「掠れた声」
  どきりとする10のお題 8より
許チョ→曹操(夏侯惇×曹操)


 冬の寒さが和らぎ、春の暖かさが身を包む季節になってきた。
 夜半を回った時刻、曹操の私室前で警護に当たる許チョは、その穏やかさに心を和ませた。
 同僚は虎痴だ、と馬鹿にするが、それは戦場、特に許チョの敬愛する曹操を守るときはその鈍重そうな見かけとは裏腹の、俊敏な虎のような勇猛さを発揮するため、畏怖も込められているのだ。
 許チョも同僚たちが悪意を込めて呼んではいないことは重々承知はしていたので、腹も立たなかった。
 ただ、何を考えているのか分からない、と言われることだけは、戸惑った。
 そんなことはない。
 確かに深く物事を考えるのは苦手だ。特に許チョの愛する主のように、様々なことに目を配り、心を広く柔らかく保ち、その上で果断に行動し、幾重にも策を巡らすなど(もっとも、曹操のような真似が出来る人間自体、滅多に存在しないのだが)、出来はしない。
 それでも、こうして季節の変わり目に心を動かされ、そして悩みもある。
 自分があまり表情を作ることが上手くないだけで、心の中はいつも様々な感情が溢れている。
 今もこうして一人で警護に当たりながらも、解決の糸口が見えない悩みに心を痛めていた。
 もちろん、任務は任務として神経を張り巡らせていた。
 特に袁紹との戦が本格的になってからは、許チョの精神は昂ぶるばかりだった。
 それは己自身がどうの、というより、曹操の触れ幅に揺さぶられ、穏やかでいられないからだ。それが自然、普段よりも許チョを過敏にさせる。
 だから当然、もう人など訪れる時刻ではないのに、静かにやってきたその人に、いち早く気付いた。
 暗闇から隻眼、という強面に似つかわしくない、いつもと同じ微笑みを浮かべた夏侯惇が篝火の中へと姿を現した。その前から、出迎える体勢を整えていた許チョを見て、夏侯惇は笑みを深くした。
「さすがだな、許チョ。お前以外であの距離から私に気付くものはいないぞ」
 褒め言葉に許チョは無言で拱手して、返礼とした。
「毎度、殿はお前のときは遠慮せぬなあ」
「……」
「それだけお前を信頼している、ということか」
 拱手して俯いたままの許チョの肩を、夏侯惇が軽く叩いた。
 曹操の今回の戦への昂ぶりは、許チョから見ていてもどこか痛々しいもので、しかしその痛みをどうしても許チョは和らげることが出来ないのだ。
 それが出来ないことが悩みで、そして悔しかった。
 だから、思わず口を開いていた。
「将軍……」
「何だ」
 そのまま私室へ入ろうとしていた夏侯惇が振り返った。
「頼みます」
 自分では、曹操の痛みをを和らげることは不可能だが、夏侯惇ならできる。そして今夜はそれをしにやってきたのだ。
 そう知っている許チョは思わず口に出していた。
「ああ、分かっている」
 間髪入れず返ってきた言葉に、迂愚なことをしてしまった、と反省した。許チョが言うまでもなく、夏侯惇は曹操のことを理解しているし、支えようとしているのだ。
 その誰も入り込めない関係に口を挟んだ格好になった自分が恥ずかしかった。
 恥じた許チョを感じ取ったのか、夏侯惇が近寄ってきた。
「あのな、殿はある意味で、私よりお前を信頼しているのだから、気にするな」
 ぽんぽん、とまた今度は二回も肩を叩かれて、その言葉の意味を問い質す前に、夏侯惇の姿は部屋の中へ消えていった。
 ぼんやりと、今の言葉の意味をしばらく考えていたが、部屋から漏れ聞こえる声に思考は絶たれた。
「……っげ、んじょ」
 濡れた曹操の呼び声が、中の出来事を克明に告げる。
 何度聞いても慣れないものだ。
 むしろ、聞くたびにおかしな気分になってくるので、いつからか許チョは私室の前から離れ、庭先で警護することにしていた。
(明日は……朝議が入っていたな)
 ふと曹操の予定を思い出し、許チョは跪いて、地面を探り出した。



 空が白み、次第に霞を晴らすように太陽が昇った。それらを庭に立ち尽くしたまま迎えた許チョは、私室の戸が開く気配を感じ、拱手した。
「良い天気だな、許チョ」
 降ってくる声が掠れていた。
 それが何のせいか、良く知っている許チョは、俯いたままの顔が熱くなった。声が掠れるほどに事が及ぶことは滅多にないが、ここ最近の曹操の様子からは、そうなるであろうことは察しがついた。
「おはようございます、殿。今、薬湯を運ばせます」
「……? なぜだ」
「今日は朝議が入っておりますから、咽が辛かろうと」
 春の訪れと共に芽を出し始めた、咽の痛みに効く薬草を庭先から見つけ出し、侍女に先ほど薬湯を頼んでおいた。
「ああ、そうか。お前は何でもお見通しだな」
 楽しそうに笑う曹操に、ここ最近の影がない。そっと顔を上げれば、機嫌良さそうに鬚を扱いている。
「殿、そのような薄着では。まだこの時刻は冷えます」
 奥から夏侯惇がやってきて、曹操の肩へ上衣をかけた。
「全く、お前たちは気が利くのか過保護なのか」
 許チョと夏侯惇、交互に見やりながら、曹操は呟く。その頬が少し赤いのは朝焼けのせいだろうか。
「殿の心痛を取り除くのが我々の仕事でありますゆえ。なあ、許チョ」
 頷く。袁紹との戦は苦しいもので、曹操は随分と苛まされていたようだ。大胆なようであり、どこか脆いところがある曹操は、旧友であり大敵である袁紹相手に気が張っているのだろう。
 そのことに側近でも気付いていたのは夏侯惇と、近衛として傍に長く身を置いている許チョぐらいだったのではないだろうか。
 そういう、曹操が弱ったときは必ず、と言っていいほど夏侯惇が呼ばれ、朝まで睦事が行われる。そして、その時は必ず許チョが夜番なのだ。
「ですが、あまり許チョばかりをこういうときに使わせるのは感心しませんよ」
「分かっておるが、許チョ以外がお前とのあれを聞くとなると、落ち着かん」
「そうでしょうが」
 照れ隠しなのか、ぶっきら棒に答える曹操に苦笑した夏侯惇は、意味ありげに許チョへ目線を投げたので、許チョは小さく笑った。
(だから、言っただろう。殿はお前を信頼しているのだよ)
 そんな夏侯惇の声が聞こえた気がした。
 許チョはまた黙って拱手することで、返答とした。
 あまり感情を上手く表せない己の、精一杯の礼だったが、察しの良い二人なら、これだけで何を意図するものか分かるだろうか。
 分かってもらえたらいい。
 そう思いながら、春の朝の中で、許チョは心が和んでいった。



 了





 北方三国志のつもり。あきらかに失敗。



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