伴することになった。どちらかというと辛党の荀彧は、口直しに傍に置いてある昆布ばかり口にしていたが、郭嘉の言葉にちらり、と曹操の顔を見やった。
 曹操は一瞬不思議そうな顔をしたあとに、クスクスと笑った。
「それはお主だろう、奉孝?」
 郭嘉が懐いている貴重な存在の一人は確かに夏侯惇その人であったが、違うよー、と郭嘉も笑った。
「俺も寂しいけど、主公も寂しいよねってことを訊いたんじゃん」
「何だ、本当にわしのことだったのか。……寂しくないわけないが、子供ではあるまいし、感傷に浸るほどではないぞ?」
「あー、そうだよね。そう答える気がした」
 うん、と言いながら、郭嘉はまた菓子を頬張った。
「含んだ言い方をするの、どういうことだ?」
「……もぐ、て……むぐう、ぐもも、むう?」
「口に入れたまましゃべるな」
 荀彧は郭嘉の後ろ頭を(はた)き、代弁した。
「『だってお主公、旦那のことすっげえ好きじゃん?』と申し上げたいようです」
「……文若、物真似得意だったのだな」
 いささか感心したらしい曹操へ、にこり、ともしないで荀彧はいえ、大したことはありません、と謙遜しつつも、今度は自分の言葉で続けた。
「好いている相手が傍に居ないことは寂しいと、私も思いますが。主公は違うのでしょうか」
「それは、夏侯惇は大切な従弟であるから、好きではあるが……文若の口振りだとまるで男女の恋仲のような言い方だの」
「その通りだと受け止めていただきたいのですが」
 常々、荀彧の主は表情の変化に富んでいる男で、気まぐれ、というわけではなく、自分の感情にとても素直な、政治や軍事を離れると実に愛らしい人であるのだが、大変なる笑い上戸でもあり、この時もまさに遺憾なく発揮されたのだった。
「あは、あはははっ? わ、わしと夏侯惇が、恋、恋仲っ? あっはっはっは……ちょ、文若、面白い、面白過ぎるぞ」
 腹を抱えて笑うというよりは、椅子から転げ落ちて床の上でのた打ち回っている。お主、その面でそういうこと言うと効果覿面(こうかてきめん)だな、最高じゃ、と息も絶え絶えで荀彧の口にした言葉に笑い転げている。
 一方、いたって真面目に告げたはずの荀彧はここまで大笑いされるとは予想外で、憮然としたまま、また昆布を含んだ。飴でベトベトになった手で郭嘉が、お疲れ様、と肩を叩いて慰めてくれるが、もちろん逆効果だ。
「……はあ、はあ……あ~、まったく。文若はわしを笑い死にさせる気だったのだな。怖いのぉ」
 ようやく笑いの発作が治まった曹操は、椅子に縋りながら立ち上がり、目尻に溜まった涙を拭った。涙が出るほど可笑しいか、と思いながらも荀彧はすっかり塩辛くなってしまった口の中に顔をしかめて、飴菓子を一つ口にした。
 甘い、とやはり顔をしかめたのだが、椅子に座り直した曹操を見つめた。
「違うのですか?」
「違う、違う。何を根拠にそう言うのだ。というか、わしと夏侯惇が? ぶふっ……待て、しばらくこの話題はするな、本気で笑い死にしそうだ」
 そう言われてしまえば追求できるはずもなく、荀彧は渋々諦めたのだった。


 曹操への用件を全て済ませて退室した荀彧を郭嘉は追い駆けた。後ろも振り向かずに、荀彧は鋭い語気で言い放つ。
「じれったい!」
「うんうん、分かる、それは俺にもよぉ~く分かるよ。でもさ、本人たちに自覚がないんじゃ、仕方ないんじゃない?」
「だから! 私たちがこうして自覚を促そうとしているというのに、あれだ!」
 むっつりとした顔で回廊を大股で歩く荀彧の後を、郭嘉がせかせかと追う。長身の荀彧の歩幅に合わせるのは大変なのだ。しかもお世辞にも体力があるとは言えない郭嘉は、すぐに息を切らして回廊の隅に蹲る。
「文若~、ちょっと待ったぁ」
 情けない声を背中に浴びせると、荀彧がくるり、と振り返る。だから普段から肉、野菜、牛乳を飲め、と言っているではないか。虚弱体質も大概にしないとうかうかと戦場にも出せない。どうしてくれるんだ、郭嘉。蹲る頭上から容赦のない言葉が降り注がれるが、郭嘉の息が整うまで傍で待っている。ふらふらしながら立ち上がれば、腕を掴んで支えるようにゆっくりと歩き出す。
 へへ、と笑うと、何が可笑しい、と冷たい眼差しで睨まれるが、郭嘉はまたうへへ、と笑ってしまった。
「なあ、文若」
 相槌も打たれないが、聞こえていないはずはないので、構わず続けた。
「もうやめたら? こういうのって、自然となるようにしかならないと思うんだ。あんまり外野がぎゃいぎゃい喚いても仕方ないよ?」
「分かっている」
 寸刻空けずに返ってきたところを見れば、荀彧も随分前からそう思っていたということだろう。険しかった顔に諦めの色が過ぎったが、すぐに切なそうな表情が浮かぶ。その変化を余すことなく見つめたまま、郭嘉は言う。
「でも、文若の気持ちも分かる」
「……」
「俺、主公の気持ちは手に取るように分かるよ。だから、文若の言う通り、主公は旦那のことが大好きで大好きで、でもあんまりにも二人は長く傍にいたから、LIKE(好き)とLOVE(愛)の境界線が曖昧なんだよ。本人にも分かってないもん、あれ。旦那も、きっと同じだと思う。尊敬する従兄で、仕える主君で、男としても人間としても慕ってるけど、それ以外の気持ちが混じっているだなんて、これっぽっちも思ってないみたい」
 困ったもんだよね、傍から見ればあれほど好き好きオーラ出して分かりやすいのに。肩を竦める郭嘉に、荀彧は立ち止まり、回廊の欄干を手持ち無沙汰の人のように撫でて、言った。
「私は、主公に幸せになってもらいたいだけだ」
「今も、主公は不幸せだ、と思ってないよ?」
 だって、俺やあんたみたいに主君想いの臣下に囲まれていて、大好きな従弟が自分のために頑張ってくれているし、何より本人が、やりたいことがたくさん有り過ぎて毎日が忙しくて楽しいって思ってる。
「……だとしても、だ」
 まるで駄々を捏ねる童のように、美麗な顔を歪ませて荀彧は言い放つ。まるで泣きそうな横顔を見せる七つ年上の同僚に、郭嘉は小さく笑う。
 ほんと、文若は主公が大好きなんだから。
 普段は曹操の片腕として申し分のない働きを見せ、端麗な顔に浮かべる人当たりの良い笑顔は彼の持ち味である。それは裏を返せば誰彼とも平等である、ということだ。彼が本当に心を許している人間は少なく、そのくせそんな相手には気が置けないものだから平気で冷たい態度を取ってみたりもする。器用に三つも四つも仕事をこなせるけれど、どうしても大事なことは意外と不器用で、途方に暮れている姿はあまりにも頼りない。
 仕方ないな、この奉孝さんが手を貸すよ。だって、俺も主公が大好きだもん。
 ぽんぽん、と欄干に置かれた手を叩いて、郭嘉は笑う。すると荀彧は冷めた眼で見下ろして、いい加減、手を洗え、郭嘉、と言った。
 なにせ彼の手は、まだ飴菓子を食べたときのベタベタした手のままだったのだから。
「いい場面、台無し」
 と郭嘉は肩を竦めた。


 郭嘉が門の脇でぴょんぴょん跳ねながら手を振ると、最小限の供を連れて戻ってきた夏侯惇はすぐに気付いたらしく、隻眼の目を軽く見開きながら馬を下りた。がっしりとした体躯とは裏腹に、馬から下りる動作は軽快で、すたん、という音が軽く聞こえただけだった。
「どうした、郭嘉。お前、こんな真昼間に日の当たるところに居たら倒れるぞ」
 これが荀彧ならば皮肉万歳、といったところだが、夏侯惇が口にすると本気で心配しているように聞こえるのだから、普段の行いというのは大事だ。事実、本人に含みはなく、珍しく直射日光の下に立っている郭嘉の体を案じたのだろう。
「大丈夫だよ、ちゃんと日陰で待ってたから」
「待ってた……て俺をか?」
「そうだよ。旦那も罪作りだよね~。俺が女の子以外で待ち合わせをしたのなんて、もしかして生まれて初めてかも」
「そうか、それは貴重な体験をしたな。で、そんなお前が俺に何の用だ? まさか孟徳に何かあったのか?」
「んー、当たりと言えば当たりだし、外れと言えば外れ。というか、すぐさまそんな発想になる時点で、いい加減気付いてもらいたいよ。目玉を食べちゃったときにデリケートな部分も飲み下しちゃったんじゃないの?」
「か~く~か~? お前は数ヶ月ぶりに帰って来た俺を怒らせたいがためにわざわざ顔を見せたのか?」
「そんな顔近付けないでよ。俺、主公と違ってあんたに近付かれたって嬉しくも何ともないんだから」
「どうしてお前との比較対象が孟徳なのだ。俺だって男と顔を寄せたところで楽しくもない」
「ならやめて」
「そうだな」
「素直だよね~。俺、そういう旦那のところ、大好き」
「きも! どうした、郭嘉。昼間に活動している上にそういうことを口にするなんぞ。お前のキャラは気まぐれ上等の猫系じゃないのか?」
「真剣に心配してくれているのが旦那らしいんだけど、俺、犬派、犬系。猫嫌い」
「そうだったのか、すまん、勘違いしていた」
「謝られるほどでもないけど。良く勘違いされるよ。お前、絶対に猫好きだし、猫っぽいよねって」
「俺もそう思ってた。気に入った奴にしか懐かないし、気まぐれだし、時々ふらっとどこかへ消えるし、日向ぼっこ好きだし」
「犬だって気に入った奴にしか懐かないよ? 人間に対して順位つけるし、自分より格下と見なせば見向きもしない。俺は気まぐれじゃなくて、君子は豹変すを地で行っているの。柔軟な発想がなくっちゃ軍師やってられないでしょ? どこかへ消えるのは俺が虚弱体質だから保健室だし、日向ぼっこは光合成中」
「最後のは嘘だな」
「保健室は認めるのっ?」
「そうか、顔色が悪いから日に当たったほうが良いが、直射日光だと体に悪いから、暖かいところを選んでいる、ということか」
「そういうところ、察しがいいのに、どうしてお主公のこと気付かないのかな」
「孟徳がどうかしたか」
「主公のことになると地獄耳だし。もしかして離れてても主公が何をやっているのか分かったりして」
「そんなことはない。俺が知っているのは孟徳の十日前のおやつが飴菓子で、お前は孟徳に『あ~ん』をしやがった、ということぐらいだ」
「……元譲さん、マジ怖いです」
「返信は不要だといったのに、孟徳は律儀にも報告書の返事を寄越し、そこに書いてあっただけだ」
「ああびっくりした」
「それで孟徳がどうかしたか。そもそもお前の用というのも、孟徳のことのようだったな」
「目の色変わりましたね、元譲さん……ところで、さっきから気になっていたんだけど、旦那ちょっと臭い」
「仕方ないだろう、帰りの道すがら、頼まれて肥やしを運んだんだ」
「天下の大将軍の帰宅途中、そんなことを頼んでくる民の皆さんの度胸を褒めるべきか、旦那の親しみやすさを褒めるべきなのか、俺、ちょー悩む」
「いや、元嗣(げんし)(韓浩)の実家がある村でな」
「ああ、そういうこと」
 その昔、夏侯惇が捕虜として捕まってしまったことがあり、その時に韓浩に迷惑をかけたせいで、それ以来夏侯惇は謝罪の意味も込めて事あるごとに助力を申し出ているらしい。
「律儀だよね。それにしてもまさか旦那、そんな状態でお主公に会おうとしてたんじゃないよね? いっくら主公の心が海よりも広いからって、ちょっとあれだよ?」
「あれってなんだ」
「ドン引き」
「そうだろうか。孟徳なら許してくれそうだが」
「あのね、親しき仲にも礼儀ありっていうでしょう。はい、回れ右、今すぐ風呂に入って仕切り直し。俺がOK出すまでここは通らせません」
「何だ、それは。それよりも孟徳のことは」
「いいから、俺も臭い人とは話したくないから、よろしく~」
 ひらひらっと手を振る郭嘉に、釈然としないままそれでも素直に踵を返した夏侯惇を褒めればいいのか、押しに弱い、と嘆けばいいのか。郭嘉はしばらくちょー悩むことになる。




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