「濡れた眼差し」 どきりとする10のお題 10より 夏侯惇×曹操 |
小さく嘆息をつく。 そっと視線を逸らして、己の欲からも意識を逸らす。 「元譲……」 呼ばれた字に籠もった熱が夏侯惇の体を熱くさせる。 「丞相、お止めください。明日がどのような日かお分かりでしょう」 その小柄な体から身を離す。 「だからなんだというのだ」 杯に並々と注がれた酒を一気に飲み干した曹操は、ふん、と小さく鼻を鳴らす。 注げ、と夏侯惇へ空になった杯を差し出す。 ゆっくりと頭(かぶり)を振って、掌で杯を下ろさせる。 「お酒も、召し過ぎです。控えませんと明日に響きます」 じとっと、恨みがましい眼差しを突き付けられる。 「なんだ、さっきからお前、つまらんことばかりを言いおる。まるでわしの臣であるかのようだ」 苦笑する。 「その通りではないですか。私は貴方の臣ですよ?」 「その口調、その態度、固い! 今は二人きりなのだぞ。どうしていつものように砕けない」 「そうはおっしゃいますが」 口元の皺を深くする。 困ったものだ。 普段、曹操は絡むような酒は飲まないのだが、今夜はどうも様子が違う。むしろ絡み酒というよりは、まるで幼い子供が駄々を捏ねているかのようだ。 なのに、その全身から、自分で酌をする手付きから、こちらを上目遣いで睨むようにしている眼差しから、子供では決して醸せない色気を出しているのだから厄介だ。 酒を呷るために仰向いて剥き出しにされた白い咽が、夏侯惇の逸らしたはずの意識を引き戻させてしまう。 ごくり、と音を立ててまた一気に酒を飲んだらしい曹操の咽仏が上下するのが、艶態を匂わせて、夏侯惇は手元の杯に視線を落とした。 また手酌をしようとした曹操の腕を伸ばして留める。 「お控えください。もう充分に酔っておられるでしょう」 「元譲っ」 今度は怒気が含まれている。しかし癇癪を起こす曹操の扱いには慣れている。平然と聞き返す。 「不服ですか」 「当たり前だ、もっと飲ませろ!」 「違います。貴方が魏公へとなられることが、です」 途端、夏侯惇を睨み付けていた瞳に動揺が走った。 ああ、素直だ。 元々、曹操は感情表現が豊かだ。それを普段は政治、軍事の面で有利に立つためにやや御している部分がある。しかしそれも、親しい人の前や味方、と思った人間たちの前では反動でもあるかのように、機微が読みやすい。 ましてや夏侯惇は曹操を子供のころから知っている。 たとえ曹操が公の場で感情を制御しているときでも、どう感じているか分かる。 もっとも、感情は分かっても、思考までは理解できないのが、夏侯惇が曹操に敵わないな、と羨望を含めた気持ちを抱く所以であるが。 「不服、ではありませんね。不安ですか」 今度は曹操の方から視線を外した。 落とした視線はどこを見ようとしているのか、空になった杯をただじっと見つめているだけのようにも思える。 明日行われるのは、曹操の魏公への儀式である。 朝早くから準備をしなくてはならず、遅くまで酒を飲んでいたり、ましてや情を交わすような真似など出来るはずもない。 しかし夏侯惇は曹操に呼ばれ、酒の相手をさせられている。そして夏侯惇さえ乗ってしまえば、いつものように牀も一緒にすることになろう。 「国公ですか。その位を賜るのは、王莽(おうもう)以来らしいですね。あの董卓でさえ相国であったのに」 「……」 「荀ケですか」 びくっと、曹操の杯を握る手が震えた。 我が張子房、とまで称えた曹操の片腕。そう、血縁関係を除けば、間違いなく曹操の一番身近にいた人物だ。 曹操が国公につくのに反対し、二人の間には溝が出来ていた。その矢先に、荀ケは死んだ。 世の人々は当然のように曹操が殺したのだ、と囁いた。それを否定も肯定も曹操はしていない。真相は恐らく曹操にしか分かるまい。ただ、夏侯惇は曹操が彼の死を心から悼んでいるのだけは知っている。 彼の死の知らせを受けて、曹操が一人部屋に籠もって泣いたのを知っている。 部屋は沈黙が支配していた。 夏侯惇は曹操が何かを言うのをただ黙って待った。 「怖いのだ」 ようやく、ぽつり、と曹操が呟いた。 「わしが大きく進もうとすると、必ず何か進んだ分、それと同じくらい大きなものを失う。苑城を手に入れたとき、悪来や曹昂が。袁家を制し河北を平定したときは郭嘉を。荊州を手に入れたときは大敗を。今回は文若だ」 誰かは言うかもしれない。 世は常に陰陽であると。光があれば影が生まれ、陰があるからこそ、陽があり。得るものがあれば、失うものがあるのが道理であると。 しかしそれが曹操に通じるか。 実際に失ったものがある人間への慰めになるのか。 「では、お前は怖いからと言って足を止めるのか」 杯を握ったまま震えている曹操の手を両手で覆った。 眼差しが夏侯惇を射抜く。 迷いはない。 「いいや」 答えた声にも微塵も滲んでいない。 「失うのは怖い。いくら失っても慣れん。だが、歩みを止めることは絶対にしない」 覆った手はもう震えていなかった。 「それでこそ、俺の知る曹孟徳だ」 微笑んだ。 一時の気の迷いも、芯を決して揺らしはしない。 小柄な身体のどこにそのような力が秘められているのか、夏侯惇はいつも不思議だった。汲んでも汲んでも湧き続ける泉のように、曹孟徳はどこまでも曹孟徳なのだ。 「だが、もしも……」 しかし不意にその力強い双眸に弱さが過ぎる。 「もしも失うものがお前であったなら」 大きく瞬かれる両目が濡れていき、夏侯惇を見つめる。 心臓が締め付けられたような気がした。 もう視線を外すことなど不可能だ。 「元譲、お前であったなら……」 弱さを吐き出そうとするその唇を、己の唇で塞いだのは何のためだったろう。 曹孟徳らしからぬ言葉を聞きたくなかった、臣である心からか。 それとも、自分を想ってくれるその心が嬉しくて抑え切れなかった、想い人である心からか。 からん、と空の器が曹操の手から音を立てて落ちていった。 新しい試みの最中な惇曹。 |
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