「はっぴーばーすでー 1」 夏侯惇×曹操 |
夏侯惇は激情家であり、戦場では誰が付けたか知らないが、隻眼の悪鬼(酷い)という異名で呼ばれるほどの猛将であるが、いつしか一軍だけでなく曹操の軍全体の統率を預かるようになってからは、落ち着きのある貫禄をまとい始めていた。 あの子、若い頃は随分と無茶していたけども、ようやく落ち着いてきたわね〜、と近所のおばちゃんたちの井戸端会議のネタにされそうなほど、渋みもある。以前は長く伸ばしていた髪も、やんちゃなイメージを払拭しようとばっさりと切ってみたのかしら、と囁かれている。 軍の若い武官や兵卒たちからは兄貴、兄貴と慕われるほどの男ぶりであり、それはもう過ぎれば同性の憧れの眼差し、というよりは禁断の関係を望んでいるのか、という熱い眼差しすら送られるほどだ。もっとも、本人にいたっては髪を切ったのは短いほうが髪を洗ったときに乾きやすいし、そんな眼差しを送られていることすら全く気付いていないのだが、とにかく、少なくとも昔ほど激情のままに行動に走ることも声を荒げることもなくなった、という自覚だけはあった。 ところが、だ。 元譲、元譲、元譲〜〜。 歌うように踊るように、背後から自分の字を呼ぶ聞き慣れた声を耳にして、夏侯惇は危うく大声で怒鳴りたくなった。 「も・う・と・く」 弾むような足取りで駆けて来た従兄の腕を掴み、押し殺した声で字を呼んで、誰も使っていない傍の部屋へ引きずり込んだ。 「何を考えている、何を!」 自分よりだいぶ下にある顔を睨みつけて、引き続き低い声で訴えようとするが、荒くなる語調は抑えられない。 「お前は、病に伏して寝ているはずだろう。それが元気に駆け回っていてどうする!」 「それはそうなのじゃが、まあ気にするな。誰にも見られておらん」 「だからってな、孟徳」 反省した様子もない従兄に、夏侯惇は続く言葉を思案するが、頭の回転で従兄に敵うはずもなく、従兄の口が先に開く。 「そんなことよりも、元譲。お主、もうすぐ誕生日だろう」 「はあ?」 突然の話題と思わぬ言葉に、夏侯惇は残った目玉を大きく見開く。 「何が欲しい? わしが王でいる間に言っておけ。子桓に譲ったらあんまり何でも、というわけにはいかなくなるからな」 今年が最後のチャンスじゃぞ、と従兄は嬉しそうに笑っていた。 「……そんなことのために、部屋を抜け出して俺を探していたのか?」 「おかしいか?」 「俺が部屋に行ったときに言えば良かっただろう。何も危険を冒してまで伝えに来ることじゃない」 「しかしな、元譲。ただ寝ているだけというのはつまらんのだ」 真面目な顔で言う従兄へ、夏侯惇は吼えた。 「お前が言い出したんだろーー!」 落ち着いてきた、という自覚はある、自覚は。 しかしこの従兄に掛かると、それもどうも怪しい。 咄嗟に耳を塞いで夏侯惇の怒声から難を逃れた従兄は、すぐ元譲は怒鳴る、と眉をひそめている。 ああ、いかん、と夏侯惇は天を仰ぐ。 俺は一生、この従兄に振り回されるに違いない。そうに違いない。 半ば諦めの付いた心境ではあるのだが、夏侯惇は従兄を肩に担ぎ上げて、盛大なため息を吐いたのだった。 曹操が病に伏した、という衝撃は、曹魏(みうち)だけでなく呉や蜀にも波紋を広げていた。特に蜀の動きは慌ただしく、未だ漢中を手中にしたばかりだというのに、攻勢の気配を見せ始めていた。一方で呉は、慎重な孫権が治めるだけあり、動静を見守るつもりらしくしばらく動く気配はない。 まさに、曹操の策略どおりだった。 「こら、元譲、何をする! 人を荷物みたいに担ぎおって。無礼だぞ」 「はいはい。だってお前、すっかり軽くなったし、元々小さいし……っいて……とにかく、担ぎ易いんだ」 『……っいて』というのは、小さいという言葉に腹を立てた曹操に背中を思い切り叩かれたせいだが、小柄とはいえ暴れる一人前の男を担いで安定感を失わないのだから、夏侯惇の膂力も大したものだ。 「仕方なかろう。病のふりをしておくには寝たきりが一番じゃ。そうすれば自然と体は衰えるし、食欲があるのもおかしいだろうが」 鍛えもせずに、食事も細ければ確かに痩せもする。その上、以前ほどではないが執務もある程度はこなしている。体重の軽くなる要因はあれども、重くなる要因などどこにもない。 「……いつまで続けるつもりだ」 「道が開けるまでだ」 誰にも見つかることなく曹操を寝所へ連れ戻した夏侯惇は、牀台(しょうだい)に曹操を下ろして尋ねていた。 「それでその後は」 「……」 沈黙する曹操を見下ろして、夏侯惇は眉間に皺を寄せた。いつもこれだ。この策略を曹操は夏侯惇と親衛隊長の許?だけに話して、事を進め始めた。なぜ病のふりをするのか、そのことに寄ってどういう効果があるのか。珍しくも細かいことまで説明してくれた。 夏侯惇があまり突っ込まずに曹操の言葉に従うせいかもしれないが、曹操が夏侯惇に対して詳細を説くことはなかった。もちろん、必要とあれば話してくれたし、夏侯惇以外の人間へはその場に応じて詳しい話をしたりもしたが、夏侯惇と比べてしまうと煩いぐらい、と言えた。 夏侯淵がいつだったか、惇兄と殿はつーかー過ぎる、と笑っていた。 だから夏侯惇自身も珍しい、と思いつつも曹操の話を聞いていたが、二点だけ、どうしても納得できないところがあった。これもまた珍しいことだった。多少、解せないことがあろうとも、曹操なりの考えあってのこと、と大抵は自分の意見を抑えて従ってきた。 我を殺している、と人は言うかもしれないが、何せ曹操の考えることは大体がぶっ飛んでいる。いちいち常識と照らし合わせていると、こちらが疲れるのだ。それに、常識外れかと思った策略も、終わってみると上手く収まっていたりする。 というわけで、夏侯惇は無駄なことに脳みそを浪費するぐらいなら、曹操の命じた内容をいかに的確にこなせるか、ということに神経を注ぐことにしていた。 しかし今回にいたっては黙っていられなかった。 「子桓のことにしたってそうだ。どうしてそんな回りくどいことをする。そのまま、お前が心配だから、と言ってやればいい。第一、太子に選んだのだから、そこまで責任持て」 今回の策の重要ポイントは三国鼎立の均衡を崩すことと、それに伴う次代への道の開拓と曹丕への権力の譲渡であった。均衡を崩すことに関して、異論はない。事実、蜀は誘われるように戦支度に追われているようだ。 攻め込ませて叩けば、目の上のたんこぶが取れるようなもの。 ただ問題は曹丕だ。 長子である曹丕に太子という名目を付け、曹操の正式な後継者として選んだ。そこまではいい。いつまでも身内で跡目争いをしていられるほど悠長な世ではない。夏侯惇から見ても、曹丕は曹操の跡を継ぐに相応しかった。 なのに曹操は、跡を継いだ曹丕が迷うかもしれない、と悩んでいるようなのだ。 平気で人の顔色を変えさせる新法や軍令を発する上に、思い付くままに駆け出して、後を追いかける人間のことなど振り返りもしないし、人より遥かに高みにいるのか、と眺めていれば、急に同じ目線に降りてきて笑ったり泣いたりする。 その度に周りの人間たちは右往左往して振り回されつつも、曹操の望む先を共に見たいと奮起してしまう。それほどに曹操の存在は周りに影響を与えているにも関わらず、曹操自身は被害の大きさにはまったく無頓着らしいのだが、どうも息子のこととなると違うらしい。 「だが、あやつはその、ちょっとへそ曲がりなところがあるしの。わしが心配してあれこれ口を出しても煩そうに眉間の皺が深くなるだけだし、そのくせ、わしが嫌いなのか、と距離を置こうとすれば、向こうから近寄ってきて政務に口を出してきたり、わしのやり方を学び取ろうとしてくるし。なんというか、こう、あれだ。猫っぽいというか、一匹でも生きていけないことはないが、飼い主が居なくなると寂しくなって早死にしそうな、野良になり切れない猫というか……分かるか?」 「……何となく」 「わしを意識するあまり、わしが道を開いて渡した後、道に迷って帰れなくなる気がしたのじゃ」 息子を動物扱いしまくりだが、曹操なりの親心の表れらしい。 「だからって、べらぼうに甘えさせようとすると、ぷいっと逃げるしな」 「そう! そうなのだ! わしの息子ながら分かりにくいと思わないか?」 「……まあ」 歯切れ悪く夏侯惇は答える。 実にお前の子供らしいが……とも思うのだが、話がややこしくなりそうなので、口を噤んでおいた。 曹操と曹丕を昔から知っている夏侯惇からすれば、良く似たところのある親子だと思うのだが、なぜかこの話をすると、誰もが驚く。 『どこが?』 と真顔で聞き返されるのが常だったからだ。 似ていると思うが。他人を気にしないように見えて、実はすごく気にしていたり、一番好きな奴には容赦ないところとか、他人の迷惑を顧みずに我が道を行こうとするところとか。 挙げれば切りがないので置いておくが、夏侯惇は甥っ子のことは大事に想っていた。だからこそ、曹丕が迷ったときには謀反を起こさせて、曹丕の不屈さや上に立つ者としての自覚、何よりも曹操が居なくとも曹丕を慕う者はおり、主君として立場を確立させている、という意識を持たせる、という方法が解せなかったのだ。 しかも、曹操が謀反の首謀者として白羽の矢を立てたのは、珍しくも曹丕が気に入って傍に置いている司馬懿だという。 もっとも信頼している男に裏切られる曹丕の心境を慮れば、夏侯惇は賛同したくはなかった。だが、曹操の考えによれば、司馬懿が適任だという。曹操の策略の成否を疑うわけではないが、過程によって起こる曹丕への負担を思えば、やはり反論の一つもしたくなるのだった。 「あやつがもっと素直だったら、わしだってこんな遠回りなやり方せんわ」 「お前がそう育てたんだろうが」 「……そりゃそうかもしれんが」 途端に、思春期の子供を持つ親の顔で悩み始める曹操に、夏侯惇は「分かった分かった」と肩を竦める。曹丕には悪いが、夏侯惇の優先順位は不動なのだ。曹操がこうしたい、と言ったことに本気で逆らうつもりはなかった。 そしてもう一つ。 曹丕に全てを譲ったあと、曹操はどうするのか。そのことについては、いくら夏侯惇が訊いても沈黙を守り続けていた。 「で、元譲。何か思いついたか」 「何かってなんだ」 「もう忘れたのか。お主の誕生日だから、欲しいものはないか、と言っただろう」 「祝ってもらうような歳でもないんだが」 「わしが祝いたいのだ!」 力いっぱい言われれば嬉しくないはずはない。 「しかしすぐに思い付くものでもないしな。少し時間をくれ」 「なるべく早くしろ。さっきも言ったとおり、わしには時間がないのじゃぞ」 「了解した」 夏侯惇は手を振って、曹操の寝所から退室した。戸のところでは許チョが立ち番をしていたが、丁度交代の時間だったようだ。後は頼んだぞぉ、という部下への言葉を残して立ち去ろうとしたので、夏侯惇は呼び止めた。 「許チョ」 「夏侯惇、曹操さまとはもう良かったのか?」 尋ねる許チョへ、ああ、と頷いた。 「孟徳もお前が立ち番のときを狙って抜け出して、迷惑かける」 自然体の許チョが相手だと、夏侯惇も曹操に対する口調を改めずに話してしまう。 「仕方ないだよ。曹操さまが元気なのを知っているのは夏侯惇とおいらだけだ。おいらのとき以外に脱走して走り回ったら拙いだろう?」 「確かに」 理に適った意見だ。 「それに少しは動かないと、曹操さま体が鈍っちまうしなぁ」 それも言える。 しばらく二人は曹操の脱走癖について文句だか惚気だか分からない会話を交わしていたが、ふと許チョが黙り込んだ。 「どうした」 「曹操さま、やっぱりどっか行っちまうだかなぁ」 「……どうしてそう思う」 ちらり、と許チョの横顔を見やると、寂しそうな顔をして、綺麗に整えられている中庭を眺めていた。 「典韋が昔、良く言ってた。『大将は大きな戦が終わるたびに、遠い国のことを調べてるんだ。どこかへ行きたいなら俺がお供しますって言うんだけど、ああ、そのうちな悪来、と笑って終わっちまう。本気で大将が旅に出る気なら、俺は絶対に付いていくぜ』って。最近、曹操さまの机の脇に見たことないどっか遠いところの地図が置いてあるだよ」 あいつは気を許している相手に対して無防備すぎる。許チョに見つかるようなところに放置しておくなんぞ、呆れて物も言えん。 がしがし、と頭を掻く。 「それになぁ、この間おいらに、曹操さまを守る仕事がなかったら、何したいって訊いてきただよ。おいら、曹操さまと別れなくちゃなんねえのか?」 足を止めて、じっと夏侯惇を見つめてきた許チョのつぶらな瞳に、夏侯惇は答える術も無く、短くなった髪を掻き毟った。 「……許チョよ。で、お前は何て答えた」 「おおっきな畑を作って、そこでたくさん採れた米や野菜を使って、皆が喜ぶ美味しい飯屋を開きたいって言った」 「あいつは?」 「すっごく嬉しそうに笑って、虎痴らしいのーって何度も何度も言ってくれたぞ」 「俺もそう思うな。お前の飯屋が出来たら必ず食べに行く。きっと孟徳もそう思ってる」 夏侯惇が言うと、許チョはぱあっと顔を明るくさせた。 「そうか!」 「そうだ」 「じゃあおいら、すっごく遠くの国にも噂が届くほど美味い飯屋を開くだよ。そんで、一回食べただけじゃ満足しなくて、また何度でも来たくなるような、そんなご飯たくさん作るだよ」 「ああ、お前なら出来る」 ありがとな、夏侯惇、と許チョは満面の笑顔を浮かべ、二人が別れるまで、その顔が再び曇ることはなかった。許チョの巨体を見送り、夏侯惇は大きなため息をゆっくりと空へ向けて吐き出し、一人歩き出した。 幾日か過ぎた夕刻、夏侯惇は激しい雨が吹き付ける軒先を足早に通り抜け、通い慣れた曹操の私室を訪れた。 「元譲か、ここしばらく顔も見せんで。退屈じゃったぞ」 入室の許可をもらって顔を見せた途端、曹操の文句がぶつけられた。 「すまん、お前の言う誕生日の祝い、というやつが何がいいか考えていてな」 牀台に半身を起こし、公務の処理でもしていたのだろうか。部屋に焚きつけてある香に混じって濃い墨の香りが鼻をくすぐった。膝元の書簡を枕もとの小台に置いた曹操は、興味津々と言った顔で身を乗り出してきた。 「決まったのか?」 「ああ」 「言ってみろ。誕生日にまで間に合わせることの出来るものだと良いが」 「何でも良いのか」 「もちろんだ!」 無邪気に答えてくれる従兄を見下ろして、言った。 「じゃあ、俺も連れて行け」 「……元譲、それは何だ?」 笑顔だった曹操の顔が強張った。 「俺も連れて行って欲しい。それが誕生日の祝いだ」 「……誰に訊いた。いや、わしは誰にも話してないはずじゃ」 「見くびるな、孟徳。お前の傍にどれだけ長く居ると思っている」 薄々気付いてはいたところに、許チョの話で確信を得た。しかし言い出すまいかどうするか、数日悩んだ。しかし、夏侯惇には思い描けなかったのだ。許?のように曹操が居なくなったあとの自分の姿など、これっぽっちも想像できなかった。 「お主には残って子桓を支えて欲しい」 「あいつには俺以外に支える人間がいる」 「元譲、これはわしの問題だ」 ああ、またお前はそんな顔をする。 いつもは身近に感じる曹操の存在を唯一遠くに感じる瞬間、曹操が覇者として、為政者としての顔をするとき、夏侯惇は曹操との乖離を覚えてしまう。 悔しい。 幼い頃、夏侯惇にとって曹操は憧れであり、武なり勉なりを努力しても辿り着けない大きな存在であった。一時は子供心、というよりは少年として、というべきか。悔しくて仕方がなくて、反抗期よろしく反発したこともあった。 「俺はお前の傍に居るのに相応しくないのか。だから置いていくというのか」 「違う、それは違うぞ、元譲!」 慌てた様子で首を左右に振った曹操だったが、夏侯惇の口惜しさは和らがず、分かってくれ、と諭そうとする曹操に尖った心が向けられる。 「わしの役目は荒れ果てた世を平らかにすることなのだ。先細ってしまっている道を限りない、無限の道筋が広がる世にする。どんな才だろうといかんなく発揮される、そんな世の中にしたいのだ。そしてそれが見えた暁には、わしは不要だ。人は誰もが弱い。自ら歩む力があるのに、頼ってしまおうとする。だからわしは旅に出る。それはわし一人でないと意味がないのだ。お主なら分かってくれるだろう?」 今まで、大抵の曹操の我が儘は聞いてきた。それに答えることが喜びでさえあった。それでも、今回ばかりは聞けない。 聞けないが……夏侯惇は大きく深呼吸をして、 「ああ」 頷いた。曹操の表情が和らいだ。 「少しお前を困らせたくて、言ってみただけだ。何せ俺に黙って行こうとしたんだ。これぐらいは言わせろ」 「……すまん。話してしまえば反対されるのは目に見えておったし、お主に反対されてしまえば、決心が鈍る」 「それぐらいは、お前にとって俺は存在意義がある、と自惚れてもいい発言だな」 曹操の目がぱっと伏せられて、元々赤みがさしている目元がさらに朱に染まった。俯いてしまった曹操の顎に指をかけて、持ち上げた。あ、と小さな声が漏れた曹操の唇を己の唇で塞いだ。 「……ぅん」 息を詰まらせて、夏侯惇の口吻を受け止めた曹操は、初め抵抗しそうな素振りを見せたが、大人しくされるまま従った。細い顎を強く摘んで薄く唇を開かせれば、曹操から舌を伸ばして交わってきた。 牀台の端に手を掛けて、片膝を乗せればぎしり、と牀台は軋んだ音を立てた。仰向いた曹操の唇を吸ったり噛んだりしつつ、舌の蕩けるような甘さを味わった。 唇の端から溢れた唾液が顎を伝って、添えている夏侯惇の指を濡らす。音を立てて舌を吸い、唇を啄ばむと、曹操の息は艶めいた。 唇を離すと、唾液で湿った顎鬚がうなだれていて、指の腹でこすった。熱っぽく潤んだ目で夏侯惇を見上げていた曹操の頬がうっすらと紅潮している。 「いきなり、何だ」 戸惑ったように目を瞬くたびに、長い睫毛が目元に影を生み出して、夏侯惇の衝動を突き上げる。 「さっきの誕生日の話の続きだ。俺にプレゼントをくれるんだろう?」 「うむ……」 ためらいがちに首を縦に振った曹操へ、夏侯惇は片頬を持ち上げて笑って見せた。 「じゃあこの一時(いっとき)でいい。お前を好きにさせろ」 「――っそんなことでいいのか?」 簡単すぎる、と言いながらも、曹操の顔は耳まで赤く染まってしまっている。表情の変化に富んでいる曹操は、目でも夏侯惇を楽しませてくれた。赤く熱を持ってしまった耳朶を指で挟みながら、反対側の耳元へ囁いた。 「お前の恥ずかしい姿を見たい」 「元譲!」 声を荒げて拳を振り上げた腕を容易く捕らえて、寝具の中へと押し倒した。華美を好まない曹操ではあるが、調度の類は質の高い物を使っていて、倒れ込んだ二人分の身体を柔らかく包んだ。 「このプレゼントも駄目なのか?」 何でも良い、と言い切った曹操のプライドをくすぐりつつ、夏侯惇は曹操の瞳を覗き込む。すでに降伏の色がちらついていて、案の定曹操は大仰なため息を吐いて、 「好きにせよ」 と言った。 「謹んで承る」 わざと恭しく礼を述べ、曹操の捕まえた手を持ち上げて指先に口付けた。 外の雨足がさらに強まってきた―― |
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