「春雪」
 諸葛亮×劉備


 劉備の好きな桃の花の蕾が膨らみ始めていた。それなのに、どうしたことか。
 今日は朝から窓の外は吹雪いている。

 締め切った窓から、雪が運ぶ寒がするりっと忍んで、余り進みのよろしくない筆先が、卓上でさらに鈍っていく。それを、劉備とは違い、すらすらと筆を走らせていた諸葛亮が目に止めたようだ。

「殿、筆がお進みになっていないようですが?」

 やんわりと、しかしきっちり諭されて、劉備は我に返ったように筆を動かすが、気付けばまた鈍っている。

「殿」
「あ、すまぬ」

 諸葛亮の口元は苦笑に彩られている。

「桃が気になりますか」

 しかし、今度は諭すことなく、走っていた筆を休ませて、諸葛亮が聞いてきた。同じように筆を置き、劉備はこっくり、と頷いた。

「春だと言うのに、この雪だ。桃が咲くことを忘れてしまうのではないか、と思って心配でな」

 まるで子供のようなことを言う劉備へ、諸葛亮は少しだけ目を見開いて、それからゆっくりと唇に孤を刷いた。

「そうですね、確かにこの寒さ。桃にとってもなかなかに試練でしょうね。まるで春や夏、秋を駆け抜け、冬へまた一巡してしまった、とでも思っているやもしれません」

「むう……」

 諸葛亮の言葉に、劉備の眉間が狭くなる。義兄弟たちや諸葛亮たちと共に桃の下で花見酒、と洒落込むはずが、どうやら無理そうな気がしてきた。

 そんな劉備の心境を察してか、諸葛亮はさらに唇の笑みを深くして続けた。

「そうご心配なさらずとも、桃は賢いものです。ちゃんと春の息吹を感じ取れば、しっかりとその身を開かせますよ」
「木や花は賢いの。人はすぐに季節の移ろいに惑わされると言うのに。あやつらはときを掴むことに長けておる」

 その点で、果たして私はどうなのだろう、と劉備は身内へ耳が傾いていく。臥龍を迎えることは出来たものの、果たして無事にときを掴むことが出来るのか。

 春の雪に凍えそうになっているのは、何も桃だけではない。己の心もだ。

「そのような顔をなさらずに。自然は自らの魂で季節を感じ取ります。人も同じです。魂の声に耳を傾けてください。きっと聞こえてくるはずです。そのときが」

 はっとして、傾けていた耳を傍らの男へ向け直した。

「もし、それでも不安ならば、私がこうして春の暖かさを与えましょう。それで少しでも殿の不安が取り除けるなら、それが私の役目でございます」

 雪の届ける寒で冷えた指先を、諸葛亮の手がふわり、と包み込んだ。

「人は草木のように季節には敏くないのかもしれません。ですが、こうして寒い時は身を寄せ合う術を知っております。そして、動くべきときを見抜くのも、何も一人とは限りません」

 じんわりと広がっていく諸葛亮の手の暖かさが、劉備の春雪に凍えた心を溶かす。

「ああ、そうであったな」

 ようやく、劉備の顔に笑みが浮かぶ。気付けば窓を揺らしていた風雪も、心なしか弱くなった気がした。

「春の雪は、淡いものです。春へ恋焦がれる草木や人へ、冬の厳しさを僅かでも忘れて欲しくなく、時折いたずらをするのでしょう」

 窓へ目を飛ばした諸葛亮が呟く。

「冬があるからこそ春がある。私に春を届けてくれるのは、孔明なのかもしれぬな」

 ぜひともそのように、と稀代の軍師は慎ましく微笑んだ。

 その微笑みに同じように微笑み返し、劉備は暖められた指先で筆を持ち直した。滑りの良くなった筆で、ときの息吹へ耳を傾けるために。



 了





 あとがき

 あとがきを書くほどではないのですが(笑)。
 ほのぼのしてくだされば幸いでございます。お題は「春の水魚さん」でした。
 いつもと少し改行を変えてみたり、工夫。と、言っても大したほどではありませんが。

 まだ、諸葛亮が劉備のところへ来てまもない頃の話です。



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