「手当て」 夏侯惇×曹操 |
幼い頃から知っている相手だ。童子らしからぬ、癇癪も粗野さもあまりない。大人しい童だった。だからか、故郷を離れて都で職務に励んでいた折に、人殺しの罪を犯した、という話が飛び込んできて、ひどく驚いたものだ。 「あの夏侯惇が?」 曹操は、伝えてきた故郷の顔馴染みである従者に聞き返した。 剣の腕は確かで、それでいてそれを鼻にかけることもなくにこにこと笑っている、そんな小さい頃の従兄弟の顔しか、曹操は思い浮かべることができない。どういった経緯で夏侯惇が人を殺したのか聞いても、やはりにわかに信じることは難しかった。 「あの、夏侯惇が……」 再度同じことを呟いて、頬杖を付いた。 正直、都での職務が忙しく、故郷のことなどほとんど思い出す暇はなかった。幼い頃は散々遊んだ従兄弟たちの顔も、夢に見ることさえなかったが、急に夏侯惇に会いたくなった。 どうしてそんなことをしたのだ、ととっちめてやりたくもなったが、繁忙である今の職務を放り出して故郷へ帰ることなどできない。従者が言うには、ほとぼりが冷めるまで、と夏侯惇をどこかへ隠しているらしい。それならなおのこと、会うことは難しいだろう。 曹操が最後に見た夏侯惇の顔は、やはり小さく唇を綻ばせていた。 あれから月日は流れた。人は変わるものだ。童のころに大人しかった分、遅れた反抗期でもやってきたのだろうか。 機会があれば、ぜひとも故郷へ戻り、変わり果ててしまった従兄弟に再会したいものだ。 それは楽しみでもあり、そして――怖くもあったが、曹操は頬を緩ませた。 びくり、と四肢が跳ねた。意識が浮上する直前に覚えたのは恐怖だった。目覚めてしまえば、またあの耐え難い痛みが頭を襲うのではないか、という恐怖があった。 「丞相」 しかし、低く穏やかな声が耳に届いた瞬間に、不思議と霧散した。 目を開いた。すぐに、こちらを覗き込む隻眼の男の顔を見つけた。ああ、と嘆息まじりに声がこぼれた。 「水を、丞相?」 訊かれて頷いた。腕が背中に差し込まれて、静かに上体を持ち上げられる。口に器が宛がわれて、少しぬるい水が流れ込んできた。咽を上下させて飲み込むと、また息を吐いた。 再び上体が寝かされて、頭の後ろに枕が当たった。 「変わらなかったな、お前は」 「……? 丞相」 ぽつり、と勝手に口から漏れていた言葉の意味を、自分で理解する前に、隻眼の男が訝しんだ。その反応を見て、現実と夢の境があやふやのままであったことを理解した。 「いや、こちらの話だ」 昔の記憶を夢として反芻していたらしい。 「華侘を、呼びましょうか」 尋ねる男へ、いや、大丈夫だ、と答えた。気を失うほどの痛みに襲われた頭痛は、今は我慢できるほどに治まっている。それに恐らく、この程度ではまだ華侘は鍼を打ってはくれないだろう。曹操が本当に我慢できず、のた打ち回るほどにならないと、華侘は治療しない。 「夏侯惇」 隻眼となって長い従兄弟の名を呼んだ。はい、と答える夏侯惇の口元は、曹操の身を案じてか、憂いが漂っている。 まだ十五のときに人を殺し、そのあとは曹操と共に長い転戦と激戦を潜り抜け、いまや軍事面では欠かせない片腕となり、将軍、と呼ばれて兵たちに慕われている。荒々しい道を歩んできているはずの男の顔は、やはり幼い頃に別れたときのまま、穏やかだ。 「変わらぬな、お前は」 先ほどと同じことを口にする。今度は意識を持って、明確に言った。しかし、男の反応は同じで、はあ、と困ったような不思議そうな顔をする。 曹操に見つめられて、ますます困ったように眉根を寄せてしまう。なぜかそれが叱られる童子のような顔付きで、曹操は忍び笑いを漏らす。幼い頃など大人たちに叱られるのはもっぱら曹操のほうで、夏侯惇は大人受けが良く、褒められることのほうが多かった。 なぜ曹操が笑うのか分からなかったのか、丞相、と口を開きかけた夏侯惇へ言う。 「大丈夫か?」 「……は、ええ。丞相が倒れられて少々動揺したようですが、荀ケたちが恙無く」 唐突な質問にも咄嗟に答えが返る。 戦の最中では襲ってくることのない頭痛は、民政を整えているときに決まって曹操に牙を剥く。年々その痛みは強くなっているようで、いつかこの頭痛に自分は殺されるのだろうか、などと弱気になることもある。 今日も、文官たちと法改正についての草案をまとめていたところで、痛みに耐え切れずに倒れた。傍に置いていた夏侯惇と、いつも護衛として立っている許チョが慌てて駆け寄ってきたのが、最後の記憶だ。 「頭を揉ませましょうか」 頭痛がひどいときは、妾を呼んで揉ませている。薬湯を飲んだり、医者に診させるのはそれでも治まらなかったときだ。 「いや、起きる」 「あまりご無理は」 「まだ、途中だ」 それ以上、夏侯惇は何も言わなかった。曹操が気に入って傍に置くのは、男も女も、こうして余計なことを言わない人間だった。自由に、思うままに曹操は国を動かしたい。邪魔をするわけではないが、口煩く関わってこようとする人間は疎ましかった。 寝台から降りようとする曹操へ、脱がせていた沓を履かせようとする夏侯惇を制す。夏侯惇が世話ではなく親切で行おうとしていることは理解していたが、侍女のような真似事をするな、と言いたかった。 「肩だけ、貸せ」 沓を履き終えて、腕を伸ばす。従兄弟は何か言いたそうだ。男がこういう顔をするのは珍しい。言いたいことがあれば口にしてくるし、今はもう言うべきではない、と決めたのなら顔になど出さない。よほど、曹操の具合が悪そうに見えるのだろう。 伸ばした腕に手が差し出される。生憎と曹操の背では夏侯惇の肩に手を回して体を預けるには足らない。夏侯惇が曹操の背に腕を回して、支えてきた。 ずきり、と何とか我慢できていた頭痛が舞い戻り、曹操の頭に牙を突きたてた。 声は漏れなかったが、びくり、と体が硬直する。それが密着して支えている夏侯惇に伝わらないはずがない。丞相、と気遣う声が上がる。大事無い、と返そうとした声は、咽の奥で詰まる。脇にある夏侯惇の腕に縋った。 ずきん、と再び激痛が襲う。膝から力が抜けそうだ。夏侯惇の支えがなければ、すでにくず折れていた。それが腕にかかる重みで男にも伝わるのだろう。 「丞相、もう少しだけお休みになられませんか」 駄目だ、という声も出ない。辛うじてこぼれたのは、痛みに上がる呻きだけだ。 再び寝台に腰を下ろされ、沓を夏侯惇の手で脱がされる。そのようなこと、お前にさせるつもりは、と思うのだが、やはり体は言うことを利かない。それどころか、夏侯惇の手が素足となった足に触れ、寝台へ運びなおす間にも、頭痛は酷くなる一方だ。 一度治まった頭痛が、これほど短時間でぶり返してくることなど今までになく、これはいよいよの変調であろうか、と心に陰がさす。 恐怖と痛みで背が丸まり、荒い息を吐きながら寝台の上で蹲る。掻き毟るように寝具を掴み、引く。 もう駄目か、と再び意識が遠のく直前、背中に大きな温かさを覚えた。それからその温かさは頭に登り、ゆっくりと頭髪と頭皮を包むように広がった。 嘘のように痛みが引いていく。脂汗の滲んでいた額や首筋を布で拭われて、頭部を包む温かさと合わさり、心地よい。 腕を伸ばして、その温かさの正体を見極めようとした。柔らかい布地の下に、硬い感触がある。妾の腕、女の腕ではない。 「夏侯惇か?」 「丞相、大丈夫でございますか?」 痛みで閉じていた目を開けると、再び、案じるような顔が覗きこんでいる。しかし今度はだいぶ近い。頭の下にある感触も、枕よりも硬い。目の端に映るのは、頭を揉んでいるらしい夏侯惇の手と、どうやらその夏侯惇の膝の上にいるらしいという状況だった。 「……男の手と膝は、硬い」 「申し訳ありません、すぐに女を」 動こうとする夏侯惇の手を掴む。 「誰も、悪い、とは言っていない。続けろ」 「はい」 一瞬ばかり夏侯惇の顔は戸惑うが、小さな笑みが唇に浮かんだ。いつもの、曹操が良く知る従兄弟の微笑だった。 そういえば、と思い出す。 大人たちに叱られて拗ねた曹操を迎えに来るのは、いつも夏侯惇の役目だった。 にこり、といつもと同じ微笑みを浮かべて手を伸ばされると、曹操は拗ねていた自分などどうでも良くなって、無言でその手を掴んで歩き出した。 お前の手は、私の心も頭痛も和らげる、不思議な手をしていたのだな。 曹操は頬を緩ませて、夏侯惇の手にしばらく身を委ねたのだった。 あとがき サイト10万打御礼小説、曹操編です。 夏侯惇×曹操が多いだろう、という予想を裏切ることはなかったのですが、 なぜか、北方の紳士夏侯惇で、というご要望が多かったので、北方バージョンで。 いや、私も北方惇は好きですよ! 書いていて楽しかったです! というわけで、そんな紳士の裏事情(笑)は、下から。 18禁になりますので、年齢に満たない方はご遠慮ください。 |
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