「八つの手」
 劉備総受け


 初めて抱かれた男は、兄弟子だった。


 机を並べ、共に学んでいたときから好きだった、と言われた。
 断ろうにも、断れない状況だった。
 劉備はそれでも困り果てて、俯いた。
 しかし、今はこの男を頼るしかない。劉備たちは名もないただの義勇軍だ。確かな後ろ盾がなければ、黄巾族と戦う場所すらまともに与えられない。
 桃が咲き誇る庭で、誓い合った。
「必ず、漢王朝を復興させよう。我ら、生まれた時は違えども、死する時は同じ年、同じ月、同じ日であろう」と。
 そう誓い合った義兄弟たちは、腕を揮(ふる)う刻(とき)を今か今かと待っている。
 そして、劉備もそれに応えたかった。何より、苦しむ民のために少しでも力になりたかった。だからこそ、義勇軍を募り、黄巾族討伐へ乗り出したのだ。
 しかし、小さな村から現れた小さな軍など、誰も必要とせず、ただ使い捨てられる布切れのようだった。
 そこへ声を掛けてくれたのは、劉備と共に同じ師の下で学んだ兄弟子、公孫サンだった。
 久しぶりに再会した兄弟子は、前と変わらず、穏やかな優しい笑顔で迎えてくれた。
「玄徳」
 自分を字で呼ぶところも変わっていなかった。
「伯珪兄上」
 自分も、前と変わらずにそう呼んだ。
 夜、二人きりで酒を酌み交わし、昔話に花が咲いた。そして、不意に訪れた奇妙な沈黙の後、公孫サンはぽつり、と呟いたのだ。
「玄徳、お前を好いていた。いや、今でも好いている」
「それは、どういった意味ですか? 伯珪兄上?」
 困惑して聞き返せば、そのときはすでに公孫サンの腕の中だった。
「飲み過ぎでは、兄上?」
 体から立ち昇る、どちらとも知れない酒の匂いに、劉備は強張った笑顔で戒めた。
 それでも、公孫サンの腕の力は弱まらず、耳元で囁かれる言葉は熱を帯びていった。
「抱かせてくれ」
「何を……。私は男ですよ。戦を前に血が滾(たぎ)っているのは分かりますが、相手をお間違いでしょう」
「そうではない! お前だから抱きたいのだ!」
「私は兄上を慕ってはいますが、恋慕ではありません。申し訳ありませんが、その気持ちにお応えは出来かねません」
 体を押し返そうと力を込めるが、そのまま床に押し倒された。
「抱かせてくれぬなら、お前の義勇軍はこの地へ置いていく」
 押し殺したような声だった。
 信じられない思いで、劉備は兄弟子の顔を見上げた。
「そのような卑怯なことを、貴方の口から聞きたくありませんでした」
 悲しくなってまなじりを下げる劉備へ、公孫サンは何かを押し殺したような口調のまま、再度促した。
 劉備は俯いて、逡巡した。その劉備の頬へ公孫サンの手が触れた。剣を握っているはずのその手は、柔らかかった。そして、その温もりは昔と変わっていなかった。
 見上げた公孫サンの目の中に、どこか諦めや悲しみを覗いた気がして、劉備は黙って頷いていた。



 兄弟子はとても優しく抱いてくれた。劉備があられもない声を上げてしまうほどに、どこまでも優しく抱いてくれた。
 しかし、その繋がりはどこか悲しく、虚しく、劉備の胸を苦しめた。
 幾度か抱かれたある晩、いつものように引き止める公孫サンを振り切り、劉備は自分たちが寝泊りしている場所へ戻った。
 公孫サンの傍で眠りたくなかった。寝ればあの悲しみに捕らわれてしまいそうだった。
 散々に抱かれた体はひどく重くて、義兄弟たちの下へ辿りついたときには、ついによろめいてしまった。
 しかし、地面に倒れ伏すはずの体を支えた手に、劉備ははっとした。
「雲長……」
 そこには気遣わしげに自分を見下ろしている関羽の眼差しがあり、不覚にも劉備の目から涙がこぼれ落ちた。
 突然の兄の涙に、しかし関羽はたじろぐことなく、ただ劉備が泣き止むまでその大きくて硬い皮に覆われた手で、体をさすっていてくれた。
 公孫サンとはまったく違うその手の感触を、劉備は愛しい、と思い、そして何も聞かない関羽の優しさを有り難い、と思った。


          ※


 二番目に抱かれた男は、孤高の武人だった。


 荒々しくも、激しい言葉で求められた。
 断るには、守るものが多すぎた。
 それでも、劉備は頷くまで躊躇った。
 下ヒ城へ、曹操に追われた呂布を招き入れたとき、義兄弟は猛反対をした。それでも、劉備は呂布を迎え入れた。
 当然のように反発しあった義兄弟と呂布は、呂布が下ヒ城を奪う、という形で現れた。曹操の仲介で劉備たちは小肺を居城としたが、呂布は和睦として劉備を招いた。
 そして、武器を持つ骨ばった手で組み敷いた。
「劉備」
 自分の名を呼ぶ男の顔は、猛々しく逞しい。
「呂布、殿」
 呼び返す自分の声はひどく弱々しくて。
「劉備、お前を抱く」
 了解もしていないうちに、劉備は頑強な腕の中へ捕らわれていた。
「呂布殿。私は……」
「虎牢関で俺を射抜いたお前の目を、片時も忘れたことはなかった」
 半ば恐れを含めて呂布を見上げた。
「抵抗するなら、この和睦はなかったこととさせてもらおう」
 身を竦めて、その言葉が降るのを受け止めた。
 下ヒ城を奪われて、誰よりも自分を罵り、傷つけんばかりに暴れた張飛の顔が過ぎった。
「お前が欲しい」
 直接的で、激しい言葉と、ただ一人で生きている男の目は、余りにも澄み切り過ぎていて、劉備の心をさざめかせた。
 瞼を閉じてその目を退かせて、ただ小さく首を縦に振った。



 孤高の武人は、とても荒っぽく、まるで自分の澄み切った武をぶつけるがごとく劉備を抱いた。その荒々しさに翻弄され、浅ましいほどに鳴いた。
 しかし、その交わりは激しく、清すぎて、劉備の体を苦しめた。
 幾度も下ヒ城に呼ばれた。その度に、その激しい交わりを求められて、劉備の体は朽ちそうになる。
 そんなある朝、体を引きずるように小肺の城へ戻った劉備を義兄弟の一人が、必死で噴き上がる怒りを抑えた顔で出迎えた。
「翼徳……」
 そんな弟の顔を見て、自分のした選択は余計に弟を苦しめるだけだったのだ、と悟った。
「すまない」
 涙の滲んだ声で謝ると、張飛は黙ってしまって、ただ劉備の体を引き寄せて抱き締めた。
 同じ荒々しい骨ばった武人の手なのに、その手は優しさに溢れていて、愛しい、と思った。そして、張飛の不器用さが好ましい、と思った。


          ※


 三番目に抱かれた男は、器の大きな男だった。


 厳然とした態度を取ったかと思えば、子供のような表情で自分に話しかける。
 その落差に幾度惑わされただろう。
 だから、咄嗟に頷けなかったのだ。
 これは彼特有の言葉遊びなのか、と。
 同じように黄巾族の鎮圧から始まったのに、これほどまでに差が広がったことに、劉備は羨望と嫉妬を交えて見つめていた。
 それなのに、その男は言った。
「お前こそ、わしと天下を二分するほどの英雄だと思っている。お前はどう思う、劉備」
 と、楽しそうに聞くのだ。
「そのような。私など曹操殿の足元にも及びません」
 半分本気で否定した。そしてもう半分は自分を認めてくれる曹操に対する礼を込めて。
「またお前はそうやってはぐらかすのだな。まあ、そのようなところも良いがな」
 くつくつと子供のように笑った後、急に威厳を持った態度を取る。
「劉備、今夜わしの寝所へ来い」
「はっ? なぜですか?」
「いつまでもはぐらかそうとするお前には、体に聞くのが一番だからな」
「曹操殿っ?」
 驚いて見つめ返す劉備へ、曹操は逆らいがたい口調で囁く。
「断れる立場ではないだろう、玄徳」
 突然呼ばれた字に戸惑い、そして現れた童のような笑い声と。
「良いな」
 もう一度聞かれたときに覗き込んできた曹操の双眸は、純粋なまでの好奇心と、人を惹きつける色を浮かばせていて、劉備は、はい、と答えていた。



 器の大きな男は、巧みだった。ときに戸惑うほど甘く抱き、ときに嫌がるほど激しく抱いた。その落差に、我を失うほど劉備は引きずり込まれていった。
 身も心さえも捕らわれていった。甘すぎて、そして激しすぎる劣情の手に、劉備はどこまでも落ちて行きそうになった。
 そんな自分に嫌悪を抱いた。
 ここを離れなくてはいけない。ここにいては自分の、義兄弟と交わした約束を果たせなくなる。
 何時しか、そう思うようになった。
 それでも、誘われれば応え、応えれば抜け出せなくなり、ただ溺れていくばかりだった。
「玄徳」
 抱くときだけ字で呼ぶあの声が、耳に付いて離れない。
 このままではいけない。
 また、飽くまで抱き続けられた帰り道、幾度とも知れない決心をして、義兄弟たちの下へ帰った。
 二人が、心配そうに迎えた。
「雲長、翼徳……」
 久しぶりに、まともに二人の弟の顔を見た気がした。
 自分は弟たちの顔も見ずに何をしていたのだろう。
「ここを、出ようと思う」
 決意を口にした途端、曹操の顔が浮かんだ。厳しい顔が楽しげに崩れる、劉備の好きな瞬間の表情が浮かび、自然に涙が溢れた。
 そんな劉備を、弟二人は静かに抱き寄せた。
 大きくて暖かい二人の手を、危うく失うところだった。
 それに気付いて、また涙が溢れた。


          ※


 四番目に抱かれた男は、曹操と天下を二分する男だった。


 高慢で、自信家で、しかしそれが妙にこの男に似合っていた。
 片時も傍を離れなかった義兄弟たちは、今は自分の傍にいない。それどころか、生きているのかさえも分からない。
 心細かった。
 自分は長兄だ。それでも、支えられていたのは間違いなく自分で、二人が居ないとこんなにも自分は情けなく、ひ弱で、何も出来ない男だ。
 居なくなり、その存在の大きさ、大切さを改めて思い知らされる。
「雲長、翼徳、どうか生きていてくれ」
 ただ、祈ることしか出来ない自分がみすぼらしくて、頬を伝う涙さえも拭うことを忘れる。
 そして、その涙を受け止める手がないことに気付き、また涙を流した。
「劉備、お前は色んな男に抱かれているそうだな。公孫サンや呂布、あの曹操にも抱かれたそうではないか」
 そう、袁紹が聞いて来たのは、劉備が袁紹のところへ身を寄せて幾日か経った頃だった。
 卑下するような口調に劉備は唇を噛み締めた。
「それほどまでに良いものなのか? 私にも抱かせてみろ」
「しかし、このような汚れた体、袁紹殿が抱けば名門の名に傷が付きます」
 あしらうようにする劉備に、逆に興味をそそられたのか、袁紹はしきりに求めてきた。
 それは、自尊心が高い男らしく不遜で、しかし従わせることを当然とし、また従うことを当然とした強い眼だった。
 それに抗うには劉備は心身ともに弱りきっていた。
 劉備の首が力なくうな垂れたのは、袁紹の幾度目かの誘いの後だった。



 天下を二分する男は、劉備に自分を誘うように仕向けた。高慢で、自信家の男らしく、自分からではなく、劉備が誘うから仕方なく抱く。そういう体裁を繕った。
 それを屈辱と感じられないほど、劉備は放浪に疲れ果て、支える術を無くした重みに潰れかけていた。
 何かを捨てきった劉備の誘いは、妖しく、淫らで、煽情的だった。
 それに惑った袁紹は、劉備が許しを請うまで抱き続けた。
 幾度の月が昇り、降りたのだろう。
 飛び込んできた義兄弟の生存の噂に、劉備は全てを投げ打って駆けつけた。
 袁紹の引き止める手をほどき、振り返らなかった。
「雲長……!」
 頬を濡らしながら飛び込んだ自分を、関羽も同じように頬を濡らしながら抱きとめた。
 そして、もう一人の弟も、また目を赤くさせて再会を果たした。
「翼徳……!」
 しっかりと抱きとめた張飛の体は揺るがなく、そこに存在を知らしめていた。
「兄者」
「兄者」
 自分を呼ぶ二人の声に包まれた途端、劉備の中で弾けたものがあった。
「お前たちが愛しい。とても、とても」
 涙に濡れて言葉にならない劉備のそれを、しかし弟たちは確かに受け止めて、頷いた。
「拙者も、お慕いしております」
「俺も、好きだぜ、兄者」
 照れ臭そうに笑う二人へ、劉備はむせびながら縋りついた。


          ※


 五番目の男は、年老いていながらも、鋭さを失わず、狡猾さを備えた人だった。


 義兄弟と再会を果たした劉備は、同じ姓を持つ人を頼り、逃れるように南へ下った。
「お世話になります」
「いや、同じ劉姓を持つ者同士です。それに劉備殿は徳の御仁として世に知れている。そのような方をお招きでき、この劉表、嬉しく思っております」
「過分なお言葉、恐れ入ります」
「劉備殿には新野城で我が荊州の守りに当たっていただきたい」
「はい」
 粛々と劉表の言葉を受け止め、頭を下げた劉備だったが、続く言葉に身を強張らせた。
「ところで、劉備殿。貴方は今まで何人の男に抱かれ申した」
「劉表殿、私は……」
 頭を下げたまま、劉備は口ごもる。
「わしも、数に加えてみませんか」
 頭に注がれる、劉表の探るような視線が痛かった。
「それにお応えしない場合は、やはり新野のお話は……?」
「どうでありましょうか。貴方のお答え次第です」
 ここを追い出されれば、もう頼るところなどない。自分を慕い、ここまで従ってきてくれた人々を、義兄弟を、また当てもない放浪の旅へ誘うわけにはいかない。
 劉備は迷わなかった。
 下げていた頭を上げて、微笑んだ。





「劉表殿。申し訳ございません。私はもう、身を切り渡すようなことは致しません。心を騙せません。もし、それでここへ置かせていただけないのでしたら、潔く去ります」
 年老いた、鋭い二つの目が劉備をねめつけた。それをただ真っ直ぐに受け止める。その深いシワが刻まれた口元が開くのを、ただ静かに待った。
「そうですか。貴方は何か大切なものに気付かれたようですね。そんな貴方を抱いたところで、それは劉備玄徳という抜け殻を抱くようなもの。それはわしの望むところではありません」
 鋭かった両目が、柔らかく綻んだ。
「劉表殿……」
「さあ、どうぞ行ってください。その貴方が大切にする者たちと一緒に」
「ありごとうございます」
 深く、丁寧に頭を下げた劉備は、もう一度微笑んだ。
 迷いのない笑みは、この乱世を潜り抜けてきた男が持つには、あまりにも美しく輝いていた。
 それを年老いた男は眩しそうに見つめ、劉備には聞こえないほどの声で呟く。
「貴方になら、この荊州をお渡ししてもいいかもしれません」
 しわがれた手が劉備の手を握り締めた。その手は、力強かった。


          ※


 しばらくぶりの晴れ晴れとした気持ちで、劉備は空を仰いだ。
 この蒼天、必ず一つにしてみせる。
 強い決意を再び胸へ刻み込み、劉備は目を瞑った。
 遠くから、自分を呼ぶ声がした。
 目を開き、それに手を振り応える。
「雲長ー、翼徳ー、次は新野城だー!」
 大切な二つの人影を目に映した劉備は駆け出す。二つの慈愛の籠もった手が包み込んだ。
「行きましょう、兄者」
「行こうぜ、兄者」
「ああ、行こう。私はお前たちと共にならどこまでも歩める」
 その手を胸に押し抱くようにしてから、天へと掲げた。
「我ら、生まれた時は違えども、死する時は同じ年、同じ月、同じ日。その日まで、必ずや民が
幸せに暮らせる世をつくろうぞ!」
 青い空が、その三つの手を受け止めて、広がっていた。



 了





 あとがき

 いかがだったでしょうか? 突発的に思いつき、書かずにはいられなかった話です。
 一番言いたいことは、劉備はみんなに愛されている、ということです(笑)。

 そして、私が曹操様が好きなため、ちょっと曹操様だけ格好良く、両想いっぽく書いてしまいました。でも、この中での劉備の一番は関羽と張飛ですけどね! (ここ大事!)
 三人の中に肉体的なものがあったかどうかは想像にお任せするとして、これから三人は、しばらくは新野城でらぶらぶな暮らしをするのです(笑)。最強(凶)無敵な軍師が現れるまでは(笑)。

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