「甘い悲鳴」 微エロ10のお題 5より 許チョ×曹操 |
たった一度だけ、曹操に命じられてその身体を抱いた。男を抱いたことは初めてで、欲情した自身が不思議でならなかった。男に対して、というよりは、曹操相手に欲を覚えている自身が不可思議だった。 再び欲情を抱いてしまったら、と許チョはゆっくりと首を横へと振り、静かに呼吸を繰り返す。吐いて、吸って、また吐く。大丈夫だ、いつも通りだ。いつもの自身と変わらない。己とあの人の間には何もなかった、普段通りでいいのだ。大丈夫。二度と覚えることの無い感情に惑わされてはならない。 言い聞かせて、戸が開くのを待つ。今朝はどうだろう。昨晩は遅くまで起きていたらしい、と先ほど替わった部下が言っていた。少しいつもより起きるのが遅れるだろうか。その方が良い、と過ぎった思いに、己がまったく覚悟出来ていないことに気付かされる。 顔を合わせ辛い、ということか。 こんなことは曹操に仕えて初めてだ。許チョが曹操の臣下に加わった頃は、昔からの力自慢と武力を買われてのことだったが、その後、曹操の近衛を務めていた典韋が死に、その役目を許チョが受け継いだ。 良く働き、良く悩み、笑い、泣き、勝ち、負ける人だ。そんな曹操をもっとも近くで守れる任務が喜びだった。生き甲斐だった。 様々なことに枝葉を伸ばし、思考を拡げていく曹操と違い、許チョは一つのことを正面から受け止め、考えることしか出来ない。だからこそ、たった一人を守る、という一つのことを愚直なまでにやり通すことに向いていた。 曹操から曇りの無い寵愛を受けていることに対して、役目をこなすことで答えている。虎痴、と曹操だけが呼ぶ自分の二つ名がいつしか誇りになっていた。殿、と許チョだけが呼ぶ曹操の尊称がこそばゆかった。 ただそれだけのはずだった。 悲鳴が木魂していた。 許チョの体の下で、曹操が悲鳴を上げていた。 甘く響く、身体の芯を爛れさすような熱を持つ、甘い悲鳴が耳の奥で木魂し、許チョのほとんど表情のない面容が憂いを帯びた。許チョの胸裏が表面に漏れることは珍しいが、恐らく見た者が居たとしても、微細過ぎて気付く者はいなかっただろう。 どれくらい、戸の前で佇んでいただろうか。気が付けば日は高くなりつつあった。 幾らなんでも遅いだろう。曹操は忙しい。今日の予定というのをもちろん許チョは把握していたが、いつも綿密に確認はしない。思い立つと即日実行する曹操の予定など、あって無いようなものだ。いちいち細かい警護予定など立てていたら、対応できない。 今日は急ぎの案件を幾つか片付けたら、軍の演習を見に行く、と聞いていたが……。 許チョは迷わずに戸を開け、寝所へ続く次ぎ間に向かう。曹操からは寝所への出入りを許可されている。いざと言うときに許チョがためらわないため、という配慮はもちろんだが、曹操がそれだけ許チョの存在を許容している、という後者の意味合いが強かった。 殿、とそれでも寝所の戸を開けるときは一声かけた。返事はなく、許チョに返事を待つ気も無かった。 開けて――安堵した。 静かな寝息を立てて寝ている。 ただの寝坊だったようだ。久しぶりに曹操の穏やかに眠る顔を見た。赤壁での敗戦以降、眠れない日が続き身体を壊しかけていた頃、うなされる曹操の寝息を背中で感じては心を痛めていた。 眠れない日々のせいだったのか、熱を持て余した曹操は許チョへ命じたのだ、抱いてくれ、と。命令のままに抱くうちに、欲情の果ての命ではなかったことに気付いた。曹操は大敗を味わったことから逃れようとしていた。その手段を許チョへ求めたのだ。 構わなかった。自身が曹操の役に立つのなら答えたかった。ただ、逃避の中に潜む自死だけにはどうしても従えなかった。疲れているせいだ、と痩せてしまった曹操の身体を抱きながら、声にせずに訴えた。 訴えは届き、曹操は少しずつ立ち直った。あの頃に比べれば、今はすっかりと健康そうな顔色で、改めて許チョは安堵する。 「殿……」 枕頭に跪き呼びかける。せっかく寝入っているところを起こすのは忍びないが、起こさなかった場合は叱ってくるだろうし、何より寝坊した遅れを取り戻そうとばかりに、また夜遅くまで政務に励んでしまう。 「殿、そろそろ起きませんと」 低く唸って曹操が身じろぎ、目を開けた。目覚めは良いほうの曹操だが、よほど深く眠っていたのか、珍しくもぼんやりした目付きで許チョを見やった。腕を伸ばしてきたので、助け起こすつもりでこちらも腕を差し出したが、縮まった距離に少し前ならば有り得なかった躊躇が生まれ、動きが止まる。曹操に触れて欲を覚えてしまうことを恐れたのだ。 唇に何かが触れた。許チョが静止した僅かな瞬間の出来事だった。何をされたかは明白で、避けようと思えば避けられた。不義を承知で支えかけた曹操の身体を放り出すことも出来た。 しかし――受け止めた。 「……殿」 「んー?」 今の意味を問いかけるように呼んだが、曹操はまだ薄ぼんやりした眼差しで許チョを眺めている。寝ぼけていたのだろうか。 「もう、昼近くですが……いかがなさいますか」 今度こそ背中に腕を回して上肢を起こさせる。近くなった曹操から肌の匂いと体温を感じ取り、先ほどの唇に触れていった曹操の唇と合わさり、許チョの表情をまた憂えさせた。 「……どうした、虎痴?」 普段の語調とはかけ離れたゆっくりとした調子で、曹操が許チョの頬に触れて首を傾げた。許チョの些細な変化を見つけ出すことにかけては、曹操の右に出るものは居なかった。いえ、と憂いは大したことではない、と否定する。 「お起きになりますか」 「ん、そうだな……昼近く、と言ったか? 今日の予定が台無しだな」 ようやく本当に目が覚めてきたようで、曹操の口調が常に近くなってきた。寝台から下り、寝衣の帯に手をかける。許チョは拱手して退室しようとするが、曹操が呼び止めた。 「なあ、虎痴」 「はい」 「どうしてさっき、避けなかった?」 許チョの驚きが内面から溢れていく様を見て、曹操の面容が楽しげなものへ変化する。 「分かりません」 「……お前のその返事は、本当に珍しいな」 「申し訳ありません」 明確な答えを示せない己に恥じ、俯くが、曹操に顔を覗き込まれた。 「大丈夫だ、私も分からなかった」 小さく曹操が笑って、再び顔を寄せてきた。 今度もまた――避けられなかった。 微妙にお題に添えていないような気も。 北方、今読み返すと一人一人の人物に悶えそうで、読み返すのが怖いです(笑)。 うーん、ちゃんと続編、書きたいですね! |
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