「小春日和」
 関羽×劉備


 その日は、初冬だというのに妙に暖かく、一昨日まで庭を染めていた雪も積もる時期を間違えた、と恥じる勢いで溶け出していた。
 よし、とばかりに劉備は立ち上がり、その勢いのわりには忍び足で、そっと窓を押し開けて外へ続く窓枠へ足を掛けた。
「殿、どちらへ」
 しかし、その身軽な――ついでに言うなら手慣れた足を止めたのは、この小春日和には相応しくない、日陰に残る雪ほどの冷たい声だった。
「お、おお、孔明か。いや、ちょっと外が暖かいので、空気の入れ替えでも、と思ってな」
 心にもないことを口にするのは、この長い年月、様々な人物の下でのらりくらりと生き抜いてきた劉備にとっては容易いことだが、この若い軍師の前では背中を伝う汗を禁じえない。
「ああ、左様でしたか。私はてっきり天気も良いので、殿が政務を倦んで遠乗りにでも行ってしまうのでは、と思ってお声を掛けてしまったのですが。杞憂でしたね」
 にっこりと、端麗な相貌を裏切らない綺麗な笑顔で、諸葛亮は劉備の行動を言い当てる。
(当てこすりおって。分かっておるではないか)
 内心でちっと舌打ちしつつも、表面上はまさか、そんなはずはなかろう、と呵々と笑って見せた。それに対して諸葛亮も、そうですよね、ふふ、と笑って答える。
 そのとき、傍に控えていた馬良が眉だけでなく、髪まで白くなりそうな思いをしたことは、当の本人たちの知るところではない。
「私も忙しい身です。殿の面倒ばかりを見ているわけにはいかないのですから、あまり手間をかけさせないでいただきたい」
 ぶすっとしながら文卓へ座り直した劉備へ、諸葛亮が辛辣な口調を隠そうともしないで言えば、
「それが仕える主に向かっていう言葉か。鬼軍師」
 と言い返す。
「主というのは、臣下に気持ち良く働いてもらえるよう努力してくれる君主のことで、決して事あるごとに政務を投げ出して遊びに行く人のことは指しませんので」
 ぴしゃっと返されると、うぬぅ、と劉備は唸って、投げ出した筆を手にとって、途中だった竹簡への注釈を始めた。
 おや、と諸葛亮は片眉を跳ねさせたが、素直なのは美徳ですね、と微笑んだ。
 部屋の片隅で、妙に青ざめた顔で二人のやり取りを眺めていた馬良へ、諸葛亮は何事かを囁いてから、
「私は少し町に出る用事がありますので、後のことは馬良へ託してあります。お困りごとがあれば何なりと申し付けてください。……もちろん、脱走の手引き以外に、ですけど」
「分かっておる」
 最後の最後まで主を信用しない若い臣下に、劉備は一睨みを効かせて、そのまま目の前の竹簡を親の仇とばかりに睨み付けた。
 諸葛亮から何事かを囁かれた馬良は少し妙な顔をした後、それでも後事を任す、ということを宣言されたので、引き締まった様子で身を正した。
 しばらくは、劉備の竹簡を転がす音と、傍で雑務の手伝いをする馬良の応答だけが続いていたが、開け放していた窓からひんやりとした空気が流れ込んできて、劉備の体を震わした。
「閉めましょうか」
 気付いた馬良が立ち上がったが、それを劉備は制した。
「ですけど」
 戸惑って、馬良はその白い眉を僅かに寄せる。
 暖かい、というが、それは冬にしては、という話だ。実際はまだまだ寒い。日も翳れば暖なしでは過ごせないだろう。
「昔は、もう少し寒さに強かったのだがな」
 呟くように劉備は言って、自分の手へ視線を落として、握ったり開いたりして寒さに悴(かじか)んだ指先に暖かさを取り戻そうとした。
「私が育ったところはここ、荊州よりも北、幽州タク県だ。この位の寒さなど何でもなかったのだが。歳を取った、ということだろうか」
 咄嗟に返す言葉が浮かばずに、馬良は黙り込んでしまう。
「それになぁ、寒さに当てられていると思い出す奴がいるから、嫌いではないのだ」
 にこり、と微笑んだ主の顔に、別に哀愁に浸っていたわけではない、と分かり、馬良は胸を撫で下ろす。
 そしてその余りにも屈託の無い笑顔に、まだ仕えて間もない主だというのに急に親近感を覚え、馬良は何気なく口にした。
「大事な方ですか?」
「ん? そうだな。大事、とは少し違うな。大切、とも違う。そういう懐に仕舞い込んで傷付けないようにするものではなくて……」
 少し考え込んでから、劉備は窓の外を仰ぎ見た。
「例えば、春に霜が降りるように、夏に雷が鳴るように、秋に嵐が吹き荒れるように、冬に雪が積もるように。それとは決して切り離せなく、無くてはならない、常に共にあるもの、かの」
「はあ、言いたいことは何となく分かりますけど、例えが何だか否定的なものばかりな気がします」
「そうか? そう言えばそうだな」
 ええ、と馬良が真面目な顔で頷けば、劉備は楽しそうに笑いだす。その子供のような笑顔に、外の寒さも忘れるような暖かさを胸の奥に感じる。
「会いたいの〜」
 ひとしきり笑った後、劉備はぽつり、と呟いた。
「僅かの間、離れただけだというのに、もう幾年も会っていないかのようだ」
 その言葉を聞いて、馬良は諸葛亮に囁かれたことを思い出す。

『殿が誰かを想って会いたい、と呟いたなら、こう告げなさい。やる気を取り戻しますから。それで政務が終わったなら後はお好きにさせて差し上げなさい』

 このことか、と馬良は察して、劉備へ切り出す。
「あの、そういえば殿。関将軍がそろそろこちらに到着されるそうですよ。政務が終わったなら迎えに出ても良い、と諸葛亮殿がおっしゃってましたけど」
 そこから先、馬良は仙術でも見せられているかのような思いで、劉備の処理能力を見せ付けられ。
 行ってくる、という言葉に、行ってらっしゃいませ、の言葉も、護衛を、の言葉をかける暇もなく見送る羽目になり、後で諸葛亮にこっぴどく叱られることになる。
 もっとも、諸葛亮とて呆れ顔半分、笑い顔半分の顔ではあった。

「う〜んちょ〜」
 まだ残る雪を掻き分けながら走ってくる義兄の姿を見つけ、字を呼ばれた関羽は目を見張り、慌てて赤兎馬を駆け寄せた。
「兄者、このような格好で! どうされたのです」
 裾をすっかり雪で濡らして、慌てて来たのだろうか。暖かい日中と言えども薄着である。関羽は急いで赤兎馬の背中へ劉備を引き上げて、自分の前へと座らせる。
「……ん、暖かいの。やっぱり寒い時は雲長の腕の中だな」
 幸せそうな声で呟く劉備へ、何だか理由を聞き出しても仕方がない気がしたのは、もう長い付き合いだからだろうか。
「なあ、雲長」
「何ですか、兄者」
 体の前で響く人の声がひどく心地よい。
「雲長にとって、私は何だろうな」
「はて、どうしました、急に」
「いいから」
「そうですな……」
 赤兎馬がさくさく、と雪を掻き分けていく。
「小春日和、ですかな」
「その心は?」
「どんなに寒いときでも、暖かい日があるのだ、いつかは春が来るのだということを思い出させてくれる、そんな希望であり、常に傍にあって欲しい存在です」
 からかわれるか、とも思ったが、関羽は正直に答えてみた。
「お前のほうが、情緒があるの」
 しかし劉備はなぜか不機嫌そうに呟いて、関羽の鬚を引っ張った。
「だが、私としては不満だ。常に傍にあって欲しい、のではなく、常に傍にあるのだ。分かったな?」
「御意」
 からかわれるのではなく、それ以上に頬を熱くさせる言葉で劉備が返すものだから、関羽は背筋を伸ばして短く答えるので精一杯だ。

 劉備が急いで片付けていった政務の後処理をしながら、諸葛亮は小さく笑う。
「素直に机に向かったのは、歯向かう元気もなかったからですか。それでも、あの方が帰って来る、と知れればこの現金さ。我が君ながらどうにも愛らしい」
 くすくす、と諸葛亮は一人で笑う。
「今日は妙に暖かいですね。ええ、暑い暑い」
 文句を言いつつもどこか諸葛亮は楽しそうだ。
「あの方が殿の飴なら、私はしばらく鞭でも大丈夫ですかね」
 陽射しの柔らかい窓辺で、諸葛亮は目を眇めて、仲良く帰って来るはずの二つの影を思い描いて、また一人で笑うのだった。



 おしまい





 あとがき

 出ました、突発季節もの小ネタです。
 これにて水魚で春夏、関劉で秋冬完遂!
 そんなわけで、珍しく二人きりでなく登場人物を多くしてみました。
 諸葛たんは、関劉を見守る小姑(?)でした。
 それはそれで、彼は幸せなのです(笑)。




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