「午睡のお供に」
 諸葛亮×劉備


 誰もが気だるく、ただ涼を求めて彷徨い歩く暑い午後、ここ蜀でもそれは例外ではなく、ましてそれが国を支える人々であっても変わらなかった。

 ――ただ一人を除いて。

「私の顔に何かついていますか、法正殿?」
「いえ、随分と涼しげな顔をしているな、と思いまして。暑くはないのですか?」

 問われて諸葛亮は小首を傾げて微かに笑う。

「暑いですよ。夏ですし」
「そのわりに、あまり暑そうには見えないのですけども」
「おかしなことを。暑いからといって誰もが暑くだれた顔をするとは限りませんよ。ましてや私たちはそう心内を簡単に表へ晒すものではないでしょう?」

 もっとも、とも取れる説明ではあるが、法正は首を捻る。

「しかしここは戦場でも敵の懐でもないのですから、そう気を張らずとも良いと思います」
「こういうことは、常日頃からの心構えが必要なのです」

 話は平行線を辿りそうだった。
 諸葛亮と法正、互いにその能力の高さは買っているものの、どうもこういうところで意見が食い違う。要するに大事とするものや趣向が違うからなのだが、そこで険悪になるほど二人は愚かではなかったので、どちらからともなく話題を変えた。

「ですが、法正殿ではありませんが、この暑さはいただけませんね。皆の執務の効率、著しく低下しているようです」
「はい、幾人かはすでに体調を崩し始めていて、ただでさえ人手不足のところがこれによってかなりの痛手になっています」
「何か対策を立てたほうが良いかもしれません」
「諸葛亮殿は何か妙案でも?」
「そうですね……」

 聞かれてしばし思案するが、その実諸葛亮の頭は大して働いてはいなかった。表には一切出ていないが、彼も相当にこの暑さにやられているのだ。元より体力があるほうではないし、夜も遅くまで起きている上に、食も細い。
 日々の政務はほとんど惰性でこなしているのが実状だったりする。

「そういう法正殿はいかがです?」

 間が持たずに問い返した。

「私としても、さほど何かがあるわけでもないのですが」

 どうやら彼も似たり寄ったりの状態らしく、いつもの明晰な答えは返ってこなかった。
 諸葛亮もそれで彼の状態を察し、苦笑した。

「唯一はつらつとしているのは殿ぐらい、というわけですか」
「あの方はどうしてああも元気なのですか?」
「さあ? 元が体力のある方ですし、政務もまともにしませんから気力が有り余っているのでしょう」

 僅かに混ざる皮肉に、今度は法正が苦笑した。

「この間も、どこかへお出かけになられて、遅くまで戻られなかったとか」
「ええ、まったくいつまでも君主としての自覚のない方で。こちらの気苦労など気にも留めてくれません。今日は大人しく執務室に籠もっているようですが、それもどこまで真面目に取り組んでおられるか」

 痛烈な批判を容赦なく法正にぶつけてくる。
 自分もほぼ同じ気持ちではあるが、やれやれ、と法正は呆れてしまう。
 劉備を目の前にすればさらに厳しいことを言うし、険しい顔が緩む気配はない。そのくせ劉備を案じる心根は人一倍強い。つくづく素直ではない男だ。
 甘やかしては調子に乗るから、などと言うのだろうが、時には甘やかすことも必要ではないか、と法正は思ってしまう。

「第一、護衛の者を撒いてまで出かけるなど、御身の大事さをどう考えておられるのか……」

 まだ続きそうな劉備への抗議に、本人ではない法正はどう逃げ出そうかと突破口を探る。諸葛亮への用事は当に済んでいる。これ以上長居をすると暑さに参っている体は耐えられそうにない。
 すると、法正の耳にパタパタと聞き慣れた軽快な足音が飛び込んできた。
 この精気のない政務宮でこんな身軽な足音を立てる人を、法正は一人しか知らない。

「諸葛亮殿、それ以上の諫言はご本人にお願いします。私はこれで失礼しますので」

 法正が腰を浮かすのとほぼ同時に、部屋の外から声がした。

「孔明、居るか?」
「殿?」

 諸葛亮の口が劉備を呼んでからぴたり、と閉じて、声のした衝立の向こうを睨んだ。少しでも風を取り込むため、窓や戸の類は全て開け放している。すぐに衝立の向こうから劉備が姿を現した。

「お、法正が来ていたのか。ならば今は邪魔か?」
「いえ、もう用事は済んでおりましたので、失礼するところでした。ところでそちらは?」

 劉備が抱えている大きな物体に目を引かれて、尋ねた。

「おお、これか? 最近暑いだろう? 皆が少しでも涼しくなれるように、私なりの工夫を伝授してみようか、と思ってな。有効かどうか孔明に試してもらおう、と思っている」
「私は実験体ですか」

 面白くなさそうに諸葛亮が呟くが、法正はますます興味を引かれて劉備の持つ青味がかったものを凝視する。

「私も拝見してよろしいですか?」

 その正体が知りたくて許可を求めるが、劉備は横に首を振った。

「すまないが、実験がすむまでは秘密にしておきたいのだ。上手くいけばちゃんと披露する。今日は下がってくれ」

 そう言われれば食い下がることなど出来るはずもなく、法正は後ろ髪を引かれながらも退室した。

「それで、何なのです、それは?」

 実験体にされたことが不満で、諸葛亮は不機嫌に尋ねた。反対に劉備は上機嫌で、にこにこ笑いながら抱えていた『それ』を床に広げた。

「筵、ですか。我が君、また貴方は政務を怠けてこのようなものをお作りに……」

 ため息をついて諸葛亮は床の『それ』を眺めた。
 筵にしては白っぽく青味が入っているが、それはどこからどう見ても筵だった。

「違う! これは筵は筵でもたかむしろと呼ばれる、竹で編んだ涼しい寝床なのだ。私はこれのおかげで夏の蒸し暑い夜も快適に寝ていられるのだぞ」
「本当ですか?」
「疑り深い奴だな、お前は。いいから寝てみろ」

 ぐいぐい、と腕を引かれて、仕方無しに諸葛亮はその上に横になった。

「言っておきますけど、私は忙しいのですから、気がすんだら早く政務に戻ってくださいよ」
「分かったから、少し黙って使い勝手を確かめろ」

 渋々と気持ちを落ち着けて、劉備が朝から執務室に籠もって作ったのであろう筵に背中を委ねた。

「…………」

 これは思ったよりも涼しい。床など周りの空気ですっかり温くなっているはずなのに、この筵のおかげかひんやりと冷涼さが漂う。その上で僅かな隙間があるのか風が通り抜け、ムシムシとした暑さとも縁遠くなる。
 しかも、やはり昔取った杵柄なのだろう。編み込み具合がまた優しい。硬すぎず、柔らかすぎず。

「どうだ?」

 その快適さにうっとりしかけた諸葛亮は、覗き込んできた劉備にはっとした。
 危ない、うっかり寝てしまうところだった。
 少し気恥ずかしくなるも、その強い誘惑は逆らいがたかった。
 何せ日々の僅かな睡眠すらも、ここ最近の暑さで思うように取れなかったのだ。ふと訪れたこの絶好の機会に、体は心を裏切ろうしていた。

「我が君、これには最大の問題点があります」

 それでも、朦朧とした頭で劉備の質問に答える。

「なんだと?」

 焦る劉備に、諸葛亮は続ける。

「枕がありません」

 このまま寝てしまうには首が少し痛かった。
 劉備は一瞬ばかりぽかーん、としたが、すぐに笑顔になって膝を叩いた。

「ならば、ここを貸す。寝てみろ」
「では遠慮なく」

 すでに二人は主君と臣下ではなく、仲睦まじい水と魚となっていた。
 膝の上に頭を乗せた諸葛亮の髪を撫でながら、劉備はクスクスと笑う。

「だが、確かにそうだな。ならば同じように竹で編んだ枕も作るとする。それなら、お前の疲れた顔も少しは良くなるだろう?」

 人一倍以上も働き、しかもそれを表に出すことを嫌い、素直とは程遠い男も、劉備の前では夏の暑さに溶けていく氷のようだ。

「この間、このために竹を取りに出かけたが、中々警護の人間がしつこくてな。どうせなら秘密にしてあっと驚かせたいから、何とか撒いたのだが……」
「…………」
「孔明?」

 返事がないので覗き込めば、穏やかな寝息を立てて愛しい男は眠り込んでいた。
 劉備はもう一度だけクスクスと笑った後、近くに置いてあった諸葛亮の羽扇でその顔を扇いでやる。

「実験は大成功で、良いのだな、孔明?」

 夏の暑さはまだまだ続きそうだった。



 終幕



 ***

 簟=竹を細く裂いて編んだ筵で、竹簟チクテンとも。セットで籠枕(同じように竹や籐で編んだ、中が空洞で風通しが良い枕)があるとなお涼しい。



 あとがき

 水魚祭へ捧げました。私としては、初書き法正さんが楽しかった一品です。しかし秋となってしまった今、この簟のありがたさが……(笑)。




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